第四十四話「内通者」
当たり前だが「お前内通者だろう」と問われて「はいそうです」と素直に答える人間はいない。口を割らせるためには、肉体的あるいは精神的苦痛を与えたり、薬漬けにして判断能力を弱らせるなど多少手荒な、それこそ拷問と呼べる手を使うにちがいない。痛くもない腹を探られるのにそんなことをされてはたまらないし、まして同じ白金機関の仲間である忍美を、そんな眼に遭わせるわけにはいかない。ついでに真茶も。
「尋問など認めない。我々を尋問するということは、我々を信用できないということ。そんな連中と共闘することはできない」
先ほどの温和で丁寧な態度を一変させ、ぼくは鋭い声で威圧的に、《朝鮮人民解放戦線》の頭目である李永哲に、そう告げた。
瞬時に周囲の空気が凍りつき、しくしくと泣いていた美煐が急に黙りこんだ。
部屋の出口付近、宋泰希の横で背筋をぴしと伸ばしてずっと棒立ちしていたオールバックの刈りあげ、そう、まるで黒電話の受話器を彷彿とさせる個性的なヘアスタイルの青年が、懐に手を入れた。
刹那、時間にしてコンマ零数秒。真茶がポケットの中から小型拳銃トーラス・カーブを抜き、《黒電話》の蟀谷に突きつけていた。
彼の横にいた泰希があわてて腰に下げていた自動拳銃を抜き……
間髪入れずに忍美が泰希の手を蹴りあげ、銃を弾き飛ばした。
「おい、やめろ。正雄、泰希」
李に一喝され、正雄と呼ばれた《黒電話》が懐に入れた手を抜くと、真茶もトーラス・カーブを上着のポケットにしまった。
「尋問は不服かい。金……いや、白金ヒデルさん」
李はまるでこの状況を愉しんでいるように、口角を吊りあげて笑っていた。
そんな彼に臆することなく、ぼくは不遜な態度を露わにして続けた。
「もし我々の中に内通者がいるというのであれば、それはこちらで調査することだ。我らが指導者は若くして日本最大の財閥を築き、《日本革命》を成し遂げた立役者。人を見る眼に関しては、あの御方の右に出る者はいない。仲間を信じるのは結構だが、裏切り者は本当に自軍の中にいないか、今一度確かめてみるべきだと忠告しよう。いざとなれば我々は、あなた方と手を切っても任務を継続する用意がある。お互いを信用できないというなら、同盟など無意味。ここで別れよう」
先任者の無津呂が不在である今、北朝鮮工作部隊の指揮官はぼくだ。真茶や忍美は、言うなればぼくの部下である。ならばぼくは、まず部下の身の安全を確保する責務がある。姉さんならたぶん同じ結論を出すはずだ。
しばらく沈黙が続いた。拉致があかないので、ぼくの方から立ちあがり、切り出すことにした。
「ふむ。仕方がないな。行こう。真茶、忍美」
ぼくがふたりを連れて去ろうとすると、李永哲の隣にいた《黒電話》こと正雄が、ぼくの肩を掴んだ。
「仕方がない、じゃありません。自分たち《解放戦線》のアジトを知られておいて、あなたたちをこのまま帰すわけにはいかない」
抑揚のない冷淡な口調で彼は、そう告げた。
「おい、やめとけ。正雄」
李永哲がドスの利いた声でそう言うと、正雄は一瞬びくりと硬直し、渋々と手を下ろした。真茶もいつの間にかポケットに入れていた手を出した。
「行こうか」
ぼくが出ていこうとした時、「待てよ」と李が引き止めた。
「まだ何か」
ぼくがやれやれと露骨にため息をついて振り返ると、李はようやくソファからその重い腰を上げ、ぼくの方へと歩み寄ってくる。
李は、ぼくに手を伸ばし、ふたたび握手を求めてきた。
「わかったよ、白金さん。尋問はなしだ。ここで仲違いしたところで、金暻秀の糞野郎を喜ばせるだけだ。あんたらを信用する。お互い力をあわせて、やつらに眼にものを見せてやろうじゃねえか」
ぼくは一変して柔和な笑みを浮かべ、李の手を取った。
「あなたが合理的判断のできる方で良かった、李さん。こちらこそよろしくお願いします」
晴れて同盟再締結となり、ぼくたちは《解放戦線》の面々とともに、今後の作戦について協議した。具体的に交わした協定は以下の通りである。
「《党》について得た情報の共有」
「《党》やその他勢力に襲撃された際の共闘」
「我々白金機関秘密工作部隊が活動しやすいよう平壌に新しい拠点を提供すること」
「白金グループによる《解放戦線》への物資や活動資金の提供」……この四つである。
平壌の新しいアジトを手配するまで、ぼくたちはこの元山で一時的に匿ってもらうことになった。
夕食を終えると、ぼくたちは一時的な拠点となった居酒屋・大浦洞擁する集合住宅《革命マンションの一室で寛いでいた。
「おい。信用していいのか、あいつら」
疑惑に満ちた眼差しでぼくを見つめながら、真茶は問う。
「いざとなればあいつら全員殺すことはできるが、お前の身に何かあれば私がヒヅル様に責を問われるんだ。もう少し慎重に行動しろ」
真茶は相変わらず鋭い眼つきでふてぶてしく尊大な態度であったが、その言葉の裏には、ぼくを守るというヒヅル姉さんからの言外の任務を忠実に履行しようとする見上げた職業精神があった。先ほどのぼくと李のやりとりは朝鮮語のわからない真茶には珍紛漢紛だっただろうが、商談が成功して彼らと一緒に朝鮮共産党と戦う、ということだけは雰囲気でわかったのだろう。
「ありがとう、真茶。心配してくれてるんだね。その心遣いだけでぼくはお腹いっぱいだよ。君は見た目の美しさだけではなく、素敵な心を併せ持った素晴らしい女性だったようだ」
ぼくの爽やか美男子微笑と褒め殺しに対し、真茶は頬を赤らめそっぽを向いた……りすることは決してなく、嫌悪感むき出しの顔でうええと嘔吐するように舌を突き出して「やめろ気色悪い」と吐き捨てるように言った。
「先輩、先輩ー。うちには何かないんすかー」
忍美が後ろで手を振りながら、ぼくに物欲しそうに訴えかけている。
「そうだな、忍美。君も若くて美しくて朗らかで、女優さんのように素敵な女性だと思うよ」
きりっ、という擬音が聴こえてきそうな爽やか貴公子微笑とともに、ぼくは忍美にウインクした。
「きゃうん」
まるでぼくにハートを射止められた、とでも言うように彼女は芝居がかった仕草で頬を赤らめ、もじもじしながら顔を背けた。
「先輩もお、さっきすごくかっこよかったですよお。尋問とかうち怖くて怖くて、ほんとは泣きそうになってたっす。くすんくすん」忍美は泣き真似をしながら言った。うん。絶対嘘だ。
「お前らもう結婚しろよ」真茶が茶化すように言った。真茶だけに。
「まあ、何とかなるさ。彼らの協力があった方がこちらも色々と動きやすいのは事実だし、《党》の内通者を炙り出すための策はすでに考えてある。内通者さえ排除すれば、無津呂さんの捜索も工作活動も一気に進むだろう」
ぼくが自信に満ちた笑みを浮かべて言うと、真茶が怪訝そうに肩を竦めた。
「そうか。上手くいくといいな。だが、もし連中の誰かがお前や私に危害を加える素振りを見せれば、誰であろうと許可なくぶっ殺すってことだけは、はっきり言っとくぜ」
真茶の、今まで殺してきた人間の怨嗟を吸いあげたように澱んだ琥珀色のその瞳から発せられるおどろおどろしい眼光は、彼女の言葉が決して洒落や冗談でないことを、物語っていた。かつて白金機関に入って間もない頃のぼくなら、真茶のその尋常でない圧に呑まれてしまっていたかもしれないが、もう六年も裏社会を渡り歩いてきたおかげで多少肝が据わってしまったのか、ぼくは平静を装い、微笑みを絶やさずにいられた。
「頼もしい限りだ。ぼくだけでなく、忍美のことも頼むよ。無論《敵》が君に銃口を向けた場合は、ぼくも君を護ろう」
ぼくがそう返すと、真茶は得意げに、しかし歪で邪悪な笑みを浮かべた。
「余計な心配してんじゃねーよ。自分の身の心配だけしとけ、ぼく」
「ねー、先輩先輩。ところで、ベッドがこれだけなんすけどお」
忍美が部屋の中央に鎮座した大きなダブルベッドを指さして、言った。周囲を見ても、寝具はどうやらこれだけのようだった。
「ひとり分足りないな。私はソファで寝るから、お前たちふたりで使っていいぞ」
真茶がにやにやしながら言った。
「会って間もない女性と臥所を共にするほど、ぼくは軽い男ではないのでね。ぼくがソファを使うから、君たちふたりで使えばいい。女性同士、問題はないだろう」
「あらあ、先輩って紳士なんすねえ。見かけによらず。うちは別にいいですよお。先輩なら」
忍美は蠱惑的な笑みを浮かべてぼくを誂うように指で顎をくいと持ちあげ、唇の先が触れあうくらいに顔を寄せた。女性の諜報員は情報を得るためなら平気で標的と寝るのが常なので、そういう意味で彼女は経験豊富な《手練》なのだろうな、と、ぼくは思った(ちなみに白金機関にはそういった《手練》を集めた枕営業を専門とした特殊諜報部隊も存在するらしい)。
「冗談だ。味方であろうと、他人と一緒のベッドで寝るのは落ち着かないのでね。なら、私は床で寝るとしよう」
真茶が露骨に厭そうな顔をして拒絶の意を表明した。
「なら、真茶がソファを使えばいい。ぼくが床で寝る」
「先輩がベッドでいいっすよ。長旅で疲れてるでしょ」
妙に優しそうな笑みを浮かべた忍美が言った。
「それはぼくの紳士道に反するのでね。君たちがソファやベッドを使わないのは自由だが、ぼくは床で寝させてもらう」
「何だ。誰も使わないなら私がベッドで寝るぞ」
ぼくと忍美が譲りあいをしている中、真茶が漁夫の利をかっさらうようにベッドに飛びこみ、そのまま寝てしまった。