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私学『強く生きる』


午後一時過ぎ、池田一家は砂川真徳の家に来ていた。砂川千賀子も一哉もいた。千賀子と池田正人、幸子夫妻は旧知の仲である。千賀子が東京で勤めていた時代の同僚だった。

「キラトとアキラを呼んできてくれるか」

 橘正也は一哉にたのんだ。

 キラトは井上輝人と言い、まさにキラキラネームの小学二年生、アキラと呼ばれたのは狭山彰と言い小学五年生だった。

 石垣マタハリホテルを登記する際に出資者に名を連ねた井上薫及び狭山秀武と顔を合わせたのは一度きりである。ホテルの完成記念パーティーの際石垣島まで来てもらった。彼らは官僚出身で既に退官していたが、何やら秘密裏に仕事を持っている風だった。三人は得体の知れない縁で結ばれた仲間だとの意識で意気投合し飲み明かした。二人は一哉が子供ながらに細々とパーティーの雑務をこなしている姿を見て素性を尋ねた。

 正也は千賀子が離婚してからの人生を説明してやった。二人は同居している孫に手の負えなくなった子供がいる事を話した。正也は彼らの孫達、即ち輝人と彰をあずかる事にした。酔ったせいで気が大きくなり安請け合いをした訳ではない。閃いた考えがあったのである。


 砂川真徳は深紅を手招きし、 門扉から家の方向を指さして言った。

「今日からしばらくの間ここが君の家になるよ。今出て行ったのが僕の孫で砂川一哉。一哉は僕の孫だがここには住んでいない。お母さんと一緒に住んでいる」

 真徳は千賀子を指差した。互いに再会の挨拶は済ませていた。

 ややあって、一哉が二人の男の子を連れて来た。

「彰、この子は深紅、今日からお前の妹だ。虐める奴がいたら庇ってやれ。輝人、お前にはお姉さんが出来た。色々と教えてもらえよ。深紅、彰を手助けして輝人の面倒を見てやってくれ」

 深紅は笑みを作り二人の手を握った。二人はテレながら笑った。


「池田さん、ちょっと説明をしておきましょう」

 正也は方針と生活内容、そして期間の説明をした。


 一哉を除く三人は一旦ドロップアウトした子供達だ。第一の目的は彼らを元のレーンに戻すことである。そのためには『視野を広げる事』『正しく理解すること』『自信を持つ事』が肝心との考え方を核にして生活をすると言う方針を説明した。

「輝人と彰は故あって知人から預かっています。どちらも東京で登校拒否児童だったのですが今は元気いっぱいで、こちらの学校にも溶け込んでいます。一哉の事はご存じですね。この三人に加えてホテルの従業員の子供三人を加えた六名が私塾の生徒です」


 正也はサラリーマン時代日本にいる事がほとんどなく子どもたちとは接点を持たずに過ごした。新婚時代の一時期、妻は正也の赴任地ジャカルタまでやってきて過ごしたが、長男の出産時、お産のために日本に戻って以来外国での生活はもう出来ないと言われた。それでも三人の男の子に恵まれたのだから、日本に戻るたびにお務めは果たしていたのであろう。妻も正也そのものを嫌っていた訳ではなさそうである。正也にしてみればこう言った環境は自由が利き、『父はいずとも子は育つ』と嘯いていた。

 実際は妻がしっかり者だったおかげで三人とも大きな事故も無く無事大人になったのだが、末っ子は中学時代にドロップアウトし引き籠りとなった。長男は農水省の外郭団体である独立行政法人の研究員、二男は有名私立大学で経済学の準教授と立派な道を歩んでいたので末っ子のドロップアウトは父親のせいだと言う事になってしまった。

 末っ子はその後通信制の高校で学び卒業後はプログラマー養成の専門学校に通った。この末っ子が秀平である。脱線の後、何とか人の通う道に自力で這い上がったが兄二人からは落ちこぼれの烙印を押されていた。


 正也は輝人と彰に初めて会った時、胸に何かが詰まる様な感情が湧き出て来た。『神様が罪滅ぼしをしろと言っているのかな』自分の子供たちには何もしてやらなかった事に当初は何も感じていなかった。『食い扶持は稼ぎ生活は守ったのだから合格点じゃないか』という言い分もあった。しかし三男が落ちこぼれ、その内三人とも大人になってしまうと違った接し方もあったのではないかと思う寂しさが芽生えて来た。そんな折に他人の子供ではあるがまた子供たちと接する機会が出来たのである。


「ミク…皆と同じく呼び捨てにさせてもらいますが、池田さんと私の考えるゴールが同じかどうかは分かりません。従って一〇〇%任せて下さいと安請け合いする事も出来ません。ただ任せてくれる以上、人間本来が持つたくましさを目覚めさせる事に関しては請け合います。それ以上を望まなければお預かりしますがいかがでしょう」

 池田夫妻はお願いしますと言って頭を下げた。学校に行かなくなり、口もほとんどきいてくれなくなった娘に対して処置が無いのでここに連れて来るまでの話になったのである。縋れるものがあれば何にでも縋りたかった。千賀子の提案を丸々信じた訳ではないのだが、この島に来てから深紅の様子が一変した。口数が少し増え笑顔も見せる様になった。たった一日での変化である。信じてみようと言う気になっていた。

「深紅、ママ達は一週間の休暇をとってここに来たけど明日東京へ戻る事にしたわ。あなたとしばらく別れて暮らす事を決めたのにこれから五、六日もこの島にいるのは辛いの。ママはいつも貴方の味方だし元気な笑顔で帰って来るのを待っているわ」

「おかあさん…、もう一度頑張ってみる。学校に行けるのならお友達も作りたい。今までごめんね」

 深紅は一生懸命に言葉を絞り出した。

「手紙、いやメールでいいから時々連絡してね。それから何か面白いものや変わったものを見つけたら写メしてほしいの。待っているわ」

 涙顔に無理矢理笑みを作って深紅は頷いた。


 尖閣がらみのややこしいホテル運営が正也に任されることになった切掛けは雨宮と交わした取引である。そして成り行きで始めた『私塾・強く生きる』の二つから橘正也の顔は成り立っていた。



 午後四時を過ぎたころ、レンタカーで島内散策に出かけた日本人ジャーナリストの二人が戻ってきた。亮子はシャワーを浴びると言ってまっすぐ部屋に向かったが、立石は尖閣カフェのドアを開けてコーヒーをたのんだ。

「あんたここの支配人って肩書になっているけど、橘秀平さんって名前だよね。橘正也さんの息子さんなの」

「あなたもジャーナリストなら、日本には『あんた』と呼ばれても気にしない地域と不愉快に感じる地域がある事ぐらい知ってるよね」

 秀平は珍しくぞんざいに答えた。

「私は不愉快に感じる方の関東出身でしてね」

「いや、悪い悪い。この業界にいるとこんな喋り方が身についてしまってさ。俺も関東だよ。宇都宮なんで訛りを消しきれないんだけどさ。悪く取らないでよ」

 秀平一変して陽気に笑った。

「冗談ですよ」

「ん、なかなかやるね。で、あんた…、いやすまん、あなたは息子さんなの」

「あんたで結構ですよ。お察しの通り正也の息子です」

「しばらく滞在する事になるから仲よくしてよ。そうだ、名刺には支配人って書いていたけど尖閣カフェでコーヒーも点てているんだからマスターって呼んでもいいかな」

 この時から立石が大きな声でマスターと呼ぶものだから、その他の客も秀平の事をマスターと呼ぶようになった。

 立石は情報収集のつもりかコーヒー一杯で粘ってだらだらと話しかけて来た。

 かつて中学でドロップアウトし通信教育の高校から軌道を戻した秀平は元来人との会話が苦手である。しかし彼もまた石垣効果なのか、この島に来て以来多少社交的になっていた。もちろんそうでなくてはホテルのフロントは務まらない。

 立石と秀平は互いのペースをキープしながら取りとめも無い会話を始めた。


秀平はコンピューター関連の専門学校を出て、OS開発の小さな会社に就職をした。組込み型のOS開発の会社である。白物家電であれゲーム機であれ不必要な部分を取り除いたOSの需要があり、軽い、早いが要求される。蟻が生まれながらにその任務を認識しているのに似ていた。OS開発は言語を操る作業である。入口こそ違ったが父正也と次第に会話がかみ合うようになっていた。そんなある折に石垣島でのホテル経営の話が持ち上がり、一緒に来ないかと誘われたのである。当時三十前にして彼女も無く身軽な秀平は石垣島をフロンティアとする事に躊躇しなかった。

 社会人になっても人との接触が苦手だった秀平だが、石垣マタハリホテルの支配人と言う肩書で来た以上、従業員に対する差配が仕事である。口を利かないで出来る仕事ではない。またフロントに立っている以上客との接触もある。自然の内に人並みの会話がこなせるようになっていた。そうなると過去は何だったのだと言う後悔も残るが人と会話を交わすとは如何に楽しく有意義なものであるかが分かって来る。また副支配人を任せている砂川千賀子とは仕事上一番接触する間柄になった。

 おじさん、若しくはオヤジと呼ばれる世代は呼ぶ側によって年齢が決まる。秀平は島に来てから四年が経ち今は三二歳である。まだガキと言えばガキであるが高校生以下の年齢から見ればオヤジ世代かも知れない。オヤジがガキに舐められない為の三種の神器がある。喧嘩して腕力では負けない技があればそれに越したことは無いが、オヤジは顔は怖いが体力は衰えているのが相場である。

 英語が堪能である。会計に纏わる知識を正しく理解している。ITに関する知識が、年の割に若者の平均レベル以上である。

 これらがガキに舐められない為の三種の神器なのである。


 日本人はとんでもなく長い時間とお金をかけて英語を学ぶが、ものになる人はほんの一握り。学ぶ側の姿勢が指摘されるが問題は教える側にある。いくら外人教師を採用しようが小学校から英語教育を始めようが、コミュニケーションの道具として教えずに勉学の採点対象として教えるのでは楽しくない。大半の子供は会話が出来るレベルは達しないまま終わる。だからオヤジでも英語が堪能な人に対して若者は一目置く事になるのである。

 会計は社会そのものである。工学部を出ようが医学部を出ようが皆社会に出る。そして会計に縛られる事になる。全く知らないでいれば脱税指南に騙される事もある。一方商業高校であれは簿記二級を取るのが当たり前、出来る子は簿記一級をとる。しかし大学の経済学部を出ても簿記の観念すら分からずに卒業する学生は多い。従って会計に強いオヤジは世間の仕組みや経済にも明るいのでガキの権利と言えども見下す事が出来ないのである。

 ITにおいては特に秀でたレベルに達していなくても良い。最早パソコンやスマホは生活の道具である。若い世代でも得手不得手に分かれるが、若い世代から見ると年寄り世代は不得手が当たり前だと思っている。よってなめていたおっちゃんが普通にパソコンを操作しているだけで、自分よりはレベルは下でも侮蔑は出来なくなり『へぇ~、やるじゃん』と思ってくれるのである。

秀平をオヤジ扱いするのは可哀そうだが、より若い層に舐められない要素は持っていた。

 卒業した通信高校は英語の教材にナショナルジオグラフィックを用いていた。理系の英語も学ぶのである。日本の英語教育は題材のほとんどが文学や社会なのでたとえば『半径五センチの円。気化熱が温度を下げてくれる』などと言った日常使う理科の言葉を話せるようにはならない。秀平は社会に出てからも英語のスキルを上げて行く下地を通信高校で得る事になった。会計はまだ全くの素人であるが、ホテルの運営を前線でまかされているので現在格闘中であり、ITにおいては元来が専門である。

 人は経験を積み、理解出来た事には自信が持てるようになる。秀平は元来が引き籠りで何事にも自信が持てずオドオドとしていたが、ここにきてしっかりとした人格が形成され始めていた。しかし千賀子と話すときは僅かな自身も吹き飛んでしまいぎこちない話し方になる。今までは好きな娘が出来てもそれを悟られないように生きて来た。従って告白した事が無いので玉砕の経験も無い。今、人生の大きな岐路に立っていたのである。


「マスター、次の非番の日はいつなの。取材費だすから島を案内してくれないかな」

「冗談じゃない。週に一度の休みを貴方のために使うなんて真っ平御免」

 録画予約で溜め込んだFOXのドラマとゲオで借りるDVDムービーが待っているのである。

「島の案内なら子供たちを紹介するよ。そのかわり小遣いをあげてね。それと取材なら当ホテルの台所事情、それに父のやっている私塾なんかは竜宮城の取材よりも価値があると思うよ」

「それ面白そうだね。アレンジしてよ」

「OK、今晩ここにやって来るから会ってみますか」

 立石は運が自分に向いている事を確信した。橘正也にインタビューする事は大きな目的の内の一つだったのである。


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