始はヒガシとアズマ
こちらはお暇つぶしにご利用下さい。
東智之は唖者だった。目も見える。耳も聞える。唯一声だけが出なかった。
それは先天性のもので、生まれたときから智之は声の無い生活を続けている。
大学の構内は、活気に満ちていた。授業の合間のこの時間は、いたるところで、学生達が立ち話をしている。
智之はそんな人の間を縫うように、一人で歩いていた。次の講義まで間があるので、図書館で調べものでもしようと思っていた。
その時ふと、智之を呼び止める声が聞こえ、そちらに目を向ける。
「おい、あずま」
智之は一応顔を声の方へ向ける。もし智之に声があったなら、智之は即座に言い返していただろう。
僕の名前はあずまじゃないと。
あずまと呼び間違った男は、智之の前で足をとめると何かを差し出した。
「おい、落としたぞ。これ」
差し出されたのは、いつも持ち歩いているノートだ。
智之は受け取って頭を下げる。もう一度、ノートを渡してくれた男を見上げる。
名前は知っている。坂木翔太だ。この大学でも目立つ人物で、他学部の生徒にもその名は知られていた。
理由は彼の容姿と性格にある。容姿はモデルにもなれると言われるほど均整の取れた体つきで、顔も堀が深い。
性格は良く知らないが、智之が目にする彼はいつも数人の友人に囲まれて、大きな声で笑っている。そんな印象だった。
「おい、拾ってやったんだから何とか言えよ」
智之は困った。ノートを広げ、とりあえず礼の言葉でも書こうかと思った時だった。
坂木が舌打ちした。
「ちっ、何だよ。お前いっつも態度悪いよな。皆言ってるぜ? 付き合い悪いし、超態度悪いって。すっげー高飛車でやな奴ってさ。まあ、お前が一人でいたいならそれでもいいと思うけど? お前が敵作るのも、みんなお前の勝手だからな」
早口でまくし立てられ、智之は呆然と彼を見上げた。怒っている顔は始めてみた。堀が深い分怒った顔にも迫力がある。
智之自身、自分がどういう風に誤解されているかは知っていた。
話しかけられても、答える術の無い自分。ノートに返事を書いている途中で、待ちきれなくなるのか、話し掛けてきた連中は姿を消すか、怒り出す。
はっきり言って、智之にも言い分はたくさんあったが、言い返す言葉を書く前に、坂木が友人に呼ばれて行ってしまった。
ふと気づくと、あちこちから視線が自分に突き刺さっている。智之がそちらを見ると、視線はあらぬ方向へ去っていった。
智之は顔を顰めて、溜息を吐いた。さっきの目的だった図書室へ足を向ける。
言いたいことだけいってさっさと行ってしまう。最近の若い人は、本当にせっかちだよな。
智之はおじさんのように、そんなことを考えていた。
講義を全て終え、智之は大学の構内を出て、中庭を進んでいた。
その時、智之はまた名前を呼ばれた。
今日はよく名前を呼ばれる日だ。しかもどちらも間違えている。
今度は、智之にこう呼びかけてきた。
「ヒガシ君」
振り返った智之が見たのは、同じ学部の女性だ。見覚えがある。彼女の周りには友人だろう。二人の女性がいる。三人とも今時の格好をしていて、勉強よりも遊びが好きですという感じに見えた。
「ねえ、ねえ、ヒガシ君って彼女いる?」
智之は面食らった。殆ど初めて話す相手に、こんなことを聞かれるとは思わなかったのだ。
「実は、美香がヒガシ君のこと結構気に入ってて、もし良かったら付き合ってやって欲しいわけ」
智之は美香って誰だよと思いながら、喋り続けている女性を見る。
さて、困った。こういう誘いは初めてでは無いが、はっきり言っていい気分ではない。
告白するなら自分で言えばいいのに。あと、きちんと名前ぐらい調べろと言いたい。
「ね、聞いてる? 美香と付き合ってやってよ」
智之は溜息を吐いて、首を振った。
「えー、何よ。ダメって言うの? 美香アンタも黙ってないでちゃんと言っときな」
智之に声をかけてきた女性は、横に立っていた女性に話を向けた。
この子が美香か……。
そう思って、美香と呼ばれた女性を見ると、その女性は智之から目を逸らした。
「もういいよ沙耶。行こう。なんか感じ悪いし。もういいよ」
「えー、まあいいけど。ホント噂どうりやな奴ね。ヒガシ君って最低」
「普通、告られたら何か一言あるでしょうが」
「キショ」
そう言って、彼女達は歩き去って行った。
嵐が過ぎた。そんな気分だ。
何だか今日は本当に疲れた。
朝は男に怒鳴られ、帰りは女に睨まれ。
どうして、こうなるのだろうか。
またまた溜息が吐きたくなってきた。
声が無いだけで、どうにも上手くコミュニケーションが取れない。
大学に入った時。大学側には、智之が唖者であることを伏せてもらうように頼んでいた。自分一人で、ちゃんとした友人を作りたかったのだ。
小さい頃。智之の周りにはそれなりに人がいた。皆、優しく友達のように接してくれた。だが、それは、先生が智之に内緒で、そうするように生徒へ言っていたからだ。それを、智之は知っていた。内緒にするようにと言ってはいても、子どもというのは、そうそう黙っていられないものなのだ。
智之はいつも、特別扱いされる子どもだった。
もう大学生だ。特別扱いされるのは、嫌だった。
ただの我がままだと分かっている。でも、友人くらいは、自分の力でつくりたかった。
中庭を過ぎ、校舎の脇を通っていると、ふと前を歩いている人物の中に、今朝智之に話し掛けてきた坂木の姿を見つけた。彼の周りには、二人の友人らしき人物がいる。
智之は見つからない様にと思って、ある程度の距離を保って彼らの後ろを歩いていた。今朝の事がある。また何か言われたら面倒だと思ったのだ。まあ、気にしすぎかもしれないが。
何気なく上を見上げた。
そして、見てしまった。
四階の窓にあった植木鉢に窓の掃除をしていた女性がぶつかった。傾ぐ植木鉢は重力に逆らうことなく窓を乗り越える。植木鉢は前を歩く坂木たちの上に落ちていく。
このままでは脳天直撃だ。智之は焦った。植木鉢を倒した女性は声もなく青ざめている。声があるんだから叫べよ。智之は心の中で悪態を吐く。
何か無いか。彼らの足を止められる物。そんなことを考えている間にも、植木鉢は落ちてくる。
ええい。
智之は持っていた鞄から筆箱を取り出すと思いっきり路面に叩き付けた。
ガッシャーン。
思ったよりも大きな音がした。一斉に智之へ周囲の視線が突き刺さる。坂木たちも音に驚いたのか、こちらを振り返った。
まさにその瞬間。
彼らのすぐ前を植木鉢が通過した。
ガチャ。
すぐそばでした音に驚いた坂木たちが振り向いて、落ちてきた植木鉢を見て騒ぎ出した。回りも騒然となっている。
良かった。
智之は、ほっとして力が抜けた。その場に膝をつくと、壊れた筆箱が目に入る。プラスチックで出来た筆箱は割れていた。その筆箱から飛び出したシャーペンや消しゴムを拾おうと手を伸ばした。
そんな智之の視界に、誰かの靴が入った。見上げると、難しい顔をした坂木が智之を見下ろしている。坂木は自分もしゃがむと散らばったシャーペンを拾ってくれる。それを智之に差し出しながら、坂木は口を開いた。
「なあ、お前、俺たちを助けようとしてこんなことしたのか?」
智之は軽く頷いた。
「一言叫べばいいじゃん。危ないって」
智之はそう言った坂木の前に手を出した。ちょっと待ってという気持ちをジェスチャーしたわけだ。
「ああ?」
訝しげな声を出した坂木に、智之は鞄の中からノートを取り出して広げた。
ノートにはこう書いてある。
『僕は唖者です』
「ぼくは……あしゃだって?」
坂木は驚いたような声を上げた。
「あ? あしゃって何だ?」
いつの間にか坂木の友達も、坂木の後ろに立ってノートを覗いている。
「バカ、唖者っていや、喋れない人の事だろうが」
「え? そうだったの」
智之はそう声を上げた赤茶けた髪の男性にへらっとした笑みを向けた。
「何で言わなかったんだよ」
坂木がふてくされたような声を出す。
そこへすかさず、先ほど唖者の説明をした眼鏡の男性が言った。
「だから言えないんだよ」
「分かってるよ。だからどうして説明しなかったのかってことを俺は言いたいんだ」
智之はもう一度ちょっと待ってとジェスチャーしておいてから、ノートを開いてさっき拾ったばかりのシャーペンの芯を出す。
『説明しようにも、皆僕が書き終わる前に怒ってどこかへいってしまう』
そう、ノートに書いて坂木たちに見えるように、ノートを持ち上げた。
「ああ、そうか。俺もそうだったかも」
坂木が頭を掻いてそう言った。
智之はもう一度にっこりと笑う。
「えーと、あずま。悪かった」
坂木がいきなり頭を下げたので、智之は慌てた。
『別に謝る必要は無い。けど』
「けどなんだい? あずま君」
眼鏡の男性が問う。智之は続きを書いた。
『僕の名前は東智之とかいて、ハジメサトシと読むんです。じつはずっと言いたかった』
それを見た三人は三様に顔を見合わせ、そして笑った。
その笑い声に、智之は笑顔を返した。
最後までご覧いただき、本当にありがとうございました。
こちらは数年前に書いたものでございます。しかも長編の第一章の途中までという形です。それを短編形式に少し手直しし、投稿させていただきました。長編としてはもう書けないとおもいまして。
オチがあるような無いような話でございますが、お暇つぶしにご利用いただければいいかなと、投稿させていただきました。
最近、多忙で小説を書けないという現実からのちょっとした逃避でもあるのかもしれません。
では、すこしでもこのお話がお気に召していただける事を願って。
愛田美月でした。