第十九話「王手」
「掴まって」
叫ぶと同時に、雲母はいきなりサイドレバーを引いて車を回転させた。
車内は激しい揺れによって中にあった様々な道具が縦横無尽に飛び交い、ぼくたちに襲いかかる。
ぼくは隣にいた宮美を押し倒し、身を挺して散乱した銃器や道具から守った。後頭部にM4カービンのストックが当たり、鈍器で殴られたような痛みが走った。出血もしたようだった。
が、その甲斐もあってか、地獄谷村正の放った対戦車ロケットランチャー・RPG7の弾頭はBMWの窓を掠め……
「あっ」
前方にいた機動隊員たちが一斉に射撃を中止し、蜘蛛の子を散らすように、四方八方に、ヘッドスライディングした。
弾頭が機動隊の装甲車に命中し、鼓膜を突き破るような凄まじい轟音とともに炸裂炎上、周囲のパトカーや鉄柵、機動隊員をも巻きこんで吹き飛ばした。
「ち」
特に悪びれる様子もなく、地獄谷は舌打ちした。
百八十度旋回したBMWは、ちょうど地獄谷の乗ったベンツに向きあう形になった。
雲母はそのままアクセル全開、まっすぐにベンツに突っこんでいく。
そして開きっぱなしになっていた、警戒色に彩られたボタンを拳槌でがつんとひと押し。
ボンネットがふたたび開き、最後の車載ミサイルが発射された。
しかし同時に地獄谷のベンツは急に軌道を変え、ミサイルを躱した。標的を見失ったミサイルは電信柱に衝突し、粉々に爆砕した。
「野郎」
星がすでに砕け散った助手席の窓硝子から、ベンツに向けてミニミを構え、発射した。
「死ねや」
地獄谷も負けじと窓越しにM240機関銃を構え、引金を引いた。
「伏せろ」
ぼくは叫ぶと同時に宮美を抱きかかえ、身を低くした。雲母も同様にハンドルを握りながら身を屈めた。
ずがががが。
すれ違いざまに、機関銃同士の激しい銃撃戦が展開された。
ばりんばりんと、BMWの防弾ガラスは次々と限界を迎え、破壊されていく。
「新手だ」ぼくは叫んだ。
無数のパトカーが、ぼくたちが来た方向から道路を封鎖するようにして横いっぱいに広がり、こちらへと迫ってきたのだ。
「ちくしょう」
雲母は露骨に顔を顰めると、ふたたびハンドルを急回転させ、車を反転させた……
瞬間、いきなり横から突きあげるようなすさまじい衝撃が、ぼくたちを襲った。
地獄谷のベンツが、ぼくたちのBMWの横っ腹に猛スピードで突っこんできたのだ。
いくら雲母がプロ並の運転技術を持っていても、いきなり真横から突っこまれてはどうしようもなく、制御不能となった車は、道路脇に群生していた杉の木に正面から衝突してしまった。
全席に仕込まれたエアバッグが開き、ぼくたちは事故死だけは免れた。
そう、事故死だけは。
「王手、だな。てめえらは完全に包囲された。武器を捨てて降りてこい。総理のお嬢ちゃんをおとなしく返しな」
ベンツを降りた地獄谷が、こちらにM240機関銃を向けていた。防弾ガラスが消失した今、あんなものでまともに撃たれたらお陀仏だ。
運転席の雲母は、いつの間にか現れた背の高い金髪の女に小ぶりのアサルトライフル(H&K・G36と思われる)を突きつけられ、身動きが取れないでいた。ナイフのように冷たく鋭い切れ長の眼に、凍てつくような蒼い瞳が印象的な彼女の顔に、ぼくは見憶えがあった。白金機関の《ブラックリスト》によれば、彼女の名はクローディア・クロウ。元アメリカ海兵隊特殊コマンドー部隊MARSOC出身で、今はヘリオスの特殊部隊L&Pに所属する殺しのプロだ。くそ。こんなやつまで出てくるなんて、最初からヘリオスは予めぼくたちの襲撃を読んでいて、罠に嵌める気でいたに違いない。
雲母が銃を突きつけられ、背後にいた星も身動きが取れないでいる。
地獄谷の言う通り、完全にお手上げだった。
ぼくは苦笑いしながら言った。「こっちには総理のご令嬢もいるってのに、ずいぶん手荒いことをするね」
そう。彼がヘリオスに雇われた助っ人ならば、なぜ秘密結社ヘリオス日本支部の長・鷹条総理の娘である宮美ごとぼくらを銃撃したり爆撃したりできるのか、ぼくには不思議でならなかった。一緒に巻きこまれて死ぬとは考えなかったのか。そこまで馬鹿なやつとも思えなかった。
地獄谷は片眉を大きく持ちあげ、大きく裂けた悪魔のような口で、言った。
「何か勘違いしてるな。俺のクライアントの依頼は、鷹条宮美をてめえらに渡さねえこと。渡すくらいなら殺せ。そんだけだ」
「なんだと」
予想を裏切る地獄谷の返答に、ぼくは絶句した。
いくら自分に背いたとはいえ、実の娘を殺し屋に抹殺させるような父親が現実にいようとは、ぼくには理解しがたかった。
いきなりそんな残酷な現実を突きつけられた宮美は、体中の力が抜けたようにへなへなと座席に凭れかかってしまった。反抗していたとはいえ、齢十七の女子高生が、実の父親に死んでも構わないと見放されてしまっては、さすがにショックだろう。
さて、これからどうするか。
車を捨てて森の中へ逃げるか?
そんなことをすれば、地獄谷は容赦なくぼくを背後から撃つだろう。下手に発砲すれば始末書を書かされる日本の警官はともかく、この男に躊躇いはない。雲母に銃を向けているクローディアも同じだろう。最悪の場合、宮美を人質にとって危機を切り抜けることも考えていたが、まさか鷹条家の令嬢ともあろう御方が人質として通用しないとは、夢にも思わなかった。完全に計算を誤った。
なら、アルマを通してヒヅル姉さんに増援を頼むか?
しかしぼくはすぐにその考えを捨てた。そんなことをしたところで、こちらに到着する前にぼくたちは警察に捕まり、ヘリオスの連中に引き渡されるだろう。
パトカーを降りた警官の群れが、大盾を構えてわらわらと古代ギリシャの重装歩兵密集陣形のごとくこちらへ迫ってきた。
「警察だ。貴様ら全員、殺人、器物損壊、道交法違反、公務執行妨害、未成年略取誘拐……あと他に何かあったかな。まあとにかく、現行犯で逮捕する」
黒のスーツに山高帽といった如何にも刑事という姿形の中年の男が、勝利を確信したのか、緊張感に欠けた声で、投げ槍気味に言った。