第五十七話「決闘」
金暻秀が命じたにもかかわらず、千里馬部隊はただぼくたちに短機関銃VZ61スコーピオンの銃口を向けて構えているだけで、人形のようにぴくりとも動かなかった。
「おい。何をしている、千里馬部隊……宋赫。この金暻秀の命令が聞けんのか」
金暻秀が鬼のような形相で叫んだ。
「党中央……いや、金暻秀。残念ながら、あなたは朝鮮を導く器ではない。あなたには大局が見えていない。日本、すなわち白金ヒヅルという世界秩序に仇なす反乱分子と手を組み、あろうことか利用され、朝鮮を国際社会から孤立させてしまった。もはや我が国の経済は日本からの支援がなければ成り立たぬほど疲弊し、世界でも類を見ぬ極貧国家へと、転落してしまった。千成沢新委員長こそ、朝鮮を率いるにふさわしい御方。必ずや我らが祖国を繁栄へと導いてくださるであろう」
「何だと」
金暻秀が射殺すような視線を向けると、宋赫の後ろから軍服姿の中年の男が現れ、前に出た。肩の徽章と胸に整然と並ぶ幾多もの勲章が威光を放ち、存在を強烈に主張していた。
男の名は、千成沢。
朝鮮共産主義人民共和国国防委員会副委員長、つまり北朝鮮のナンバー2である。
「千成沢。ヘリオスの手に堕ちたという噂は本当だったか。さっさと犬にでも喰わして殺すべきだったな」金暻秀が憎々しげに言った。
「金王朝は、貴君の代にて終わる。国の今後は儂に任せて、貴君は先代、先先代と共に、生まれ変わりし栄えある新しい祖国朝鮮の姿を見届けるがいい。あの世でな」千成沢は不敵な笑みを浮かべて言った。
「ヘリオスの犬に成り下がって、か」
「そうではない。ヘリオスは我らとともにひとつの世界を作りあげる同志だ。国家同士が資源を巡って争う時代は、終わりを迎えようとしている。朝鮮は世界と融合する。皆が豊かで平和に暮らせる、素晴らしい全族協和の王道楽土を、築きあげるのだ」
「耄碌したか、じじい」
まるで白金機関のような理想を説く千成沢を、金暻秀が嫌悪感剥き出しの顔で一蹴した(なお白金機関の目指す《完全世界》とは異なり、ヘリオスの統治の本質は暴力と恐怖である)。
「そのためにも、まずは金暻秀、貴様のような悪の独裁者を粛清しなければならない。千里馬部隊よ。朝鮮を破滅に導くこの悪王を始末しろ」
千成沢が右手を伸ばし、千里馬部隊に命じた。
びいいいい。
唐突にけたたましい警報機の音が響き渡り、ぼくの隣にいた真茶が苦虫を噛み潰したような顔をした。
左大臣が、壁に設置された真っ赤な非常ボタンを押していたのだ。
「ふん」
金暻秀は鼻で千成沢を嗤った。
「耄碌じじい。ここがどこだか忘れたのか。朝鮮共産党本部、つまりは俺の庭だぞ。いくら貴様が千里馬部隊を飼いならしたところで、ここには俺の命令に忠実な守衛がわんさかといる。じきに貴様らは袋の鼠」
得意げでいる金暻秀を、宋赫が邪悪な嗤いで遮った。
「くっくっく。昨日の晩、我々千派を除いた兵士たちの食事に毒を盛っておいた。今ごろ連中は彼岸の辺よ」
「何だと」金暻秀の顔面が引き攣った。
ぱあんぱんぱんぱんぱん。
一瞬の隙を見て、姉さんが大柄な金暻秀の背後から素早く横に飛び出し、二挺の黄金銃で千里馬部隊に発砲した。
銃士としても超一流の姉さんの高速かつ正確な射撃は、防弾ベストに身を包んだ千里馬部隊隊員五人の顔面のど真ん中を射抜いた。
「金暻秀。我々の共通の敵は、秘密結社ヘリオスのはず。今こそ共闘すべき時ではありませんか。少なくとも今は、我々が戦うべき時ではないはずです。千成沢はヘリオスに寝返った裏切り者。彼をここで処刑するというなら、我々も協力しましょう」
姉さんは涼しい顔で、先ほどまで自分を捕らえ拷問しようとしていた金暻秀に呼びかけた。ぼくと真茶と姉さんの三人で、金暻秀と左大臣、そして千里馬部隊の全員と戦うのは正直厳しい。
「あなたがここで我々と共闘していただけるのなら、先ほどのミサイル発射の件はなかったことにしましょう。そしてふたたび秘密結社ヘリオスという共通の敵を持つ同志として、貴国にはこれまで以上の武器と経済援助を約束します。このままでは、あなたも我々も、秘密結社ヘリオスに謀殺される。悪い話ではないでしょう」
「ふん」
金暻秀が、姉さんに向けていた白頭山拳銃を、そのまま千成沢へと向けた。
「たしかに貴様の言うとおりだ。今は裏切り者の粛清が先だな」
「ありがとう。冷静ですね。やはりあなたを戦略パートナーとして選んだのは正解だったようです」
ヒヅル姉さんが、千成沢を守る千里馬部隊に銃を向けた。
「千成沢。貴様に決闘を申し込む。俺が負ければ、大人しく貴様に王位をくれてやろう。だが俺が勝てば、兵を退いてもらう。朝鮮の王の座は、今まで通り俺のものだ。どうだ。どちらが朝鮮の王に相応しいか、ここではっきりさせようではないか」
馬鹿な。唐突な金暻秀の想定外の提案に、ぼくは頭の中でそう叫ばずにはいられなかった。映画や小説じゃあるまいし、現実の戦場で、しかも圧倒的に優位に立っている状況で、そんな無意味な決闘を受ける間抜けが、この世にいるものか!
「くっくっく。ひよっ子めが。調子に乗りおって。お前に戦いを教えたのはこの儂だ。いいだろう。その傲慢な鼻っ柱を、今すぐに叩き折ってくれるわ」
ぼくの予想とは裏腹に、千成沢は金暻秀の安い挑発に、あえて乗ってきた。