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六 叩きつけられた挑戦状

 そのとき、沙樹の携帯からオーバー・ザ・レインボウの曲が流れてきた。ワタルからの電話だ。

「彼氏か?」

 答えずにいると、友也は腕の力を緩めた。

 自由になれた。沙樹はバッグを手にして逃げようとする。ところが友也はいきなりそれをひったくり、スマートフォンを取り出した。

「ちょっと何するの。返してよ」

 沙樹は手を伸ばす。取り返せない。慌てる沙樹を尻目に、友也は電話に出た。

「あんたが沙樹の彼氏か? おれは仲谷っていうんだが、あんたに負けないくらい、沙樹が好きだ。あんたと違っておれは沙樹を放ったり、不安にさせたりしない」

 相手に口を挟む間を与えず、友也は一方的にまくしたてる。いきなりの宣戦布告だ。友也は沙樹にも聞こえるように、スピーカーフォンに切り替えた。

「おい、聞いてんのか?」

 ワタルは黙ったままだ。

「何も言わないのか。だったら沙樹はおれがもらう」

 挑戦的な言葉に沙樹がハラハラしていると、ワタルがやっと口を開いた。

『――どうするつもりですか?』

「明日の特番が終わったら、おれは沙樹を連れて田舎に帰る」

「だからその話は断ったでしょ」

 友也が勝手に言っているだけだとワタルに伝えたくて、沙樹は慌てて口を挟んだ。

『それについては……沙樹は同意しているんですか?』

「答える義務はないね。ただおれは、沙樹があんたのような不倫相手に遊ばれてるのが見てられないんだよ」

『不倫? 沙樹がそんなこと言ってるんですか』

 ワタルの声が一オクターブ上がる。友也はそれが癪に障ったようで、顔を真っ赤にして、

「沙樹がなんと言おうとおれの気持ちは変わらねぇ。さらってでも連れて行くからなっ」

 と叫ぶように答えた。

『それは困りました。おれはどうすればいいんですか』

「そうだな……」

 友也は顎に手を当て数秒沈黙する。やがて不敵な笑みを浮かべた。

「こうしよう。明日の夜九時半に局のロビーまで来い。不倫じゃなくて本気だっていうなら、仕事くらいなんとかしろよ」

『もし行けなかったら?』

「沙樹はおれがもらう」

 ワタルの声が途切れた。何を考えて沈黙しているのか。沙樹は「だめだ。彼女は渡せない」という返事がくることを期待して待ち続ける。ところが――。

『解りました』

 感情の伴わない声でそう言い残すと、ワタルは電話を切った。

「ということだ。解ったな」

 期待した返事が聞けず呆然としている沙樹に、友也は険しい顔のままでスマートフォンを返した。

「あたしは物じゃない。勝手に決めないで」

「考えてみろよ。これで相手の気持ちがはっきりするぜ。少なくとも本気か遊びかは解る」

 ワタルを試す? そんな必要はない。

「言っとくけど、誰を選ぶか決めるのはあたしだからね」

 沙樹はドアのレバーに手を置いた。

「ちょっと待ってくれ」

「何? 話すことなんてないんだから」

「さっきはすまなかった。ついあんなことしちまって……。でもおれ、本気だから。本当に沙樹が好きだ。愛してる。趣味も考え方もすっげえあうし、一緒にいると心が弾む。だから一度考えてくれ。この先どうなるか解らない彼氏と比べて……」

「聞きたくないっ。あたし、友也を見損なったよ。信頼をあんな形で壊した上に、彼氏にまで挑戦状を叩きつけるなんて。明日の特番が一緒にする最後の仕事だからねっ」

 沙樹は乱暴に車を降り、足早に自分の部屋に戻った。

 突然力が抜けてベッドの横にへたり込んだ。

 がらんとした空間と静けさが不安を増幅する。沙樹は最後の力でラジオをつけ、自分の勤めるFM局にあわせた。

 まさかあんなふうに抱きしめられるとは思わなかった。いくらなんでもうかつだったと、自分の軽率な行動を後悔する。あのタイミングでワタルから電話が入ったのは幸運だった。

 しかしおかげで友也には電話を邪魔された上に、余計な波風を立てられた。明日の仕事で顔をあわせることを考えると、吐き気がする。休めるものなら休みたいが、個人のわがままを通すほど子供ではない。

 ――これで相手の気持ちがはっきりするぜ。少なくとも本気か遊びかは解る。

 友也の言葉が耳の奥で響いた。

「ワタルさんの気持ちをはっきりさせる……か」

 いや、そんな必要はない。ワタルは職業柄、自分の想いで決断や行動ができないだけだ。好きで中途半端な状態を続けているわけではない。

「でも……本当にそれだけ……?」

 事務所の意向という言葉は真実なのか。仕事をカモフラージュにして、沙樹の知らない事実が進んでいるかもしれない。イブに珍しく誘ってきたのは、後ろめたい何かが陰にあるからか?

 ワタルの本心を知るには、いい機会になりうる。

 友也の行動は偶然にも、沙樹の今後を決定づけるものになりそうだ。ワタルの態度次第では、沙樹も決断しなくてはならない。

「やだ、あたしったら何を考えてるの? ワタルさんが信じられないっていうの?」

 初めて会ったときから数えたら十年近くワタルのことを見てきた。

 たしかに見た目は軽そうだけど、根はまじめで誠実な人物だ。人を裏切るようなことをするはずがない。

 解っているのに、一度生まれた不安と疑惑は消えない。

「不倫になんてなっていないよね。都合のいい女じゃないよね……」

 友也の投げた言葉は、透明な水に落とされた一滴のインクのごとく、沙樹の心に黒い雲となってゆっくりと広がっていく。

 そのときだ。ワタルから二度目の電話がかかってきた。一刻も早く不安を消し去りたい。ワタルの声を聞けば、いつものふたりに戻れるはずだ。

『すごい話になってるね。全然知らなかったよ』

 挑戦状を叩きつけられたあとなのに、ワタルの声はいつもと変わらず穏やかだ。

「友也が勝手に言ってるだけだから、気にしないで」

『やっぱりトミーさんか、さっきの。沙樹に好意を持っているのはなんとなく解っていたけど、まさかプロポーズしたとはね。この前話していた、ル・ボン・マリアージュで言われたってとこかい?』

「う、うん……」

 相変わらずワタルは鋭い。変に隠したりせず打ち明けておけば、こんなトラブルは起きなかったかもしれない。

「友也の言うことなんて気にしないで、アンコールまできっちりこなしてね」

『それなんだ』

「ワタルさんが来られなくても、あたしは友也について行かないから」

『そうじゃなくて』

「そうじゃない?」

 沙樹はワタルが言おうとすることがよく解らない。

『ずっと気になってたんだけど、沙樹はトミーさんのことをいつも『友也』って呼び捨てにしてるね。おれはいつまでたっても『ワタルさん』なのに』

「友也もあたしのこと沙樹って呼び捨てにしてるよ」

『おれもずっとそうだよ』

「え? あ、ほんとだ」

 指摘されるまで意識していなかった。

『それに最近の沙樹はいつもトミーさんのことばかり話しているよ。気づいてなかった?』

「だって今、一緒の仕事が多いし。それだけだって」

『週に一度三時間番組を担当してるだけだろ。一緒にいる時間なら、和泉さんの方が遥かに長い。でも彼のことは滅多に話さない。つまり沙樹の中で、トミーさんの占める部分が増えてきてるってことじゃないか?』

「まさか。そんなわけないでしょ」

『いや、無意識のうちにトミーさんのことを考えてるよ。沙樹が気づいてないだけで』

 ワタルの意図が解らない。

「友也のことなんてどうでもいいじゃない。そんなことより明日は会えるよね? ライブ終わったあと」

 ワタルからの返事はない。

「連絡待ってるからね。メールでも留守電でもいいから」

 電話の向こうから小さなため息が漏れた。

「ワタルさん、聞いてるの?」

『……あ、ああ』

「ライブ終わったら電話してね。ずっと待ってるから」

『いや……無理して待たなくてもいいよ。トミーさんについて行きたければ行くといい』

 ついて行け? 今のは本当にワタルが言ったのか? 沙樹は耳を疑った。

「ワタルさん、何言って……」

 沙樹を拒絶するように、ワタルはいきなり電話を切った。無機質な発信音が耳元で響く。

「信じられない。友也について行きたいわけないでしょ。あたしが誰を好きなのか、そんなことも解らないの?」

 沙樹はすぐワタルにかけ直したが、無感情な女性の声で、電話が通じないことを告げられた。

「そんな……」

 忙しい中で会えない日々が続くことの意味がやっと解った。

 いつまでも新鮮な気持ちでいられる? そうじゃない。一緒にいたいという気持ちが弱かっただけだ。周りの目ばかりを気にしてきた結果がこれなのか。

 無責任な週刊誌にネタにされても、最後には乗り越えてきた。それなのに今になってこんな事態を招くとは、思いもしなかった。

 ワタルはこれを機会に、長すぎる春に終止符を打つことにしたのだろう。友也を口実にして、別れるつもりでいるのか。

 明日はクリスマスイブ。凍える寒い冬だから、ひとりよりふたりでいたい。一年で一番大好きな人にそばにいてほしい日だ。

 たった一駅しか離れていないふたりの家なのに、深くて底の見えない闇が隔てる。

「ワタルさん、もうあたしとは会いたくないの?」

 出会ってから今日までの日々が沙樹の脳裏を駆け巡る。

 最初から気にかかる人だった。回り道の末につきあうようになるまで長かった。どんな困難も乗り越えたつもりだったが、すべては錯覚に過ぎなかった。

 つないでいたはずの手はいつの間にか離されて、沙樹はひとりで立ち尽くす。

 不意に視界がぼやけたかと思うと、涙の粒が頬を伝った。

 スピーカーから流れるのは、大好きなクリスマスソングだ。優しく囁くような声でさえ、今の沙樹を慰めることはできない。胸を支配する黒い雲は、どんなに消そうしても消えずに広がり続けていた。



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