第百二話「大長公主」
「習錦濤を殺せ」
いきなり物騒な台詞を平然と言ってのけたのはヒヅル姉さん……ではなく、中華帝国大長公主・武紅華。中国北京のほぼ中心部に位置する紫禁城は坤寧宮、すなわち皇族の住む宮殿の謁見の間にて、ぼくは彼女の前で跪いていた。
一九四九年以降、中国国民党の尊皇派が中国全土を支配し、中華帝国を建国してから今までの約七十年に渡って、中国は皇帝を中心とした帝政国家である。しかしそれは表向きであり、実権を握っているのは中国国民党党首の習錦濤。現皇帝の武煌澤はまだ七歳と幼く、党に担がれるだけの神輿と化している。紅華は煌澤の実母であり、息子を傀儡の如く利用する国民党、殊に習錦濤に並々ならぬ憎悪を抱いており、大長公主、日本で言うところの皇太后の地位にあることからも、今作戦の協力者としてうってつけである。
紅華曰く、先代皇帝の武博文は習錦濤に毒殺されたという。表向きは病死とされており、真偽は不明だが、あの男ならやりかねないだろう。
紅華は憎しみに眼をぎらつかせ、孔雀の尾を思わせる派手な扇を口もとに当て、続けた。
「白金の、月人といったかの。あの憎っくき熊男を抹殺してくれるというならば妾は誰であれ歓迎するし、ありとあらゆる協力を惜しまぬ。成功した暁には、そなたの望みどおり煌澤が成人するまでは妾が中華帝国の最高権力者として中日同盟の再締結と、いけ好かぬブラックメロンとの共闘を約束しようぞ」
「ありがとうございます。我々は貴女こそが中国の最高指導者に相応しいと考えております。貴女の協力が得られるならば、習錦濤とその一味に皇帝殺しの鉄槌を下し、皇家を中心とする新体制を保障することをお約束します。我々の言葉が嘘や誇張ではないのは、王高麗の件でご理解いただけたかと思います」
武紅華を味方につけるため、ぼくは予め中国国内に潜伏させた工作員を使って、ゴリゴリの反日政治家で習錦濤派でもある王高麗という政治家に、インターネットの動画サイト上で堂々と習錦濤批判をやらせてみせた。むろんそんなことをすれば習錦濤によって〈粛清〉されるのは明らかなので、王はすでに日本へ亡命済みであり、姉さんに忠実な下僕としての教育を施した上で、中国政治の裏情報をたっぷり頂戴する予定である。
「我々は日中の真の友好と発展を望んでおります。すべて我々にお任せください」
自信に満ちた笑みを浮かべて言ったぼくに、紅華は邪悪に微笑んだ。
「取引成立じゃな。期待しておるぞ。月人よ。成功の暁には、そなたの望むものを何なりと与えよう」
京都会談の翌日には習錦濤の予告通りに、中国海軍が尖閣諸島および台湾に侵攻。
日本は領土と同盟国台湾を守るため、世界平和連合軍を率いて対抗。
戦力はほぼ拮抗しており、部分的な衝突が起こる程度で、全面戦争にはまだ発展していない。
ロシアは表向きは三国同盟の維持を主張していたが、結局は日本と中国のどちらにもつかず、様子を見て勝った方と同盟を組む腹づもりらしい。
アメリカは表向きは停戦を求めているが、ブラックメロン家の面々は敵同士が勝手に争っている様を見て笑いが止まらないことだろう。早いところ日中戦争を終息させ、三国同盟を再締結しなくては、ブラックメロンの〈終末計画〉――世界を地獄の業火で焼き尽くし、彼らに忠実な人間のみが生存を許される新世界の構築を止められなくなる。そこではぼくや姉さんのような反逆者はおろか、星子のように善良な一般人すらも生きてはいけないだろう。
姉さんは今回の習錦濤の反逆にはヘリオス、すなわちブラックメロンが絡んでいると見ている。
というのも、サリーが姉さんの手に落ちてから、初めてブラックメロン家が日本および白金グループに対して本格的な反撃に出たのだ。
第一に経済攻撃。
白金グループの主要産業のひとつである半導体製品に対する全面的な禁輸措置を、まず米国が決定。白金エレクトロニクス製のスマートフォンやタブレット、PCがユーザーに無断で情報収集していたことを挙げ、そのリスクを強調し、欧州各国が追随した。しかし我が白金グループは悪用目的で個人情報の収集を行ってはいない。姉さん自らがシステムを解析したというのだから確かだ(全知たる姉さんは一流のITエンジニア顔負けの知識と技術を持ち、世界のコンピュータOS・SUNSのカーネルを生み出し、人工知能IRISの中核機能開発にも参与している)。つまりこれはヘリオスおよびブラックメロン家が仕掛けてきた経済攻撃と見て間違いない。白い鳥も彼らが黒と言えば黒、ということなのだろう。
第二に情報および外交戦。
サリーを拉致し洗脳した〈人権蹂躙国家日本とその独裁者白金ヒヅル〉という触れこみで、世界各国で姉さん悪魔化作戦を進めている。世界の大多数の国々が日本製品のボイコットを始めたり、理不尽に高い関税をかけるなどして貿易面での締めつけを強化。また石油や鉱物などの資源の輸出にも厳しい制限をかけはじめた。サリー自らが「私は自らの意思でヒヅルに協力しているの。彼女は私のかけがえのない親友なのだから」などと発信したところで、それはサリーが姉さんに脅されている説、マインドコントロールされている説を各メディアが舌先三寸口八丁にでっちあげ(いや、マインドコントロールしているのは事実か)、無知な大衆の間ではヒヅル姉さんはすっかりヒトラーさながらの血も涙もない独裁者として糾弾されはじめている。国内においてはほぼすべてのメディアを我々が掌握しているので内需によって何とかやりくりしている状況ではあるが、国外市場での白金グループの収益は大幅に落ちこみ、それに引きずられて日本のGDPも十パーセント近くの下落。経済面において世界第二位の座を中国にふたたび許してしまう。対抗策として中国やロシアとの連携を推し進めようと先日の京都会談を開いたのだが、習錦濤の掌返し。今まで比較的良好だった三国同盟がこうも急に破綻したのは、裏で何かあった可能性が高い。
ブラックメロン家は世界の金融とエネルギーを支配し、世界の七割の富を掌握する、事実上の世界の支配者一族である。十人にも満たない一家が世界を牛耳っているだなんてまるで陰謀論のようだが、事実である。自由社会を標榜する欧米諸国も、各国に送りこまれたヘリオス百人委員会すなわち幹部たちがかなりの割合で政治に食いこんでおり、またほとんどのメディアの筆頭株主はブラックメロン一族の誰かなので、彼らにとって自由主義社会の世論と政治を動かすことなど朝飯前だ。
サリーという身内を奪われたことによって、ヒヅル姉さんを討ち倒すべき敵と認め、本格的に潰しにきたということだろう。
習錦濤は臆病な男で、数人の影武者が存在する。京都会談に来たのが偽者なのは、ヘリオス時代に〈人間嘘発見器〉とまで呼ばれた姉さんがそう言うのだから間違いなかろう。つまり習はベーチンとは異なり、姉さんを共に戦うパートナーとして信頼していなかったということ。
白金機関にはアルマという天才の開発した超小型ステルスドローン兵器があり、ぼくの潜入技術と合わせれば、彼奴の抹殺自体はそれほど難しいことではない。だが問題はひとたび彼の偽者を抹殺すれば、しばらく表舞台に出てこなくなる可能性は高いということだ。日本や台湾が軍事侵攻されている今、じっくり本物探しをしている余裕はない。だから可及的速やかに、本物の習錦濤をおびき出して、始末しなくてはならない。
こういう時に肝心なのは常に複数のプランを考えて行動すること。多角攻撃だ。標的の所在がわからない場合、まずは外堀、周囲の人間を籠絡する。そこでぼくは習錦濤の秘書と、彼の側近とも言える中国を牛耳る国民党の上位五人(序列二位から五位、通称〈四天王〉)、そしてかかりつけの主治医の身辺を調査した。
ぼくの顔は白金月人として生まれ変わった時に整形され、やや男らしいハリウッド男優のようになってしまったため、ぼく自身が女装して色仕掛けで標的に接近する旧来の方法は使えない。
しかし問題はない。
白金機関には〈悦び組〉というハニートラップを専門とする特殊部隊が存在するし、その多くがぼくに匹敵するほどに高度な潜入および変装の技術を持っている。
「あー、つっきー先輩。ちーす」
頭の軽そうな挨拶とともに司令室に入ってきたのは、昼馬聖。
とても優秀な部下で、〈悦び組〉期待の若手なのだが、実はある問題を抱えている。