三 想いと思い込み
――好きだ。
――結婚を前提に。
――おれとつきあってくれ。
結婚を前提に、友也と、つきあう?
言葉のひとつひとつを噛みしめるように、沙樹は頭の中で繰り返した。誰が聞いても疑いようのない告白であり、プロポーズだ。
たしかに友也とは気が合う。何でも気兼ねなく話せる男友達だ。仕事に対する情熱も思いも方向が同じで、それを知ってからはますます好意を抱くようになった。
ただそれは異性に対する感情ではなく、あくまでも友情に過ぎない。友也を男として、ましてや恋愛対象として意識したことは一度もなかった。
友也も同じだと、ずっと信じていた。
沙樹は両手を膝に置き、そこに視線を落とす。
「知ってるよね、あたしにはつきあってる人がいるってこと」
「ああ、前に聞いたからな」
「じゃあどうしてプロポーズなんてするの?」
「彼氏ってえのがどんなやつか知らないけど、沙樹を悲しませてるからさ」
「悲しんでなんかないよ」
「嘘つくなよ。今日だって結婚のこと考えて、寂しそうな顔してたじゃねえか」
図星だった。
中途半端な今の関係をこのまま続けていいのだろうかと、三十歳を手前にして思わない日はない。そうでなくともワタルのまわりには魅力的な女性がたくさんいる。いつ心変わりされてもおかしくないという不安は、沙樹の心に常に巣食っていた。
「そんなこと……ないよ」
沙樹は唇を噛み、膝においた両手を強く握りしめる。
「ほら、そうやって暗い顔になる。誰がそうさせてんだ? 彼氏だろ」
返す言葉がなかった。
「本当に結婚する気があるのかよ、そいつ」
あるよ、と断言できない。
「中にいるんだよ。本命は別にいるのに、上手いこと言ってセフレをつなぎ止めるやつ。沙樹はそいつに都合のいい女にされてるだけじゃないのか」
黙って聞いていたらあまりの言い草に、沙樹は唇を震わせる。
「友也、今のは言い過ぎだよ」
「おれなら沙樹を悲しませない。絶対に泣かせない」
「絶対なんて、無責任に言わないでよ」
「おれは本気だ。思わせぶりでずるずるつきあうだけの彼氏とは、さっさと別れちまえよ。おれが必ず幸せにするから」
ワタルは沙樹のことを都合のいい女だなどと思っていない。そんな人ならとっくに別れている。自分たちの事情も知らずに推測で決めつけている友也に、沙樹は怒りが湧いてきた。
「彼のこと何も知らないのに、いい加減なこと言わないで。友也のこと嫌いになるよ」
「不倫なんだろ?」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……え、今なんて?」
「存在すら知られたくない相手って、不倫しか思いつかねえ。そうなんだろ」
友也の視線に哀れみが混じったのを、沙樹は敏感に感じ取った。
「あたしのこと、そんなふうに見てたんだ。かなわぬ恋に溺れてるばかな女って思ってるんだね」
「いや、そんな訳じゃ……」
「じゃあ何? 自分のこと、だまされてるかわいそうな女を助けにきた白馬の王子様だとでも?」
友也は返す言葉に詰まり、自分から視線を外した。沙樹の頬は熱くなり、膝に置いた手が小刻みに震える。
信頼できると思ったから、彼氏がいるかと聞かれたときにイエスと答えた。相手の素性を明かさなかっただけで、好き勝手にシナリオを書いていたとは夢にも思わなかった。
もうここにいたくはない。友也の顔など金輪際見たくなかった。
沙樹は立ち上がり、水の入ったグラスを手にする。そして友也のそばまで移動し、頭の上で引っくり返した。
「わっ。冷てえっ」
友也の悲鳴が店内に響き、客の視線が自分たちに集中した。静かで落ち着いた店内が、急にざわめき始める。
店の雰囲気を壊してしまった。こんな場違いな場所に、初めから来るべきではなかった。すべては仕事の相談だと思ってついてきた自分の判断ミスだ。
「あたし帰る。請求書まわしといてねっ」
騒ぎを聞きつけてソムリエが顔色を変えて飛び出してきた。彼からコートと荷物を受け取り、沙樹はテーブルを離れる。
「っと待てよ。沙樹っ」
友也の呼びかけを無視して、沙樹は足早に店を跳び出した。
「仲谷、大丈夫か?」
ソムリエがタオルを渡しながら、心配そうに問いかける。
「ああ。しかし断られるのは予想してたが、こんなことされるとは思わなかったぜ」
友也は髪の毛を拭きながら答えた。
「プロポーズするって話だから、とっくにいい関係になってると思ってたんだがな。まさか片思いだったとはね」
「いいんだよ、今は。これから振り向かせるから」
「それにしても、なかなか感情表現の豊かなお嬢さんだ」
「だろ。あの激しさがたまらないね。ますます惚れちまったぜ」
友也は不敵な笑みを浮かべて、ガラス越しに外を見つめた。