第四十三話「大浦洞」
すっかり予定の狂ってしまったぼくたちは、とりあえず金政権に対抗しうる唯一の武装勢力《朝鮮人民解放戦線》本部、北朝鮮東部の元山にあるという居酒屋・大浦洞へ向かうことにした。ここには北朝鮮内の《協力者》の元締めとも言える男、《解放戦線》のリーダーである李永哲が住んでいる。監視だらけの北朝鮮国内においては彼らの協力なくして弾薬や食糧を補給するのは難しく、こちらには非戦闘員の羅美煐もいる。郊外で見知らぬ男から拝借したファミリアも、敵の銃撃ですでに限界に近かった。
中国やロシアとの国境に流れる鴨緑江、豆満江に次ぐ長さを誇る第三の河川である大同江を越えると、社会主義国特有の無骨で広大な集合住宅群が見えてきた(なお北朝鮮では大同江流域はエジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明と並ぶ世界五大文明のひとつである五千年の歴史を誇る《大同江文明》発祥の地とされている)。
ぼろぼろに被弾した車で市街地を走るのは目立ちすぎるため、ぼくたちは山道のど真ん中にファミリアを停車して罪なき一般市民から新しい車、年式の古いトヨタのスプリンタートレノを強奪……いや拝借し、元山までやってきた。
「ずいぶん寂れたところだな。平壌とは大違いだ」
愛用のVSSをふたたびギターケースに収納し、真茶が言った。ギターケースを背負い、ヘッドホンでやかましい音楽を聴いている彼女の姿は、その中性的な美貌と相まって流離いのミュージシャンに見えなくもなかった。
「気は抜くなよ。街並はぼろくても軍の連中はいるし、どこに監視カメラや盗聴器があるかもわからない。もっとも全能眼みたいな顔認識機能はないだろうし、AIで自動チェックしてるわけでもないだろうけど」
ぼくがそう言うと、真茶が意地の悪い笑みを浮かべた。
「なるほど。そういう意味じゃ、お前らの国の方がオーウェルの悪夢みたいだな」
「どういう意味だ」
ぼくが顔を顰めて訊くと、真茶は「わからないならいいさ」と話を中断した。相変わらずの薄ら笑いが癇に障ったが、ぼくは自分を抑えた。理解しあえない人間とも力をあわせて任務を遂行しなければならない時もあるのだ。そういう時は、ただ感情を殺して事務的な態度に終始した方がいい。これも姉さんの教育の一環なのだろうか。
「先輩、こっちっすよ」
忍美が小さな路地を指さして言った。ぼくたちよりも先に北朝鮮で活動している忍美は、《解放戦線》の連中と面識がある。美煐もいるし、《千里馬部隊》に襲撃されて逃げてきた、と、彼女に証言してもらえば受け入れてもらえるだろう。
昼間だというのに、薄暗い元山の裏路地は整然とした表通りとは別世界であった。ゴミがいたるところに散乱しており、野良の犬猫や鴉が残飯を漁っている。監視カメラはなく、あったとしてもたぶん盗まれそうだな、と、ぼくは思った。がりがりに痩せた浮浪児が、大量のゴミ袋の布団の中で眠っている。北朝鮮には九十年代後半の混乱期に親が死んだり、育てられずに捨てられた子供たちが、たくさんいる。現最高指導者の金暻秀は「浮浪児はひとり残らず孤児院に収容せよ」とのお触れを出し、以前に比べて浮浪児の数は減ったらしいが、平壌などの都市にある諸外国向けの《宣伝用》施設はともかく、地方の孤児院ではろくに食糧も支給されず、虐待や強制労働が常態化していて逃げ出す子供が後を絶たないという(にも関わらず国営メディアは『金暻秀委員長の子供たちへの愛の贈り物』などと報じている)。
「すみません。食べ物、ください」
ぼくの足もとで座りこんでいた子供が背を丸め、地べたに額をこすりつけながら懇願した。衣類は何も身につけておらず全裸で、左腕の肘から先が、なかった。
浮浪児か、とも思ったが、全身のいたるところに殴られたような形跡があった。北朝鮮に限らず、貧困国では身寄りのない子供を拐って物乞いをさせ、上前をはねて儲けるという畜生にも劣る極悪非道の卑劣漢がいると聞いたことがある。
ぼくは義憤のあまり、全身の血が沸騰する思いだった。
が、押さえた。
「これで好きな服や食べ物を買いなさい」
ぼくは足もとの子供に十ドル札を手渡してそう告げた。北朝鮮では二〇〇九年に行われたデノミによって北朝鮮ウォンの信用が失われハイパーインフレが起きて以降、国民は自国通貨を避け、人民元や米ドル、ユーロなどでの取引を好んで行なっている。
「ありがとう」
物乞いの子は喜んでそのまま路地の奥へと走り去り、消えていった。おそらく彼を搾取する元締めのところへ帰るのだろう、健気にも。こっそり尾行して天誅でも下してやろうかと考えたが、ぼくは逸る気持ちを抑え、思考する。
仮にあの子を虐げる元締めに正義の鉄槌を下したとして、あのせいぜい六、七歳の子供が、この修羅の国でこれからどうやって生きていくというのだろう。北朝鮮では先述したとおり朝鮮共産党による《浮浪児撲滅運動》が展開されているし、たぶん役所に行けば喜んで孤児院に《収容》してくれるだろう。しかしこのへんにはあの子と似たような浮浪児がうろうろしていたし、お役所には本気で浮浪児撲滅に取り組む気がないのか、収容先の孤児院がろくでもない場所なのか、あるいはその両方かもしれなかった。であれば、ぼくにできることは何もない。ぼくがあの子を養うかって? どこの馬の骨ともわからん子供のパパになるほどお人好しじゃない。
「おーおー。ヒデルお兄たまはお優しいこと」
「だまれ」
いつもの不愉快なにやけ面で茶々を入れる真茶を、ぼくは一喝した。
「おお。怖い怖い」
真茶は肩を竦めながら馬鹿にしたように言った。くそ、ヒヅル姉さんのお気に入りじゃなければ女だろうが関係なく顔面をぶん殴ってやるのに!
美煐が物乞いの子を憐れむような眼で見ていたことに、ぼくは気づいた。しかし彼女もぼくと同様、自分にできることは何もないと悟ったのか、何も言わなかった。
路地裏をそのまま抜けると、密集した住宅街に躍り出た。古びた五、六階建ての集合住宅が林立し、その下で「党首脳部と最後まで生死、運命を共にする革命同志になろう!」「革命指導! 主体の道を力強く進んで行こう!」などという政府のスローガンがイラスト付きで書かれた派手な看板が立ち並んでいた(中には「未来のためにたくさんの木を植えよう」という現実的な提案をしている看板まであった)。
「着いたっすよ」
忍美がところどころ塗装の剥げ落ちた赤い壁の、ひと際古そうな集合住宅の前で立ち止まった。どこをどう見てもただの集合住宅で、居酒屋の看板など見られないのだが、そのまま忍美は無骨な灰色の鉄の扉を開け、中へと入っていった。一緒にいた美煐もここのことは知っているのか、そのまま迷うことなく入っていった。ぼくと真茶も続いた。
北朝鮮二代目最高指導者の金東建が好きだったらしいマリリン・モンローのポスターがところどころに貼られた薄暗い廊下を進んでいくと、奥に古びた木の扉が現れ、上に《居酒屋・大浦洞》と表記された看板が掲げられていた。なお全部ハングル文字。
忍美がノックすることなく客のようにただ扉を開けて中に入ると、上に取付けられた鐘がからんからんと小気味よく鳴り響く。
「いらっしゃい。あら、東さん」
東というのは東雲忍美の偽名《東忍美》の姓である。ぼくたちを出迎えたのは、三十代半ばくらいの、少し化粧の濃いウェイトレスの女性だった。
「ちーっす、泰希さん。李さんはいるっすか」忍美が朗らかな笑顔で返した。
泰希と呼ばれた女性は「ちょっと待ってて」と、小走りでカウンター奥の扉へ入ってゆく。それから程なくして、ぼくたちは奥の部屋へと招かれた。
薄暗く、人ひとりようやく通れる狭い通路の奥には階段があり、監視カメラが仕掛けられていた。階段を上った先には以前と同じような灰色の金属製の扉。そのど真ん中に、弾丸が貫通したような不気味な丸い穴が、開いていた。
ぼくは扉をゆっくり開け、中へと入る。北朝鮮では九十年代の混乱期を境に慢性的な電力不足に陥っているため、屋内の照明は基本的に薄暗い。部屋の奥では、内装に不釣りあいな高価そうなソファの上に、ひとりの大柄な男が腰かけていた。
「はじめまして。金さん、茶さん。居酒屋・大浦洞へようこそ。《オーナー》の李永哲だ。あいつは部下の宋泰希」
奥の台所でお茶を入れていた泰希が軽く会釈した。
李永哲と名乗った男は立ちあがりこちらへ歩み寄ると、ぼくに手を差し出し、握手を求めてきた。髪はぼさぼさの短髪で、鼻下と口元に髭を生やしており、右眼の上には銃弾がかすったのか、肉が大きく抉り取られたような大きな傷があったのが、照度の低い白熱灯に照らされて初めてわかった。右眼の水晶体は白内障のように白く濁っていて、すでに光を失っているかもしれなかった。
「真茶」
李を警戒した真茶がいつの間にか上着のポケットに手を入れていたので、ぼくは止めた。彼女はサブウェポンとしてポケットの中にスマートフォンサイズの小型自動拳銃トーラス・カーブを仕込んでいる。
ぼくは李の手を握りしめた。
「はじめまして、李永哲さん。ぼくは金日出。彼女は部下の茶緑です。どうぞよろしく」
「ずいぶん朝鮮語が上手いんだな」李が眼を丸くした。
「よき講師に恵まれたのでね」
それからぼくは李に、勝利マンションで羅勝元と接触したこと、《千里馬部隊》に襲撃されたこと、その際に勝元とその妻星蓮が死んだことを説明した。
「そうか。勝元の野郎」
羅勝元の訃報を聞いた李は落ちついていたが、その眼の奥では憤怒と憎悪の炎が渦巻いていた。お茶を持ってきた泰希はその手をかすかに震わせ、涙をこらえている様子だった。
「わあ」
父が死んだ光景が蘇ったのか、美煐が突然号泣しだした。そんな彼女を、泰希が無言のまま抱擁した。
「羅さんは最期まで娘の身を案じていました。もし自分の身に何かあった場合は、あなた方に彼女を守ってほしい、と」
ぼくが羅勝元の遺言を伝えると、李は優しく微笑み、首を縦に振った。
「もちろんだ。《党》の連中は、裏切り者に対しては本人どころか家族にも容赦ねえからな。一族郎党皆殺しにするまで追ってくるだろうよ。勝元は俺の弟分でな。美煐は姪っ子みてえなもんだ。任せておけ」
李は注がれたお茶を一気に飲み干して乱暴にテーブルに置くと、美煐をあやしていた泰希を一瞥した。泰希は美煐から離れるとそのまま部屋を出、階下へと降りていく。
「さて。そろそろ本題に入りたい」ぼくは真剣な眼差しで李に告げた。「まずは《党》に囚われた我々の仲間と、平壌における新しい拠点のことですが」
「おっと、その前に」
李が両手の平を突き出し、ぼくの話を遮った。
直後に部屋の扉がふたたび開き、《解放戦線》のメンバーと思しき連中がぞろぞろと、入ってきた。突然のことで警戒したのか、真茶が上着のポケットに手を入れた。
「お前たちの中に、《党》の内通者がいるかもしれない」
李は唐突に、そんなことを言いだした。
「何だと」
ぼくは憤激して立ちあがった。
「そう睨むな。まあ聞け。事実、誰かが密会の場所をバラしたから《千里馬》の連中に嗅ぎつけられて、勝元は死んだんだろう。お前らの仲間の無津呂にしたってそうだ。特にお前、ちょっと尋問させてもらうぞ」
李は忍美を指さして、低く冷たい声で威圧した。
「待ってくれ。ぼくたちは昨日ここに来たばかりだ。無津呂さんを罠に嵌めるなんてできるわけないだろう」
ぼくは不快感を露わにして抗議した。
「一応だよ。これからお互い信頼しあって《党》と戦うんだ。こっちだって味方を疑うような真似はしたくねえ。悪いようにはしねえ。ひとりずつ、裏部屋に来てもらうぞ」
李が奇妙に優しい笑みを浮かべて、忍美の肩に手を伸ばした。