BAD COMMUNICATION 1
気が付けば、いつも考えている。
――何故わたしは今こんなところにいるのだろうか。と。
眼の前に並ぶ文字の羅列からふと顔を上げると、大窓の硝子越しに剣の素振りをしていた彼――陛下とうっかり眼が合ってしまった。
内心の怯えを堪えつつ何とか口の端を攣り上げ(『笑って』とはお世辞にも言えない)、小さく頭を下げると、陛下は瞬時に整った男らしい精悍な美貌を不機嫌そうに歪め、こちらをきつく睨んだままどこかに行ってしまった。
その後ろ姿を確認し、極度の緊張から解放された弾みでホーッと大きな息を吐き出したわたしは、開きっ放しの本にぐったりと顔を突っ伏した。額に滲む脂汗からも、わたしが抱いた恐怖を充分にご理解いただけることかと思う。
この国の王妃に(無理やりだよ、無理やり。大事なことだから二回言わせてもらうよ)就任させられ、早四年。
突然理由も判らず王宮に呼び出され、殺されるのかとビクついていた時に連行された謁見の間で、拝謁したこともない最高権力者たる国王の前に何の前触れもなく引きずり出された挙句、いきなりその尊い国王陛下おん自ら「今日からお前が俺の正妃だ」と言い渡された時の衝撃と、付き添いとして同行してくれた祖父共々まっさらな紙のように蒼白になってその場に腰を抜かしてへたり込んだことは、未だ昨日のことのように思い起こせる。
が、残念なことに(いや、本当は全く残念じゃないのだが)、それから後のことは全く、まーーったく記憶にないのである。そう、それこそ一ミクロンたりとも。まるでそこだけブラックホールに呑み込まれたかの如くゴッソリ記憶の収納箱から抜け落ちていた。
そして、放心状態の祖父と孫娘を差し置いて、あれよあれよという間に(これぞまさしく絵に描いたトントン拍子!で。…いや、寧ろ階段を滑り落ちるように、の方が適切であろう。この場合)話は進み、流れ流されて現在の状況に至るのである。
そもそもわたしは、貴族などとは名ばかりの(これは決して謙遜などではなく、ほんまもんのほんまもんである)『歴史はあるが伝統はない!』を地で突き進む、どこまで行っても貧乏貧乏ど貧乏の男爵家の、これ又しがなくもつまらない一人娘であった筈なのだ。
御伽噺に毎度お約束で出てくるような、誰もが手を差し伸べたくなるような薄幸儚げな絶世の美少女でも、ダンスや歌などの才能に恵まれている訳でも何でもない。本当に本当に、『良く言えば普通、悪く言えば平凡地味』を王道でひた走る、「何の特徴もないところが特徴だね、アンタ」を余す所なく再現した、ある意味奇跡の女――それがわたしである。
勿論突出した特技もこれといってなく、唯一の趣味(というより最早これは習慣)は、只管読書!読書!三度の飯より読書好き!であること。とりえは、二十年間生きてきて一度も怪我や病気を経験したことがない、無駄に無病息災(?)な健康体であることくらいか。
どこまでも平凡を愛し、平穏を愛し、波風立たない平和な人生を歩もう。平凡、平穏、平和。いやー、何ていい響きなんだろう。これぞまさしく三猿ならぬ三平だね!三平バンザイ!ビバ!三平!
……だがしかし、仮にも貴族の娘(しかも兄弟いないし)が嫁かず後家はさすがにマズイか?一人娘である以上、家督を継いでくれる婿をどっかから貰って一刻も早く跡継ぎをこさえねばならないのだ。
しかも、前男爵の父はとっくの昔にポックリ逝っちゃってるし、母に至ってはわたしを生んで数日と経たない内に男作って蒸発しちゃうし、わたしに残された家族は最近益々肌色の部分の増したバーコード頭に磨きの掛かってきた前々男爵の祖父、もといお爺だけなのだ。
ああ、貴族めんどくせー。結婚なんかしたくないよー。一生本に埋れて、そのまま本を墓石に天寿を全うしたいよー。
そんなことを日々考えながらも、愛する祖父と極々僅かな(いや、本当にこんなどうしようもない名ばかり貴族の屋敷に残ってくれて有難う皆さん。あなた方こそ生き神さま、地獄に仏さまです)使用人の人たちと、屋根の傾き掛けた『こんなんで大丈夫なのか?男爵家』宅で、貧乏ながらも本に囲まれ、それなりに面白可笑しく過ごしていたのに。