第二十五話「崩落」
「星子」
ぼくは防煙マスク越しに思わず叫んだ。
「あ、兄貴。助けに、来てくれたんだね」
まだかろうじて意識の残っていた星子は、力なく笑った。
「しゃべるな。まず、これを付けるんだ」
ぼくは、余分に持ってきた防煙マスクを、星子と宮美に手渡した。
「くそ。こんなもの」
星子の身体を押しつぶしていた本棚を、ぼくは憎々しげに睨みつけ、全身の力を総動員して、持ちあげた。
前回の任務で地獄谷に撃たれた左足の傷が熱かった。たぶん傷口が開いてしまったんだろうが、今は正直それどころじゃなかった。これをどかさなければ、ぼくたちは全員死んでしまうのである。まさに命がけなのだ。
必死に力をこめた甲斐もあって、本棚はわずかにだが、浮いた。
「星子さん」
その一瞬の隙に、宮美が星子を力いっぱい、必死に本棚の下から引きずり出した。
星子の美しい足は、本棚によって両方とも潰されてしまい、くしゃくしゃに折れ曲がっていた。特に左足の損傷が激しく、出血もひどい。
「ちょっと痛いが、我慢しろ」
ぼくは着ていたジャケットを脱ぎ捨て、星子の左足に巻きつけ、きつく縛りあげた。
「いぎい」
星子がマスク越しに金切り声とも言える悲鳴をあげた。
「もうだめかと思った」ぼくの登場で安心しきったのか、星子は大きなため息をついた。そして弁明するように、続けた。「逃げてって言ったんだけどね。でも宮美が、あたしのこと助けるって、聞かなくてさ」
「私を助けてくださった恩人を見捨てて逃げるなんて、できません」宮美が強い口調で反論した。
「そんなかっこいいもんじゃないって。兄貴に宮美のこと頼むって言われたからさ。つい」
命がけで兄の言いつけを守ろうとした愛しの我が妹の献身ぶりに、感激のあまり眼の奥が熱くなったが、妹の手前必死で堪えた。この最愛の妹のためだからこそ、ぼくは命を懸けて戦えるのである。
彼女たちの顔からは、先ほどまでの悲愴感はすっかり消えていた。
しかし当然ながら、まだ助かったわけではない。
ぼくは無線機に手を当てた。
「姉さん。ぼくだ。聞こえるか。星子と宮美を保護した。六十三階だ。フロアの西側にいる。今にも崩れ落ちそうだ」
『了解。すぐにヘリで向かいます。窓際で待機してください』
姉さんへの報告を終えると、ぼくは激痛で悲鳴をあげる星子をながば強引に背負った。
「姉さんがヘリで迎えに来てくれる。窓際まで行くぞ」
「はい」宮美が頷いた。
姉さんの行動は実に迅速で、無線で連絡を入れてから一分もしないうちに、窓の外に白金重工謹製の灰色で無骨な大型ヘリコプターが現れた。が、燃え盛る炎と煙で気流を乱され、ヘリはぐらぐらと揺さぶられていた。
ビルの上から落ちてきた《何か》が、ヘリのプロペラに当たり、赤い飛沫をあげてばらばらに砕け散り、宮美がひっと悲鳴をあげた。
どうやら先ほどのカップルのように火災で逃げ遅れた人たちが、次々にビルから飛び降りているようだった。
炎で焼かれて苦しんで死ぬより、ひと思いに飛び降りて楽になろうとしているのか、あるいはもしかしたら下にクッションになるものがあって助かるかもしれない、と、一縷の望みに賭けたのか。それはわからない。
そのあまりに衝撃的な光景は、まだ年端も行かぬ少女である星子と宮美には刺激が強すぎたようで、彼女たちの身体はがたがたと震えていた。
『今からそちらへワイヤーガンを射出します。窓から離れてください』
姉さんの指示に従い、ぼくは星子を背負ったまま宮美を誘導し、壁の裏側に避難する。直後、姉さんは先端に銛のようなものが付いた拳銃を取り出し、発射。ワイヤーの付いた銛がぼくたちの眼前を通過し、奥で倒れていた肥満体の学生の足に、突き刺さった(しかし学生の反応はなく、すでに事切れているようだった)。
「あら。いけない」姉さんが平静とした声で零した。
ぼくは学生の死体から銛を引き抜くと、ワイヤーを右腕にぐるぐると巻きつけた。同時に、姉さんもワイヤーをヘリの手摺に巻きつける。
「星子。宮美さん。ぼくにしっかり、捕まってて。飛び降りるよ」
「はい」
「うん」
だがしかし飛び降りの直前、まるでぼくたちを逃すまいとしているように、フロア全体が、大きくがたがたと震動した。
崩壊する外壁や、天井が、ぼくたちの行く手を阻む。
がつん、と、落ちてきた瓦礫がぼくの頭に当たり、視界の左半分を赤く染めあげた。
それがどうした。
今ぼくは、星子と宮美、ふたりの命を背負っている。
立ち止まることは、許されない。
『飛びなさい! 崩れ』
姉さんが叫んだ直後、床が大きく下へ崩れ落ちた。
「きゃあ」
「ひい」
星子と宮美が同時に絶叫し、ぼくたちは床と共に落下した。
が、ワイヤーを右腕に巻きつけておいたおかげで、ぼくはかろうじてヘリの下でぶら下がっていた。
星子も宮美もぼくに必死にしがみついており、ひとまず助かったようだった。
右腕に引き裂かれたような痛みが走っていたが、腕は何とかつながっていた。
「ふぬ」
絶対に放してなるものか、と、ぼくは歯を食いしばり、右腕を襲う激痛に耐え、ワイヤーを握りしめた。
後は姉さんたちが引きあげてくれるか、安全な場所で降ろしてくれれば……
ずずずずず、と、刹那、低い轟音が、大気を震わせた。
「あっ」
ぼくは思わず呻いた。
眼の前で白金タワーが、崩壊していく。
飛行機が衝突して損壊した部分から、まるでパンケーキを上から押しつぶすように、ものすごい勢いで、下へ下へ、と、崩れ落ちていく。
爆風と粉塵とコンクリートの破片が、これでもかとばかりにぼくたちを襲う。
「きゃ」
星子が短い悲鳴をあげた。
爆風にあおられたのか、ずるずる、と、星子の両手が、ぼくの肩から背中へ、滑り落ちて行く。
「星子」
ぼくはワイヤーを掴んでいた左手を反射的に差しだした。
が、間にあわない。
今、星子はぎりぎりのところで、かろうじて、ぼくの足に、縋りつくように、ぶら下がっている。
「星子さん」
宮美が叫んだ。しかし両腕でぼくにしがみつくのが精一杯の彼女に、できることは何もない。
「い、いや。いや。死にたくない。助けて。落ちちゃう。落ちちゃうよ」
星子が涙声で喚いていた。
「姉さん。星子が、星子が落ちそうだ。何とかしてくれ。姉さん。お願いだ。姉さん。姉さん」
ぼくもただ、涙声で喚くしかなかった。
この絶望的な状況でも、姉さんならきっと何とかしてくれる。
奇跡を起こしてくれる。
そう信じたかった。
だが、現実は残酷だった。
ぼくの懇願も虚しく、星子の手はぼくの脚から引き剥がされ、彼女の体は、地上二百メートル上空から、落下していった。