第十一話「再会」
ぼくと白金ヒヅルは白と金で構成された神殿のように荘厳な部屋を出て、専用エレベーターを使って百階へと上がった。星と雲母は仕事を終えて他の仲間たちと一緒に一杯やるそうで、ぼくたちふたりを見送った後でエレベーターで下へと降りていった。
百階は九十九階とは異なり、三百六十度見渡すかぎり全面ガラス張りの展望フロアだった。窓の外に見える、ランドマークタワーやベイブリッジといった横浜の美しい夜景。どうやらここは横浜に最近新設された日本一の超高層ビル、白金タワーであると思われる(そもそも百階の存在する建築物は日本にひとつしかない)。
そしてぼくの眼に映る、見憶えのある後ろ姿。
窓際のベンチに座り、空を眺めていた、ひとりの少女。
「星子」
星子はゆっくりと、こちらを振り向いた。
「兄貴。と、誰」
ぼくはたまらず彼女のもとまで駆けつけ、先ほど白金ヒヅルがそうしたように、ベンチの後ろから、彼女を抱きしめた。
「兄貴、無事だったんだね。よかった」
妹は安那子に手ひどく暴行された割には妙に落ちついていて、かえってぼくを不安にした。
「ぼくは大丈夫だよ。それより、星子の方こそ大丈夫か。怖かっただろう。ごめんな。守れなくて、ごめん」
ぼくは星子に、ただひたすら謝罪しつづけた。
この兄がもっと強かったら、愛しの妹を暴漢から守ってやれたかもしれない。そう思うと、悔しくて、歯がゆくて、自分が許せなかった。
「仕方ないよ。あ、兄貴ひどいケガしてたし、さ。へたなことしたら、あいつらに殺されてたかもしれないし。ああするしか、なかったんだよ。あ、あたしだったら、このとおり、大丈夫だから。兄貴の方こそ、腕、大丈夫?」
わずかにかたかたと震えながら、しかしぼくを安心させようと気丈に振る舞う星子の眼尻には、涙がたまっていて、今にもこぼれ出しそうだった。そんな妹の姿に、ぼくは眼の奥底からこみあげてくる涙をこらえきれず、彼女の手をとり、号泣してしまった。
「ごめんね。星子。助けられなくて。ごめん」
いっそのことこの不甲斐ない兄を罵ってくれた方が、どんなによかったことか。むろんそんなことで妹を見殺しにしたぼくの大罪が帳消しにならないことはわかっていたが、この兄想いの愛らしい妹をあのケダモノどもから守るべき時に守れなかったあまりの情けなさにぼくの自己嫌悪は頂点に達し、いっそのこと崖からこの身を投げて死んでしまいたいとすら思った。
「ううん。あたしだって、兄貴を守れなかったんだから。兄貴まで死んじゃったら、あたし、ほんと、やだからさ。無事でよかったよ」
何て健気な妹なのだろう。父さん。母さん。星子はいつの間にか、こんなに強く、優しい、立派な娘に成長していましたよ。
フロアの中央からは、美しい夜景をバックに感動の再会を果たしたぼくと星子を、白金ヒヅルのふたつの黄金の瞳が、見おろしていた。彼女の表情ははっきりとは見えなかったが、どこか淋しげな印象だった。
「兄貴。あの女、誰」
白金ヒヅルを指さしてそう問う星子に、ぼくは答えに詰まった。
ぼくたちの生き別れの姉とでも言うのか。あるいは真実をありのままに話すのか。しかし正直なところ、ぼくは白金ヒヅルが実の姉だという話をまだ受け入れたわけではなかったし、ぼくが父さんと母さんに《造られ》た人造人間だと言ったら、星子はどんな顔をするのだろう。
そう考えたぼくの脳裏に、もうひとつの疑問が浮かんだ。
待てよ。星子は?
ぼくや白金ヒヅルと同じ、父さんと母さんに生みだされた《人工全能》とやらなのか?
しかしぼくはすぐにそのアイデアを払拭した。
星子の顔は死んだ母さんに瓜ふたつ。一方で、ぼくは父さんにも母さんにも似ていない。髪や肌の色も白金ヒヅルと同じく、病的なまでに白い。おそらくこの、どこか人間味に欠けた純白こそが人造人間の証なのだろう。そしてきっと星子はその名が示すとおり、星二と明子の間に生まれた実の娘なのだろう。
「彼女は白金ヒヅルさん。秘密警察に捕まっていたぼくを助けてくれた命の恩人なんだ。何とあの白金財閥のトップなんだぜ」
「え」星子は意外そうに茫然と眼を見開き、声を洩らした。
白金ヒヅルは優しく微笑むと、ぼくに話を合わせるようにこう言った。
「恩人だなんてとんでもない。我が白金グループの皆さんの優秀な働きがあってこそです。私はただ、国家権力に不当に蹂躙される若者を放っておけなかっただけですわ。おほゝゝ」
「あの」
星子はベンチからゆっくり立ちあがり、白金ヒヅルのもとまで歩み寄ると、深々と頭を下げた。
「兄を助けてくれて、ありがとうございます」
白金ヒヅルは感心したように眼を丸くし、「ああ」と感嘆の声をあげ、両手を広げて、ぼくにそうしたように、星子を抱きしめ、その頭に頬ずりをした。
「何とまあ、律儀で健気で、かわいい娘」
白金ヒヅルのその豊かな双丘の間に埋もれ、苦しそうに「もごご」と星子は呻いていた。
「あの。苦しいです」という星子の言葉に、白金ヒヅルははっとして、あわてて彼女を解放した。
「失礼をば。おほゝゝゝゝゝ」
白金ヒヅルの抱擁から逃れてきた星子は、ふたたびこちらへと戻り、この兄に顔を寄せて耳打ちした。
「兄貴。あの人さ、何か」
その先を言うべきかどうか判断に窮したのか、言い淀む星子。
ぼくはどきりとした。ぼくと白金ヒヅルの類似性に星子が気づいたとして、何と言い繕えばいいのか。正直ぼくはここ数日でのごたごたで精神的に参ってきており、冷静に思考する余裕がなかった。ましてぼくよりもはるかに未熟なこの妹、安那子に暴行され、心に深い傷を負った星子に、唯一の肉親となったぼくが実は本当の兄ではなく父さんと母さんに造られた人造人間でした、などというSF小説のような荒唐無稽な話を受け入れられるとは思えなかった。それは時が星子の傷を癒やし、精神的に落ちつきを取り戻し、彼女がもう少し大人になってから、打ち明けるべきだ。ぼくはそう考えていた。
星子は結局その続きは言わず、「ううん。何でもないや」と、口を噤んだ。そして代わりにこんな質問をぶつけてきた。
「兄貴。これからどうしよう」
星子は、ぼくが覚醒剤取締法違反の容疑で警察に逮捕されたと思っており、ぼくそのものが国家機密の塊で、国家に始末されそうになっているとは夢にも思っていないだろう。
「それなら、ご心配には及びません。あなたがたには、しばらくこのビル内の居住区画で暮らしていただきます。あなたがたは今、政治犯の疑いで国家秘密警察から追われている身。ここなら追手がやってくることもなく、安全です」
白金ヒヅルが割りこむように提案すると、星子は困惑したように言った。
「そんな。私たち、何もやってないのに」
「何をしたのかは問題ではありません。たとえ白い鳥でも彼らが黒と言えば黒。あなたの父君は、実は国家反逆罪で秘密警察にマークされていました。そして母君の不審な死。その子供であるあなたがた二人が秘密警察にマークされていたとしても、何ら不思議ではありません」
星子の疑問に、白金ヒヅルはまるで最初から予め答えを用意していたように、すらすらと答えた。もちろん嘘である。父さんも母さんも、秘密結社ヘリオスに裏切り者として抹殺されたのだ。
「何でそんなに、詳しく知っているんですか」
星子は臆さずに疑惑を口にした。
「我々は独自の情報網を持っています。そして日本人の個人情報は《ユアナンバー制度》が施行されてからはすべて外部に筒抜け。今やあなたがた一般市民の収入や資産はおろか、学歴や経歴、病歴、趣味や特技、思想や信仰、好きな異性のタイプから下着の色まで公然の秘密ですわ」
白金ヒヅルが平然とそう告げると、星子は露骨に厭そうな顔をして「何ですか。それ。不快。気持ち悪い」と零した。
ぼくは星子を宥めるように言った。
「まあそれはともかくさ。星子。理不尽な話だけど、今ぼくたちは政府に追われている身なんだ。外は危ない。ここは素直に、彼女の厚意に甘えよう。今後のことはほとぼりが冷めてから考えればいいじゃないか」
「学校はどうするの」星子が訊いた。
「その点は心配いりません。当ビル内にある小中高大一貫校の私立白金学園に編入すればよろしい。手前味噌ですが、各分野から一流の講師を招き寄せた最高の学校ですよ。あなたの事情を考慮し、学費は全額こちらで立て替えておきましょう。あなたがいずれ社会に出て、返せる時に返してくださればよろしい」
ぼくに代わって白金ヒヅルがそう言うと、星子はまだどこか怪訝そうな顔をしていた。
「どうして見ず知らずの私たちに、そこまでしてくれるんですか」
「言ったでしょう。我々は国家に不当に蹂躙されている若者を放っておけないだけ。そうですね。正義の味方、というところでしょうか。おほゝゝ」
ぼくたちを助けて白金ヒヅルが得をすることなど何ひとつない。それどころか国家に追われているぼくらを匿うのは、彼女にとってはリスク以外の何でもないのだ。星子の疑念はもっともであった。だが、しばらく考えているうちに今は他に選択肢がないことを悟ったのか、この聡い我が妹は、白金ヒヅルに対して深々と頭を垂れた。
「御厚意に感謝します。白金さん。不束者ですが、お世話になります。よろしくお願いします」
「よろしい。よろしい。おほゝゝゝゝ」
白金ヒヅルは満足そうに微笑むと、黄金のインゴットを重ねあわせたような派手な扇子を取りだして開き、その口もとにあてた。