ランドルト環の隙間から
視力検査で隙間の向きを問われるあの輪っかの出来損ないみたいな奴の名前が急に気になったので、三ヶ月振りに引き篭もりの妹の部屋を訪れることにした。
我ながら一体全体どうしてそんなものが気になってしまったのか甚だ不思議だし、それを三ヶ月も引き篭もってる妹に訊きに行こうなんて思った理由もとんと見当がつかない。
それにしても三ヶ月というのは良くない。せめて一ヶ月か二ヶ月でよしておけばいいというのに、あるいはあと一ヶ月早く引き篭り始めて四ヶ月だったなら良かったのに、寄りにもよって三ヶ月とは。
勿論、僕自身、三という数字自体は好きだ。二十とか十とか丁度良い数字を割り切れないのはむしろ評価するべきところだと思う。割り切れない奴だ。
問題なのは三ヶ月間という期間だ。ちょっと気が向かないにしては長過ぎるし、逆に気が向いて引き篭もってるというにしては不自然に短い。
妹が三ヶ月間、あるいはそれ以上の期間引き篭もろうと思った要因は何なのだろう。余裕があったらそれも訊いておこう。そう心に決めながら自室を出る。違うな、僕が妹に訊きたいのは妹が引き篭もっている理由ではなく視力検査に隙間の向きを問われるあの輪っかの出来損ないみたいな奴の名前だった。最も妹がそれを知っているかは今の僕には分からないけど、何、妹には最悪インターネットという手段がある。
主にそんなことを考えながら廊下を歩く。ちなみに妹の部屋まではあと五メートルと階段一階分と三メートルだ。また、三か。
人の部屋まで移動するにはそこそこの距離だが、その間に大した障害があるわけでもない。どんなに探しても三ヶ月家に帰ってきてない姉とかが横たわってるはずはないのだ。
無事に妹の部屋の前に辿りつく。ノックを何回するか考えたけど、適切な回数が思い出せなかったので、本能的にノックしたら、僕の拳はドアを三回打ち付けた。すぐには部屋に入らず、僕は返事を待つ。親しき仲にも礼儀あり、というほどだ、親しくしていない兄妹ならそれはより顕著であるべきだろう。
何秒かして「どうかしたの?」と返事が来たので、「質問したいことがある」と答えて、中に入っていいか尋ねる。
「鍵は開いてるよ」
許可はしない、と言外に発している気がして、「間が悪かったか」と問う。
「お兄ちゃん相手だと常に間が悪い。けど、今日はそれを度外視にして間が悪い」
つまり二重に間が悪いということか。「出直した方がいいか」と尋ねてみる。
「三分待ったら開けてもいいよ。それくらいには終わってるだろうから」
「三分……? 駄目だ、一分か二分、あるいは四分にしなさい」
「じゃあいいや、入ってきて」
部屋の主から許可が降りたので、堂々とドアを開ける。
部屋に入るとまず最初に目に入ったのは輪っかだった。ちゃんと閉じている完全な輪っか。その大きさはだいたい僕の首が通るくらいだった。素材はどうも肌触りの悪そうな縄か何かのようだ。輪っかの上の方から縄の残りが続いていて、それは天井に打ち付けられたフックに掛けられていた。有り体に言って、首吊りなんかにうってつけの輪っかだった。
何故妹の部屋にそんなものが下がっているのか、分からなかったので、「これは何だ」と回転椅子の上で体育座りをしている妹に尋ねる。
「これにぶら下がったら気持ち良さそうだな、と思って設置してみた。初めて作ったにしては悪くない出来でしょ?」
「そういう健康法でもあるのか」と訊いた。
「健康法っていうより、治療法かな。これに首を引っ掛けてぶら下がるとどんな病気も一発なんだって」
本気で言っているのか分からないが、阿呆なことを言い出すものである。それは健康法でもなくましてや治療法でもなく、自殺法だ。「お前には死という概念が分からないのか」と思わず指摘する。
「分かるとも、死はね、万能の薬なんだよ。どんな病気も一発で終わるの」
なるほど、斬新ではあるが真でもある。しかし疑問点もある。僕には妹がそんな大層な手段を用いてまで治さねばならない病に冒されてるとは思えないのだ。引き篭もりであることを除けば至って健康そうな少女そのものである。僕はその疑問を妹にぶつけてみた。台詞としては、「ほう、ではお前はどんな病に掛かっているのか」だ。
「うん、実はね、私は五月病に掛かっているんだ」
僕は純粋に、それが三月病でなくて良かったと思った。
五月病。
もし彼女がそんなものに掛かっているなら、別の治療法を与えてやらなければいけない。なので、僕はまず最初に訊いた、「それは時が流れるのを待つのでは駄目なのか、時もまた死と同じで万能の薬となりうるんじゃないか?」と。
「違う、それは違うよ、お兄ちゃん。捻挫した足首にネギを巻くのと同じくらいそれは的外れな治療法だよ」
「それは相当な見当違いだな」
さすがにそこまで見当違いのことを言ったつもりはないのだが、患者である妹からすると一種の怒りすらも感じるほど的外れな指摘だったらしい。やや不機嫌気味に妹は話を続ける。
「お兄ちゃん、病名が五月病だからって舐めちゃいけない。そのせいで私は三ヶ月もの間この部屋に引き篭もることになっちゃってるんだし」
思わぬところで思わぬ事実が分かってしまった、なるほど妹の引き篭もりは五月病のせいだったのか。
しかし、五月病、五月病か。よく新社会人とかが新しい環境に上手く対応しきれずにストレスを抱え込んでしまってなるものだと知っていたけど、妹が三ヶ月前に新しい環境に放り込まれたかといえば特にそんなことはなかったはずなのだ。
「お前が五月病になるような環境の変化があったとは思えないんだけど、何か思い当たる節はないのか」
僕がそう尋ねると、妹はよくぞ訊いてくれたと言わんばかりに木製の机のささくれを引き抜いた。
「それなんだけどね、五月病に掛かってるのは実は私じゃないんだよ」
何を言い出すかと思えば、自分が五月病に掛かってると言ったのはついさっきの話だ。それをひっくり返すとは。度し難い。「どういうことなんだ」と訊いた声の語気も強くなろうというものだ。
「うん、掛かってるのは私自身ではないの。私の体に掛かってるんだよ」
それは自身に掛かってることと大した差はないように思えて堪らないのだけど、患者本人がそう言うからには何か事情があるようである。
「具体的には私の眼球なんだけどね」
「眼球。目ってことか」
確かに目は普段から使うからストレスはかかりそうではあるけど。それは新しい環境に適応できずにというのは少し違う気がする。
「お兄ちゃん、私の顔見てみて」
そう言われて思わず顔を上げる。今まで気づかなかったけど、僕は俯いていたようだった。
妹の顔を見る。何の変哲もない、綺麗な顔だ。美少女という意味ではない、大きな傷も肌荒れ等もない滑らかな肌が綺麗という意味だ。顔立ちに限って見るなら妹のはごく平凡なそれである。黙っていては伝わらないだろうから「綺麗だな」と端的に感想を述べる。妹は照れもせず呆れたように溜息を吐く。
「違う、私が求めてるのはそういうお世辞じゃない」
違うらしい。ならあと指摘するべきこととしたら一つくらいだ。
「お前、眼鏡なんて掛けてたのか」
そう、妹は眼鏡を掛けていた。顔を見るのが久し振りなせいかいつから掛けていたのか思い出せない。
「そう、これが私の眼球が適応できなかった新しい環境というわけ」
眼鏡に慣れなかったせいで外に出るのが嫌になった。などというのは我儘もいいところだけど、まるで分からないかと言えばそうでもない。結局のところ妹自身も新しい環境に適応できなかったということなのだろう。
納得が出来て、ホッとした僕が部屋から出て行こうとすると、妹はボソッと一言。
「ランドルト環」
と言った。
「それは何だ?」と僕が尋ねると、妹は「お兄ちゃんの質問の答え、これを訊きに来たんでしょう」と答えた。
「あのアルファベットのCみたいな形した視力検査で使われる奴の名前をなんでお兄ちゃんが知らなかったのかは分からないけど、大して重要なことでもないから覚える必要はないと思うよ」
「そうか。まあ、教えてくれてありがとう」
僕はきちんとお礼を言って部屋を出る。
そういえば。
「Cってのはアルファベットでは三番目の文字だったな」
僕はうんざりした。
本編のまだるっこしさからここまで辿りつく人がどれくらいいるかは分かりませんけど、まずは読了ありがとうございます。前作を知っている方は一年半振り、そうでない方は初めまして、彼我差日夜です。
さて、今回は一つのことがどうしようもなく気になってしまうこだわりの強い男の話です。ありますよね、あとから振り返ると「なんでこんなことが気になったんだろう?」と思うようなことが気になって仕方なくなってしまうこと。とりあえず、それが頻繁に起こる方は手近なところにインターネットに繋げるものを用意するようにした方がいいと思います。劇中の彼もそうするべきでしょうね。
これを機にまた執筆活動をしていけばいいな、と思ってますので、今後ともよろしくお願いします。