第六十六話「彼氏」
元山で別れる際、美煐が唐突にぼくに接吻をし「待っているから」と発言した時、彼女がぼくに対して好意を抱いていることには当然気づいていた。しかしいきなり求婚されるとは思わなかった。朝鮮人とはかくも大胆なのか。
結局ぼくは美煐を受け入れることはできず、ただひと言「ごめんね」と謝ることしかできなかった。それで彼女を傷つけてしまうとわかっていても、会って二週間行動を共にしただけの女性を生涯の伴侶にする気には正直なれなかったし、自分の気持ちを偽って、言うなれば彼女を欺いてまで一緒に暮らす気にもなれなかった。
失恋した美煐はその場で泣いて立ち去ってしまうかと思いきや、意外と気丈なのか、「じゃあ彼女にしてください」と食い下がってきた。それでもぼくが断ると「じゃあお友達から」とさらに条件緩和してきたので、それならいいよと受け入れると、望みが繋がったと思ったのか、無邪気に喜んでいた。両親の死を乗り越え、自らの死の恐怖も乗り越え、いつの間にか不屈の精神力を身につけていたのかもしれない。今思えば最初の求婚は実はふっかけで、本命はまずぼくの恋人になることだったのではないか。だとしたら、とんだ食わせ者である。
「しかし、前から思ってたんだけどね、美煐。友達としてのそのフランクな口調で『ヒデル様』って、少し違和感あるよ」
ぼくの指摘に意表を突かれたのか、美煐は眼をぱちくりさせ、しばらく黙っていた。
「でも。ヒデル様はワタシのご主人様なので、最上級の敬意を払って呼ぶべきと思う。組織の皆々様が、あの御方を《偉大なる太陽》《ヒヅル様》と呼ぶように」
ようやく日本語での会話に慣れてはきたものの、美煐の日本語はイントネーションもそうだが、言葉選びもかなり独特である。しかし数ある言語の中でもかなり難しい部類とされる日本語を、《人工全能》でもない美煐がこの短期間で会話できるレベルまで昇華したのは賞賛に値する。ぼくも白金機関に入ってからの訓練プログラムで国外へ飛ばされ、各国の言語、文化、風土を学んできたが、移民として異国の社会に溶けこんで暮らすのがどれほど大変なことか。
「うーん。それなら言葉遣いも」
「まあ別にいいじゃん、兄貴。細かいことは気にしなくても。それはそれで可愛いと思うし。ね、美煐ちゃん」
ぼくが唸っていると、通路の反対側の席に座っていた星子が朗らかな笑顔でそう言った。
「えへへ。そうでしょ」美煐はまるでアイドル・スターのように愛くるしい仕草で頬に指を当てた。
相も変わらずこの兄と同居している我が妹星子も、新たに使用人として配属された美煐のことは当然知っている。前任者の藍川月香の時同様初めは警戒心を剥き出しにしていたが、美煐はすぐに星子の敵はぼくの敵であると女性特有の読心術で察したのか、星子を《妹様》と呼んで持ちあげ、徹底的に尽くした。結果今では星子もすっかり心を許し、仲の良い女友達という感じになっている。ぼくとしても星子と美煐の確執は望んでいないので、正直ありがたかった。なお星子は美煐がこの兄と同年齢であるという事実を知らないため、自分よりも若い――そう、高校生くらいの少女だと思っているに違いない。
「で、宗一郎君といったか。星子は当然として、なぜ君までついてくるのかね」
ぼくは頭を抱えて言った。
「まあまあ。お義兄さん。そう言わずに。いずれ挨拶に行こうと思ってたんすよ」
星子の隣の窓側の席で、肩口あたりまで伸びた茶髪にピアスといういかにも今風の細身の男が、あからさまな作り笑顔でぼくに手を振っていた。
「君にお義兄さんと呼ばれる筋合いはない」ぼくは仏頂面でわざと刺々しい口調であしらった。
「ま、まあまあまあまあ。そんなこと言わずに。ほら、星子。黙ってないでナントカ言ってくれよ」
露骨に眉を顰めてそっぽを向くぼくに対し、宗一郎は苦笑いを浮かべて星子に哀願した。ふん。今時の甘やかされた若造は女性に頼らなければ挨拶のひとつもできんのか、と、ぼくは年寄りじみたことを考えていた。しかし無理もない。ぼくも今年でもう二十七歳。立派なアラサー男子である。
「んー。まあ、兄貴けっこう気難しいからね。気長にいくしかないんじゃないかな」
「まいったなあ」
星子に突き放された宗一郎は、頭を掻きながら気まずそうに視線を右往左往させていた。理不尽と思うか、若者よ。しかし君はこれから数えきれないほどの困難に遭遇するだろう。そんな中、君は男として星子を守らなければならない。朱井星子はこの白金ヒデルの妹、そして《偉大なる太陽》の義妹である。彼女の安全には万全を期しているが、相手は秘密結社ヘリオス。ありとあらゆる《想定外》に備えなければならない。戦場では理不尽が当たり前。生き残るために必要なのは、まず何よりも、生きようとする意志、守り抜こうとする意志、最後の最後まで理不尽を跳ねのけ、あがき続ける、ガッツなのだ。我が師の教えである。
そもそも今回の小旅行は、仕事の息抜きとしてひとりで北海道の大自然の中でのんびりと過ごし、さらに北朝鮮から帰国してまだ一度も会ってないネオ夕張在住のアルマに顔を見せに行こうと思っていたのだが、美煐に強引に連れて行くようせがまれ、美煐が行くなら私もと星子が、さらに星子が行くなら俺もと宗一郎までもがついてきた次第である。星子に男ができたという話は以前から知っていたが、実際に会ったのは昨日が初めてであった。彼のフルネームは七五三田宗一郎。星子の所属する白金大学のテニスサークルの先輩……の友達で、合コンで知りあった星子にひと眼惚れしたらしく、宗一郎の方から告白してきたという。無理もない。星子も先日誕生日を迎え二十二歳。多少派手さは残っているものの、無垢であどけなかった少女は、色香の漂う大人の女性へと成長を遂げた。悪い虫が寄ってくるのも星子が魅力的である証左。
羽田から新千歳空港までは二時間弱を要した。ぼくたちは空港を出ると、すぐ近くにあったレンタカーショップにて白の日産リーフを借りた。先日冬のボーナスで買った純白のブガッティ・シロン(三億円)で北の大地を走るのもよかったが、生憎二人乗りであった。新型日産リーフはガソリンを一切使わない新型の電気自動車だが、《日本革命》以降充電スタンドの普及が全国各地で急速に進んだため、今やガソリン車と同じ感覚で利用できる。昨年から一般向けに発売された飛行自動車を借りることもできたが、今回の旅は普通車でのんびりと進みたかった。
アルマのいる工業都市ネオ夕張までは約五十キロメートル。北海道では隣町へ行くのに何十キロメートルという山道を走るなんてざらで、車はまさに生活必需品と言っていい。自動車税完全撤廃という偉大なる姉さんのお心遣いの賜物か、街のあちこちで新型の電気自動車を見かける。ネオ夕張は白金グループが巨大な工業都市を築いたおかげで景気もよく、もはや夕張市が破綻した頃の暗澹とした空気はなかった。
しばらく山道を進んでいると、まるで豚の大群が一斉に放屁したような喧しい空吹かし音を立てながら、十台ほどのバイクがぼくたちのリーフを取り囲んだ。
前に割りこんできた二台のバイクが急に減速し、仕方なくぼくは車を路肩に止めた。一瞬アクセルを踏みこんで轢き殺してやりたい衝動に駈られたのだが、星子や美煐もいる手前控えることにした。
いくら日本が《日本革命》によって栄えたと言っても、犯罪件数や失業率をゼロにすることは未だできていない。好景気によって犯罪自体は減り、最先端監視システム《全能眼》の導入で犯罪の検挙率は飛躍的に上がったが、それでも犯罪をなくすことはできないのだ。
常習的犯罪者に更生の余地などない。聖職者や法律家がいくら道徳を説いても彼らを改心させるなどできはしない。屑はいつまで経っても屑だ。連中を巨額の税金で飼育するくらいなら、体罰を復活させるべきである。盗みの常習犯は盗みを働く手を、性犯罪者は性器を切り捨ててしまえばよい。いや、生きてても害にしかならぬ根源的犯罪者は速やかに死刑にするのが世の中の善良なる臣民たちのためである。
ぼくが無意識に汚物を見るような眼で連中を見下していると、美煐がぼくの上着の袖を引いた。
「行こう。ヒデル様。関わっちゃだめ」
特に怯える様子もなく、美煐は取り澄ました顔で先ほど空港で購入した旧ソ連国旗の鎌と槌のシンボルマークが中央にでかでかと描かれた《赤い恋人》なる北海道を代表する銘菓をざくざくと食べ始めた。北朝鮮の精鋭《千里馬部隊》に襲われ、銃弾の雨の中から生還した美煐にとっては、そこらの破落戸など取るに足らぬ存在ということか。あるいは、ぼくの傍だからと安心しきっているのか。
「おい待てよ。お嬢ちゃん」
にやけ面をしたモヒカン頭の痩せこけた男が、こちらへ近づいてきた。そしてこんこんと助手席の窓を指で叩き、扉を開けるように促した。その手には、ところどころ錆びてぼろぼろの鉄パイプが握られていた。
「ひゅーひゅー。お嬢ちゃんたち。こんな平日の真っ昼間からデエトかい」
「なまら可愛いべや」
「んなもやしみたいに細っこいやつらなんてほっといてさ、お兄さんたちとちょっと遊んでいかないかい。いっひっひ」
「何こいつら。うざ」
星子が嫌悪感剥き出しの顔でぼやいた。そんな我が妹とは対照的に、宗一郎の顔は完全に青ざめ、その華奢な両肩は小刻みに震えていた。何と情けない。そんなことで星子を守れるのか。
いくら世のため人のためとは言え、ぼくが先に手を出して社会の屑どもにこの場で正義の鉄槌を下せば暴行罪および傷害罪、向こうから手を出してきても殺してしまえば過剰防衛。まったく我が国の司法ときたら、犯罪者を保護しているようなものである。ぼくたち白金機関が命を賭して勝ち得た平和と繁栄の上に、胡座をかいて生きる下衆。こんな連中を守るために星も雲母も忍美も死んだのかと思うと、やりきれなくなってくる。
しかし臣民の模範たる国家公務員、それも国家統合情報局秘密情報部副主任であるぼくが、進んで法を犯すわけにもいくまい。ここは法の番人に任せるとしよう。
ぼくはポケットの中からスマートフォンを取り出し、日本国内モデルの全機種に実装されている緊急通報アプリを起動した。するとGPS情報がただちに警察のサーバーに送られ、街の至るところに仕掛けられた顔認識監視カメラが瞬時にこちらを向き、人工知能IRISに映像を送る。そしてIRISは現場でどんな犯罪が起きているのかをビッグデータから判断し、最寄りの警察署に位置情報と犯罪の状況、犯罪者と被害者の数といった情報をすべて映像で送る。ここまでの所要時間、実に三秒。そして警官たちはすでに実用化され配備された《飛行単車》に跨り、障害物を飛び越えて時速三百キロで文字通り飛んでくるのだ。
「くそ。お巡りを呼びやがった。逃げるぞ」
チンピラたちは蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。
十秒ほどすると飛行単車に乗った警官たちが駈けつけ、ネットランチャーを発射、一瞬でチンピラたちを捕獲してしまった。
「恐喝の現行犯で逮捕する」
網の中に押しこめられたチンピラたちは漁獲された魚のようにじたばたともがきながら、飛行単車に吊り下げられ、警察署に連行されていった。しかし警察の力が大幅に強化され犯罪検挙率が急上昇した影響で、今度は裁判所や刑務所の不足が問題視されている。早いところ常習的犯罪者強制死刑法案を可決していただきたいものである。
星子と宗一郎の仲はぼくが思っていた以上に良く、観光地へ行っては一緒にはしゃぎ、あちらこちらで写真を撮るなどしていた。その姿は誰が見ても仲睦まじい若いカップルであった。もう星子も二十二。男がいたっておかしなことではないし、それに関して兄としてどうこう言うつもりはない。しかし……
「ちょっと宗。やめてよ、こんなところで。兄貴たちも見てるじゃん」
「よいではないか。よいではないか」
この宗一郎という男、人眼を憚らずに星子に抱きついたり接吻したりとやりたい放題であった。
星子が宗一郎を完全に拒絶するわけでもなく、仕方ないなと不承不承受け入れていたのも、ぼくの憤怒の火に油を注いだ。が、星子と美煐の前で宗一郎を怒鳴り散らすわけにもいかず、さりげなくありったけの殺意をこめた視線を送るも気づかれず、宗一郎の公然猥褻は続いた。
すっかり日も暮れ、ぼくたち一行は予約しておいたネオ夕張の温泉旅館に辿り着いた。
美煐と星子が仲よく入浴しに行った隙を見計らい、ぼくは宗一郎を旅館の外の山林に連れ出した。
「お義兄さん。何すか、大事な話って」
ぼくは無言で宗一郎の襟首を鷲掴みにし、木に叩きつけた。
宗一郎は肺を圧迫され「かは」と息を洩らし、何が起きたのかわからない、何故こんなことをするのか、と言わんばかりに、茫然としていた。
「てめえ調子に乗ってんじゃねえぞ」
ぼくは低い声でチンピラ・ヤクザの如くメンチを切り、宗一郎を威圧した。
「な、何をするんだよう。警察を呼ぶぞ」
不意を突かれた宗一郎は、動揺を悟られまい、負けまいと必死に虚勢を張り、ぼくを睨み返した。
「警察なんて来ねえよ。ほれ、お前のスマホ」
ぼくの左手には宗一郎のスマートフォンが握られていた。先ほど彼を壁に叩きつけた際に失敬したのだ。
「か、返せ」
宗一郎がスマホに手を伸ばすと、ぼくはすかさず彼の隙だらけのボディに一発、強烈なパンチを叩きこんだ。
「おごえ」
いきなり鳩尾を一撃され、宗一郎はそのまま膝から崩れ落ちて胃液を吐き出し、ついぞ地面に蹲り団子虫のように背を丸め、悶えていた。
何と脆弱なやつか。こんな男に星子を守れるとは到底思えない。
「立てよ。弱虫」
ぼくはありったけの憎悪と軽蔑をこめ、宗一郎を見下し、罵った。
「星子に近づいた理由は何だ。《俺たち》に近づくために星子を利用したのか」
宗一郎の髪をひっ掴んで尋問を始めると、彼はすぐさま怯えた表情で首を何回も横に振った。なおぼくの一人称が変わっているのは宗一郎を尋問するために必要な演技である。相手を威圧する時までかまととぶった《ぼく》では迫力に欠ける。
「な、何の話だよお。何も知らねえよお。勘弁してくれ」
実はぼくは、宗一郎が敵のスパイかもしれない、と、疑っている。
この男、何となく臭うのだ。
根拠はまったくない、単なるぼくの勘なのだが。
もし宗一郎が白であったとしても、こんな軟弱な現代人代表のような男に、星子の身を任せることはできない。ここでひとつ、骨のあるところを見せてもらわねば、星子を嫁にやることなど到底承認できない。この白金ヒデルの義弟は、すなわち《偉大なる太陽》の義弟。この兄が白金機関のエージェントである限り、いつ星子にヘリオスの魔の手が迫るかもわからないのだ。無論そうならぬよう姉さんに頼んで星子には友達を装った護衛をつけているのだが、彼らとて星子のプライベートにまでは踏みこめないし、ヘリオスの刺客がそこを突いてこないとも限らない。
やはり星子の夫となる者は、命に代えてでも星子を守り抜く戦士でなければならない。
ぼくや姉さんが全面的に信頼できる、勇ましく逞しい、漢でなければならないのである。
林道の奥に使われてなさそうな廃屋がある。ちょうどいい。
「とぼける気か。面白い。化けの皮が剥がれるまで、徹底的に可愛がってやるぞ」
ぼくはわざと隙のあるゆっくりとした動作で、十センチ以上も背の高い宗一郎の首根っこをぐわしと掴み、無理矢理立たせた。
宗一郎の脚は苦痛と恐怖でがくがくと震え、小便をちびっていた。
「やめて。よして。やめて。い、命だけは、お、お助けください。ぼ、ぼくはただ。星子、星子さんのこと、ひと眼見た時から、すす、好きで。ただ彼女と一緒にいたくて。り、利用なんかしてないんですよお。信じてくださいよお。うわーん」
とうとう宗一郎は眼尻から涙をぼろぼろと流し、命乞いを始めた。
この男、あまりにみっともなさすぎる。
きっとぼくが命じれば、豚の真似でも何でもするだろう。
こんな情けない男がヘリオスの工作員とは到底思えない。いや、そう決めつけるのは早計か。演技でやっているのだとしたら大した役者である。
すっかり日も暮れ、血のように赤い新月が禍々しい光を放っている濃紺の空の下で、ぼくは廃屋の中に宗一郎を引きずりこみ、小一時間ほど語りあった。