第三十四話「心中」
ヒヅル姉さんの腹部に開いた、赤黒い穴。
そこから噴き出す、大量の紅い飛沫。
地面に描かれた歪な日の丸の、その中心部に、ぼくの敬愛する姉さんの、見るも無残な姿があった。
負ける……?
あの敗北なんて想像もできない、完全無欠のはずのヒヅル姉さんが?
「あなたらしくないわね。ヒヅル。冷徹な策士のあなたが、わざわざ戦の最前線に出てくるなんて」
姉さんの頭にグロック18の銃口を向け、高神は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「まして弟君を庇って致命傷を負うなんて、失望したわ。そんな甘さで、よくこれまで戦ってこれたものね」
「これしきの逆境を乗り越えられないようでは、私に全人類を指導する資格などない。そう思っただけですわ」
姉さんもまた、その血に染まった口で、不気味に微笑んだ。口もとから放射状に伸びた夥しい量の血が、雪のように白い姉さんの肌と相まって旧日帝の旭日旗を彷彿とさせた。姉さんの呼吸は荒く、腹に開いた《穴》から流れ続ける血が、地面に描かれた赤いサークルの領域をじわじわと拡げていく。いくら姉さんが《人工全能》であろうが、あのまま放置しておけば、通常の人間同様失血死してしまう。
高神は、まるで聖母のように慈愛に満ちた眼で姉さんを見おろしながら、優しく言った。
「なるほど。自ら世界の支配者に相応しくなかったと認めたわけね。さあ、兵を退きなさい。そうすれば、命だけは助けてあげるわ」
姉さんは沈黙していた。
高神の顔から、笑みが消えた。
「早くしなさい。それとも、弟君もろとも死にたいのかしら?」
今度は威圧するような、鋭い声だった。
「あなたは、勘違いをしていますね。麗那。私を殺したところで、私の遺志を継ぐ者は、世界中にいる。千人の、白金ヒヅルが」
「そう。《白金主義者》は、殺しても殺しても出てくるゴキブリのようなやつらよ。だから私は、あなたを屈服させたいの」
「無駄なことです。《我々》の意志は不滅。今の爛れた世界は必ず破滅し、《完全世界》として生まれ変わる運命なのです」
「弟君をこの場で殺す、と言っても?」
「あなたは勘違いをしている。麗那。私は、ひとりではない。最後に勝つのは、《我々》です」
ヒヅル姉さんの血に染まった口角が、歪なまでに吊りあがった。
「ティキ。B2」
どかあん。
姉さんが命令した直後、凄まじい爆発音とともに、フロアの大理石の床の中心部分がふき飛ばされ、崩落。大きな穴が開いた。
「何事」
突然の爆発と揺れに、高神の視線が一瞬だけ、姉さんから外れた。
……それが、彼女の命取りとなった。
ぴいー。
耳鳴りのような高周波の音とともに、ヒヅル姉さんの胸もとから一筋の青白い光が、高神へ向けて放たれた。
「ぐあ」
姉さんがいつも胸につけていた、大きな蒼い宝石入りのブローチ。
そこには、《兵器開発局》が開発した、奇襲用の超小型レーザーが、仕込まれていたのだ。
高神は《人工全能》に匹敵する反射神経と回避能力によって、何とか心臓を貫かれることだけは避けられたものの、レーザーによって脇腹を焼かれ、その顔を苦悶に歪ませた。
「形勢逆転、ですね。麗那。成果が上がり、安心した時こそ最も危険な瞬間です。勝利してからが本当の戦い……あなたの教えですよ」
腹のど真ん中から血を噴き出しながら、姉さんがいつの間にか銃を拾い、高神に向けていた。
「この……化物……め」
高神が悔しそうに歯噛みした。
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
姉さんは最後に微笑むと、容赦なく、その引金を引……こうとして、素早く横に、跳んだ。
どかーん。
総理の左腕から放たれた一発の、ミサイル。
姉さんを殺すつもりで放たれたそれは、国会議事堂の壁を、高神ごと木っ端微塵に爆砕してしまった。
「ち。仕留め損ねたか」
総理が不満げに言った。
「彼女はあなたの忠実な部下だったはずだ」
ぼくは総理を非難するように言った。
無駄なことだとわかっていても、言わずにはいられなかった。
「ふん。甘ったれの小僧っ子が。我らヘリオスにとっては勝利こそ全て。白金ヒヅルというドブネズミの親玉さえ仕留めれば、日本は我が手に落ちたも同然。いよいよ儂が日本の王となるのだ」
「あなたに、王の資格はない」
「ある。勝者こそが王なのだ」
総理はパワードスーツの右腕に仕込まれたミニガンの銃口を、床に寝そべっていたヒヅル姉さんに向けた。
先ほどの横飛びで傷口が開いたのか、巨大な刷毛で殴り書きしたような血の跡が、姉さんの足から伸びていた。高神を制した時はやはり姉さんは不死身の超人だ、と、弟としてつい誇らしく思ってしまったが、そんなことはなかった。姉さんも人間だ。
ぼくは慌てて総理に叫ぶ。
「待て。国会議事堂の至るところに仲間が爆弾を仕掛けている。さっきの爆発を見ただろう。姉さんを殺せば、この国会議事堂ごとお前はふき飛ばされるぞ」
咄嗟に出たぼくの苦し紛れの脅迫を、総理は鼻でふんと嗤った。
「このパワードスーツは耐熱耐火耐衝撃仕様だ。国会議事堂が崩壊した程度では儂は死なん。死ぬのは貴様らだけだ」
「試してみるかい」
ぼくの本気度が伝わったのか、総理の顔に張りついていた薄ら笑いが消えた。俳優養成校に通った甲斐があった。
「小僧。儂を脅迫する気か。どのみちすでにここは警察と自衛隊の連合軍が包囲している。どこへも逃げられんぞ。おとなしく武器を捨てて降伏しろ。そうすれば白金ヒヅルともども、命だけは助けてやろう」
ばらばらばら、と、先ほどから騒々しいローター音を轟かせながら、国会議事堂の周辺を、おそらくは自衛隊のものと思われるヘリが、周回していた。総理の言う通り、地上の脱出経路は全て塞がれてしまっているだろう。
『総帥。ご無事ですか。《工作》はすべて完了しました。私も加勢を』
唐突に、無線機からティキの声が聴こえた。
『いいえ。あなたは、鷹条総理暗殺の最後の切札として、議事堂の外で、待機しなさい。三分待って、《我々》からの通信がなければ、そのまま我々もろとも、国会議事堂を、爆破するのです』
『ですが、あなたやヒデル卿は』
『命令です。ティキ』
姉さんの言葉と同時に、げほごほ、と、血の混じった湿った咳が、聞こえてきた。
『わかりました。総帥。どうか、ご無事で』
あの紅い総理を倒せなければ、ぼくたちは国会議事堂もろとも彼と心中することになる。
「鷹条総理。あなたこそ降伏するべきだ。あなたは日本の、民主主義の敵だ。彼らは決してあなたの尖兵とはならないだろう」
短い付きあいだったが、背中を預けて共に戦い《殉職》した、警察義勇軍の鬼瓦の顔が浮かんだ。少なくとも彼ら警察義勇軍は長いものに巻かれるだけの連中とは違い、政府の弾圧から民衆を守るべく立ちあがったのだ。
「弱い犬ほどよく吼えるな。ほれ。早く武器を捨てんか。白金ヒヅルごとバラバラになりたいか」
総理のパワードスーツのぶ厚い装甲の前では、今ここにある銃器のすべてが役に立たない。
彼を仕留めるには、国会議事堂を巨大な棺とする他に、方法は……ただひとつ。
怪我人の君をこき使って、ごめんね。
これでまた君にひとつ貸しだ。雲母先輩。
雲母が、総理の死角である頭上から、舞い降りた。
「何い」
完全に虚を突かれたのか、総理が間抜けな声を洩らした。
ぼくが総理の注意を引きつけている間に、雲母はワイヤーガンを使って高窓の上に飛び乗っていたのだ。
雲母の爆弾は、総理のパワードスーツにダメージを与えられなかったわけじゃない。
他の部分に比べ頭部の半球形の強化ガラスの部分だけは多少脆かったようで、先ほどの爆発によって端に薄っすらと罅が入っていたのだ。
頭上で爆弾を爆破すれば、少なくとも彼の首から上は木っ端微塵にふっ飛ばせるだろう。
「こなくそ」
足先から橙色のジェットの炎が噴出し、総理のパワードスーツが急加速した。
「うわ」
総理の上に乗っていた雲母はバランスを崩し、そのままパワードスーツの肩から落下……することなく、空中で静止した。
「あっ」
総理に左腕を掴まれ、雲母は、宙吊りにされていた。
瞬時に恐怖に歪む、雲母の顔。
ばきべきぼき、と、厭な音が、した。
パワードスーツの手の中で、雲母の腕の骨が、粉々に砕け散ってしまったのだ。
「ーーーー!」
フロア全体に、雲母の金切り声が、響き渡った。
彼女を助けなければ!
何か武器になるものは、と、ぼくは慌てて辺りを見渡した。
初めに視界に飛びこんできたのは、星が使っていたミニミ軽機関銃。
が、何度も説明しているように総理の装甲はライフル弾でも無効化してしまうし、撃ったところで雲母だけ蜂の巣になるのは容易に想像できた。
ばりばりばり。
ぼくが愚図ついている間にも、総理は、反対側の手で雲母の胴体を鷲掴みにし……
掴んでいた彼女の左腕を、力ずくで、捥ぎとってしまった。
「あ、あ、あ」
雲母がびくびくと痙攣しながら、微かな声で呻いていた。
肩口あたりから根こそぎになったその断面から、鮮血が花火のように、噴き出していた。
「わはははは。脆い。脆すぎるなあ。人間の身体は」
パワードスーツのスピーカーから放り出される、総理の下卑た嗤い声。
ごとり。
ぼくの眼の前に無残に放り投げられた、雲母の左腕。
「うっ」
反射的につんとこみあげてきた胃液が、ぼくの食道あたりを焼いた。
眼の前で仲間が殺されかけているというのに、何もできない。
「あ、ああ」
かつて星子が、あの憎き安那子に蹂躙された時のように、焦燥感と無力感と絶望感が一斉にぼくに襲いかかってきた。
ちがう!
何もできない、じゃない!
諦めちゃ、だめだ。
何かあるはずだ。
総理を仕留める方法が、何か必ず……
ぐちゃ。
雲母の胴体が、パワードスーツの凄まじい握力で、握り潰されてしまった。
まるでオレンジか何かから果汁を絞り出すように、彼女のあちこちから、紅い鮮血が滝のように、地面に撒き散らされた。
もはや彼女は声をあげることすらできず、代わりに口から大量の血を吐き出し、ただでさえ紅い総理のパワードスーツの装甲に、グロテスクな赤褐色の花を、咲かせた。
「ああ。雲母先輩」
今まで苦楽を共にしてきた仲間の、変わり果てた姿を見て、ぼくは絶望していた。
ぼくに打てる手は、もう何もない。
ぼくに打てる手は、もう何も……
『ヒデル』
姉さんが弱々しい声で、無線機越しに、ぼくに呼びかけた。
振り向くと、地面に横たわってすでに虫の息だった姉さんが、黙って首肯した。
『雲母の仕掛けた爆弾を、起爆しなさい。彼女はもう……助かりません』
爆弾……?
まさか、と、総理に眼を向けたぼくは、ある《変化》に気づいた。
総理のパワードスーツ、その宇宙服のような半球形の頭部が、不自然に出っ張っている。
ぼくは、一瞬でそれが何であるのかを、悟った。
擬態爆弾だ。
雲母が上から急襲した時に、すでに総理の頭に貼りつけていたのだ。
ぼくは、引き千切られた雲母の左腕を、拾いあげた。
彼女の腕に巻かれたスマートウォッチに仕込まれた、爆弾に起爆信号を送るための特殊アプリが、すでに起動していた。
『ヒデ……くん……やって』
もはや虫の息であった雲母の、微かな声が、無線機越しに、聞こえた。
総理を殺せ、ということなのか、それともこの苦しみから早く解放してほしいのか、ぼくにはわからなかった。が。
眼からあふれ出した涙で、ぼくの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「すまない」
ぼくがスマートウォッチから爆弾の起爆信号を送ると、総理と雲母は、共に爆発の炎に、包まれていった。




