第三十七話「秘密」
入浴を終え、大広間で皆で会席料理を食べ終えると、ぼくは満天の星空が見られると評判の、白金高原ホテル最上階にあるクラブフロアへやってきた。
縦四メートル、横二十メートルという巨大な窓の外の壮大な南アルプスと、その上空で燦々と輝く無数の美しい星々の大パノラマは、まさに圧巻のひと言であった。
フロアに整然と設置されたソファの一番奥で、宮美がただひとり静かに本を読んでいた。いや、正確には雑誌か。
「美しい星空だね。宮美」
ようやくぼくの存在に気づいた宮美が、読んでいた雑誌をぱたりと閉じた。週刊清朝。すでに廃刊となった週刊文冬のライバル的存在だった雑誌だ。
「ヒデル、さん」
「だが、君の方がもっと美しい」
ぼくは懐から取りだした一輪の紅い薔薇(ぼくも彼女も傷つけぬよう棘のないスムースベルベット)を宮美に差しだし、とびきりの爽やか美男子微笑で彼女に顔を近づけた。宮美はまんざらでもなさそうに頬を赤らめたものの、照れたように顔を背けてしまった。その仕草がとても奥ゆかしかった。
「初めてお会いした時のことを思い出しますね」
差しだされた薔薇を受けとった宮美は、それを両手で包むように大切に持っていた。彼女自身の清楚な美貌と相まってとても絵になる組みあわせで、まるで映画のワンシーンのようだった。なお、薔薇には色や本数における花言葉が存在し、紅色は「情熱」「熱烈な恋」、一輪の薔薇には「君に一目惚れ」という意味がこめられている。ぼくが初めて宮美に会った時もこうして、彼女に一輪のスムースベルベットを渡したものだった。あれからもう三年。彼女も去年成人し、現在白金大学の二年生。故・鷹条前総理の娘である宮美は清廉潔白を絵に描いたような人で、父を反面教師として人々の幸せのために奉仕する本物の政治家を目指すと白金大学政治学部を志し、見事に首席で合格。常にトップクラスの成績を保持し、半年ほど前に労働党総裁にして現日本国総理大臣である大嶽総理の補佐官見習いとして働いてもいる。これは宮美の才能と勤勉さ、そして何より高潔さを高く評価しているヒヅル姉さんの仲介によるもので、早いうちから政治の世界で経験を積ませ、近い将来日本の政界でその才覚を十二分に発揮してもらおうという、一種の投資である。
以前は見られた良家のお嬢様としてのあどけなさも成人してからはなくなり、知的で落ちついた物腰の大人の女性になりつつある宮美の、その可愛らしいというより美しく端正な顔には、どことなく影というか、憂いのようなものが、垣間見られた。
「君のような美しい女性に、そんな表情は似合わない。女性は笑顔が一番だよ」
既視感のあるセリフを吐き、ぼくは宮美の肩に手を置いた。
「何か悩みごとでもあるのかな。ぼくで良ければ相談に乗るよ。君は何でもひとりで背負いこもうとするところがある。君の力になりたい」
宮美はしばらく押し黙っていたが、やがて何かを決心したように、先ほどまで読んでいた雑誌・週刊清朝を手に取り、ぱらぱらとページをめくりだした。
「この記事を」
宮美が開き、ぼくに見せたそのページには、大きく派手な見出し付きで、こんなことが記されていた。
『《白金グループ、北朝鮮の核ミサイル開発に関与か》。韓国に亡命した元北朝鮮兵士の証言によると、白金重工、白金エレクトロニクス、フェニックスなどといった白金グループの企業が北朝鮮のミサイル開発に関わっているという。北朝鮮の首都・平壌では、白金グループの核やミサイル開発者が暮らす専用の高層マンションがあり、彼らはそこで豪勢な暮らしをしている。北朝鮮のここ最近のミサイル実験の増加と技術の飛躍は、白金グループの技術者と資金援助によるところが大きい。《謎の変死を遂げた田中記者》。本件について取材を行っていた本誌記者の田中が先月十一日、《不慮の交通事故》によって命を落とした。実は彼は以前にも覗きや痴漢などの容疑で逮捕されており、本誌はこれを白金グループによる陰謀、国策逮捕であると見ている。白金重工がネオ夕張にある秘密工場で密かに大量破壊兵器を開発している、という疑惑に関する本を出版する直前の出来事であった。田中記者は、以前から執筆活動に関して正体不明の人物から強い圧力を受けていたという。そして痴漢では考えられぬほど長期間勾留されていた(以下略)』
胸糞悪くなったぼくは、雑誌を閉じた。ぼくの不快感が伝わったのか、宮美が一瞬びくりと身体を強張らせた。
「私は……ヒデルさんや、ヒヅルさんに、感謝しています。父が死んでから、私だけではなく母や弟の生活の面倒をみていただいていること、学費を援助していただいていること、そしてまだ見習いですが、大嶽総理の補佐官としての仕事を斡旋して……私の夢を、応援していただいたこと」
その前置きからは、自分を養っている恩人である姉さんに対する遠慮が伺えた。今までも《我々》の活動に関して言いたいことはあれど、真面目で義理堅い宮美のこと、自分にそんなことを言う資格があるのかと口を噤んでいたのだろう。白金機関の仕事の全貌を彼女は知る術もないが、時には法に反する汚れ仕事……たとえば武力や権力による威嚇、窃盗、詐欺、賄賂、そして暗殺といった活動を秘密裏に行なっていることは、薄々気づいていても不思議ではない。事実三年前、ぼくは彼女の眼の前で多くの人間を殺した。
ぼくは首を横に振り、宮美の言葉を遮るようにして言った。
「それは君が《支援》に値する将来性を持っているからだよ。宮美。ヒヅル姉さんは、目先の利益ばかり追っていた旧態依然の日本の政治家とは違う。日本の遥か未来を見据え、君という若き将来の担い手に先行投資しているにすぎない。慈善活動でもなければ、ぼくたちの活動に協力してくれた見返りでもない。だからぼくたちに対して何か意見があったとして、遠慮する必要なんてない。ぼくは君の意見なら喜んで聞くし、姉さんもそれは同じはずだ」
ぼくの言葉を聞いて少し安心したのか、宮美の顔が綻んだ。彼女は続けて言った。
「私は、ヒデルさんやヒヅルさんを、信じたい。だから、この記事が嘘だと言うのなら、ヒデルさん、あなたの口からはっきりそう仰ってください。あなたの言葉なら、私は信じます」
宮美は、ぼくの眼をまっすぐに見て、そう言った。先ほどまで頬を赤くして眼を背けていた彼女とは、別人のようだった。
ぼくは爽やかな笑みを浮かべ、宮美の手を握って言った。
「ゴシップ誌のデマを真に受けちゃいけないな、宮美。我々は世界平和を願う人たちの集まりだ。あんな、人道に反した危険な独裁者の、まして核開発を支援しているだなんて、そんなわけないじゃないか」
「本当なんですね。信じてもいいんですね」
このことでだいぶ悩んだのか、宮美はいささか疲れた様子で、救いを求めるように、ぼくに確認した。
「もちろんさ。ぼくたちの願いは、この世界から核兵器みたいな野蛮な代物をなくすことだ。増やすことじゃない」
ぼくは宮美の眼をまっすぐ見つめて、そう断言した。
「なら、いいんです。疑うようなことを言ってごめんなさい」
ぼくの言葉を聞いて安心したのか、宮美は力なく微笑み、それから心底申し訳なさそうに深々と頭を垂れた。
ぼくの方こそ、ごめんなさい。
ぼくは、君に嘘をついた。
君は清廉潔白で、自分の良心に忠実な善意の人間だ。ぼくは君のそんなところが好きだし、尊敬すらしている。
でも、ヒヅル姉さんからこのことについては誰にも、特に宮美には口外するな、と強く釘を刺されている。
北朝鮮の独裁者、金暻秀は圧政で何百万という自国の民を餓死させ、危険な大量破壊兵器を開発し続けている。自らの保身のためなら実の兄でも躊躇いなく殺す極悪人だ。ぼくたちが、たとえ世界制覇戦略のために一時的に彼と組むと言ったところで、君の中の良心はそれを許さないだろう。姉さんは《完全世界》の実現のためには、手段を選ばない人だ。
たとえ敵がどんなに強大であれ、君は自分が正しいと思ったことは実行する、勇敢な女性だ。だから実の父である鷹条総理の罪を暴こうとした。
もし君がぼくたちの重要機密を世界に公表すれば、姉さんは君を決して許さないだろう。
その時は……ぼくが君を、殺すことになるかもしれない。
そんな未来は、絶対に避けなければならない。
「わかってくれればいい」
ぼくはふたたび爽やかな笑みを浮かべると、宮美を抱きしめ、その頭を撫でた。