石垣マタハリホテル
この様にして石垣マタハリホテルは誕生した。
午前の九時を過ぎた。日差しは既にきつく温度も上がってきたがテーブルの配置されている木陰は丁度快適な温度だった。池田家の三人は食事を終え一旦部屋に戻ったがフィリピンと台湾のグループはのんびりと会話を交わしていた。
尖閣カフェの入り口を挟んで左右に密生するブーゲンビリアの枝には鮮やかな蛍光色の花が咲き乱れていた。その周りをリュウキュウアサギマダラが飛び交っている。本土のアサギマダラよりやや小さく、アサギ色を包む黒い縁取りの幅が広いが、それでも綺麗な蝶である。もう少しするとオオゴマダラ蝶の舞う季節がやって来る。
先程カフェに入って行った男女連れがいたが、プレートを持って出て来た。男のプレートにはコーヒーと灰皿、女の方はベーグル二個にジャムとバター、三種のチーズ片に四種のハム、大皿にはカットメロンが山と盛られていた。
二人は迷わずフィリィピンと台湾から来たジャーナリストのいる席へ向かった。
「ニーメンハオ。And Hallow everybody」
外国での取材の際にはまず身近にいるジャーナリストに声をかけるところから情報収集が始まる。ここは国内であるが事情は似たようなものである。物怖じは禁物、二人は慣れていた。
「日本語で話しましょう。私はフィリィピンから来たサントス・マグバヤニです。えーっとそれから…」
「いや自分で自己紹介をしましょう。台湾から来ました。台北ジャーナルの王宗憲です」
「黄美玲と言います」
黄は三〇代前半、男性二人は四十前後に見えた。
立石稔と山本亮子も自己紹介を終えた。台湾にフィリィピンと言えば親日国家である。取りあえずは駆け引きなしで会話が始まった。
「え~っと、私達が三番目って事で良いのかしら。五人の空きが出来たら皆さんとご一緒出来るって事で」
亮子が口火を切ると
「はいその通りです。サントスさんが一番に来ていますので我々はその次です。竜宮城へ行くルールは知っているみたいですね。ただ政府関係のゲストが優先されますので誰も行けないと言った事も覚悟しておいた方が良いでしょう」
王宗憲が答えてくれた。
魚釣島に立てられたホテルは県営魚釣島ホテルが正式名称だった。漁船の風除けと言うには立派すぎる港からホテルへ向かうと、首里城の入り口にある守礼の門に似たゲートが建てられている。ホテルは五階建てで三階から上が客室であるが、ベランダの足元は皆中国風の瓦葺で端が反り上がっていた。この画像が世界に向けて公開されて以来、日本人の間では正式な名前を呼ぶ者は無く、竜宮城と呼ばれる事になった。
県営となったのには理由がある。東京都による尖閣諸島購入問題が持ち上がった時点で、沖縄県は中国国内に四つの事務所を構えていた。距離が近いうえに中国からの観光客が爆発的に増えていたので言い分けは立ったが疑問の声もあった。当時の沖縄県知事と県議会は、オスプレイの普天間配備には終始一貫して反対を唱えるものの尖閣に対する香港グーループの上陸や、それから始まった中国の威圧的な言い分には抗議はしなかったのである。
岩国基地を抱える山口県民や沖縄県民の間では、騒いでいるのは他府県から来たプロ市民の活動家であって当事者の県民にとってはうるさくて適わん。との声も多く聞かれたが、マスメディアは反対側の報道しか取り上げなかった。しかし沖縄では国からの交付金が中国や韓国の芸能人を迎えて催すイベントに多額の資金が使われていた事が発覚した。時期が悪かった。ネット上では『県知事はいったい何処の国のために政治をやっているのだ』との声が乱れ飛んだ。結果としては不問のまま県政は続投したが、中国の沖縄に対する態度は下心があるのか日本国そのものに対するよりも柔らかい。そのような事もあってかホテルを建てることが決まると、政府内の意見は沖縄県営にすべしとの意見が大勢を占めた。『沖縄県営であれば多少は風当たりも和らぐのではないか』との期待である。しかし親中派の多い県議会は賛否真っ二つに割れて紛糾した。風向きの変化に敏感な事も議員先生に必要な能力である。国政はは自民政権となっていた。結果として建設賛成派が僅差で寄り切った。
しかし、野田政権時の『都に買わせるぐらいなら国が買った方が中国に対して言いわけが立つ』との行動が全くの裏目に出たのと同じく、沖縄県営であろうが無かろうが尖閣にホテルを建てる事自体が騒ぎを最大値にまで大きくしてしまった。
当然であろう。中国としては元々無理は承知の言いがかりである。ここで引き下がり既に構築された世界のルールを受け入れたのでは未来永劫東シナ海から太平洋を望む自由ルートが閉ざされてしまう。加えていつかは併呑しようと目論む台湾に対して詰めの意味もあった。もう下りる事の出来ないゲームを始めてしまったとの覚悟と認識を持って行動をしていたのである。そして過去の個人的な理由から日本が大嫌いだった江沢民元共産党委員長が推し進めた反日教育と、その際に主張を盛り込んだ『釣魚島は中国固有の領土である』と言う言い分を学校で学んできた中国の青年達は、疑う事もなく日本が悪いと思っていた。表向きの日中のパイプは細り、莫大な中国への進出費用を捨ててまで撤退する日本企業も増えて行った。
日本政府は、勝手に怒り勝手に騒ぎを大きくしている中国の相手などしてはいられないとばかりに世界に向けて県営魚釣島ホテルと港の利用方とルールを発信した。
ホテルの利用規約
一、日本国に来る資格を持つ人々及び日本国籍を有する人々が望めばその全てに対してホテルでの逗留を認める。
二、国賓および国交のある国の政府の依頼があればゲストとしてホテルへの逗留を優先する。
三、メディアの取材は他国からのゲストの随行者を優先する。
四、一般メディアの優先順位を次とする。
五、日本国籍を持つ一般市民および外国からの旅行者は優先順位を有する宿泊客に空きが出来た時点から受け入れる事とする。
六、ゲスト以外の利用者は県営魚釣島ホテルで予約受付を行うが、石垣マタハリホテルの逗留者を優先とする。
七、渡航に纏わる乗船手続きは石垣マタハリホテルで受け付ける。
港の利用規約
一、原則として、石垣島と魚釣島の往来に携わる指定の船舶でのみ利用を可とする。
二、日本の漁船に限り、嵐からの避難場所として港湾施設の利用を許可する。
三、スポーツダイビングにおいて、尖閣諸島周辺の海底地形調査に参加協力を得られる船舶に港湾施設の利用を許可する。
ホテルの利用規約であるが、その六、七で分かるようにVIPにキャンセルが出た場合、石垣マタハリホテルに宿泊していなければキャンセル待ちの優先順位を得られない仕組みになっていた。この海域は大しけになりやすい。二十人の客を運べる高速艇が週に二回のペースで魚釣島、石垣島間の渡しに付いているが、台風が発生するたびに船は出せなくなる。温暖化のせいか近年の台風は超大型の勢力を保ってこの海域にやって来る。週に一度も船を出せないくらいは当たり前なのである。それだけではない。本土や沖縄本島から石垣島に来る事さえ困難になる。従って石垣マタハリホテルで待機してくれている人を優先すると言うルールが採用された。
竜宮城がオープンしてから一年以上はVIPと随行する記者、そして日本の要人以外が渡航できるゆとりは全くなかった。それだけ国際的な関心が高く中にはフォークランド問題を抱えるイギリスととアルゼンチンの外務大臣が同時期に来た事もあった。今石垣マタハリホテルに滞在しているフィリィピン、台湾、日本のジャーナリストたちはキャンセル待ちの取材陣なのである。彼らが来ているということは多少なりとも予約に緩みが出はじめた事を意味していた。長期に粘ることが出来れば渡航のチャンスが訪れるようになっていたのである。
橘正也はホテルのオーナーになることを引き受けた。石垣マタハリホテルは株式会社として登記され、正也が発行株式の四〇%を持つ代表取締役社長となった。金の出所においては一部は分かっているが一部には知らん振りを決め込んでいた。
雨宮はこのように提案した。
「暫くの間は客が途絶える事は無いでしょう。五年を過ぎても経営が成り立つようであれば登記通りの民間企業になる予定です。お金の出所を探られたくないのですよ。もちろん倒産させて痕跡を消すと言う手もある」
「そうすると俺が筆頭株主で、例の天下りの役員二人と銀行からの四人ががその他の出資者と言う事になるの」
雨宮の目が笑った。一二年の歳月が雨宮に風格を与えていた。いまや自治行政局局の局長まで上り詰めていたのである。
「借金なしで施設を貰えるのだから、尖閣に向かう客がいなくなっても経営は出来るだろう。アイデア次第じゃ堅い儲けも出来る。こんな美味しい話はないよ。俺でいいの」
正也は老後に不安があった。ちゃんと勤めあげたのだから年金も人並みに貰える。しかしその人並みが目減りしており、バラ色のペンションライフは望むべくもなかった。
「実はね、もう一つやってもらいたい事があるのさ」
「ほら来た。ただでこんな上手い話のあるはずが無い。まさかやばい話じゃないだろうね」
「大丈夫ですよ。命の危険は無いでしょう。それに橘さんしか適材の人が見当たらなかったのです」
こんな説明で安心出来る筈が無い。詳しく聞くことにした。
二〇一二年十月、NYにある日本領事館の川村首席領事は米国のテレビ出演して「石油資源の可能性が指摘された後の一九七一年までの一〇〇年近く、中国が日本の尖閣領有に反対したことはない」と指摘した。
中国の絶え間のないアピールに対して、日本側もマメに反論をしていかなければ国際世論を悪い方向へ誘導されかねない恐怖を感じ始めたのである。マニアックなまでに日本が大好きという欧米人は多い。しかし理解度と言えば千差万別である。ハリウッド映画に登場する日本のシーンで『ここはどこ。ヤシがいっぱい生えているよ。福って書かれた提灯がいっぱいぶら下がっているよ』と苦笑する日本人は沢山いる。しかしこれと同じ事である。これが日本だと言えば庶民はそうかと思うのであって、映画の制作者も日本を知らないわけではない。視聴者が描いている日本をスクリーンに登場させるのもテクニックなのである。
・・嘘も百回言えば本当になる・・
ナチスドイツの宣伝大臣だったパウル・ヨーゼフ・ゲッペルスの言った言葉として有名になったが日本では今や中国や韓国のことわざだと信じられている。事実彼らはこの手法を飽きることなく丹念に使って来る。一つ一つマメに反論をしていかなければ語気を荒げ、主張の強い方の言い分が正しいと思う人が増えて来るから怖い。
中国は尖閣諸島のみならず『歴史的に見れば琉球諸島も中国のものだった』と発言を増やしている。日本人からしてみれば『ばかばかしい』で片付く話であるが、これにおいてもマメに反論をしなければ他国の人々は勘違いをしてしまう。『ん~、そうなのか、そうなのかもしれないね』と。
ところが琉球の歴史や風土に関して日本に帰属している事を表現出来る適材者がいないのである。官僚や政治家に至っては全くの不勉強で反論しようにも脳味噌の中の琉球という部分に書かれている言葉は、『基地、オスプレイ、振興予算、累計十兆円』だけで、残りは真っ白だった。芭蕉布も琉球びんがたにも興味が無いのである。雨宮らのグループは日本中の歴史、民俗学の専門家を当たってみた。これがまたお粗末だった。
おらが言に酔い、自説をくどくどと語る学者だらけだった。科学に取り組む人たちに比べて答えを導く理論にシビアさの無いせいか社会性に欠如して奇抜な事を発表するような人に限って良いポストを得ていた。
また沖縄在住の学者や知識人も訪ね歩いた。見識のある人達はいるもの沖縄からの目線が強く、ディベートで勝てる技術も無さそうだった。つまり沖縄県民としての発言なら出来るが一日本人として発言できるほど理論を整理している人に行き当たらなかったのである。
当初から雨宮には一人の男の顔が浮かんでいた。担当グループでチェックした人材に強く光る者がいなかった事で、雨宮は橘正也を推薦してみた。インドネシアで過ごした際の会話で、正也の人となりと、知識、理解度が分かっていたのである。
「何らかの権威や肩書を持っている人を起用するのが普通ですが、彼は一般人であり、この方面の肩書はありません。しかし東アジア、東南アジアは仕事柄熟知しており、特に言葉と民俗学においては深い興味と知識があります。机上で頭でっかちになった学者に比べ現場で学び鍛えた知識の持ち主です。そして喧嘩に勝てる人でなくてはなりません。彼は中国人相手のビジネスも長く経験していますので適材ではないでしょうか」
雨宮が言えば決まったも同然だったが、発掘メンバーの面々もこの角度からの試みの方が効果的だと感じたようである。
「結局俺に何をさせたいの」
もっともな質問である。
「だからさ~、ホテルのオーナーだって言ってるじゃん」
雨宮はインドネシア当時のくだけた口調になった。目は悪戯小僧のように笑っていた。
「当初の人選で適材が見つかったならば副官房長官補佐心得みたいな役で広報をしてもらおうと思っていたのさ。しかしその役が務まりそうな人がいなかった。そこで浮かび上がったのが橘さんだ」
「浮かび上がっただって。何とでも言ってくれ。この策士め」
正也はお調子二本にアオリイカとシマアジの刺身を追加注文した。
「よっしゃ、じっくり聞いてやるからここの勘定はお前さん持ちだぞ」
落とし所としては安いものである。雨宮はほっとして話を進めた。
政府は無関係を装い、愛国の士、橘正也という人物を表舞台に上げる。橘は学生のころからサラリーマン時代にかけて、東アジア、東南アジア、西南諸島を渡り歩き、この地域に関して深く見識を持つ事となる。言語の比較、歴史の流れに沿った民族の移動、民族の交わり等に独自の解釈を持ち、只今『日本人のルーツを知るときが来た』というタイトルで執筆中である。
この愛国の士橘正也と彼の後援者及び彼の研究支持者らが出資し、このたび石垣島にホテルを建設する事になった。折しも沖縄県による尖閣諸島の魚釣島に港湾施設とホテルが建設される事となり、調査員、建設作業員を送りだす基地が石垣島に必要となった。この事を知った橘からの提案で国と沖縄県はこの新設ホテルをしばらく借り上げ、関係者を一か所に宿泊させる事で安全を確保する事とした。
「こんなところですが…、何かご不満はございましようか」
「愛国の士ってか、俺が」
「右翼に見られちゃうかな」
「日本を愛しているには違いない。まあ右翼面するのも悪くないか。何だか大物みたいじゃないか」
「いや、勝手に大物になって行くと思うよ」
「ところで執筆中の本ってのは何だ。適当に書けって言われても半年やそこらじゃ書けないぜ」
「ムフフっ。ジャーン、ほとんど僕が書いておいたから加筆してよ。省くところは指示して橘さんの文章、意見に変えていくぐらいなら一月とかからないでしょ」
出世して公では渋面を作っている雨宮だが、話が思う方向に進みご機嫌な口調になった。
「これでプロファイルと肩書が出来る。その立場でやってもらいたい事をこれから言いますよ」
「はいはい、何でも仰って下さい。アワビの刺身をたのんでもいいかな」
正也には三つの要求がなされた。
●週に一度政府筋から中国の要人、報道官などが発言したものが文章で送られてくる。その中から目立ったものに対して、意見、感想、反論等を書いて送り返す。
●ブログを立ち上げてホテルの事、客の事、石垣島の事、そして政府へ送り返した内容の中から橘が面白いと思ったものを紹介して行く。
●すぐにも始まる島々の調査に橘も立ち会い、ホテルのオープンから五年後に、尖閣諸島と人々の往来の中継点となったホテルに関する本を執筆すること。
「大したことでは無いね。外国からの客や要人に対するスパイはしなくてもいいの」
「実はその話も出た。けどそこは橘さんに任せるよ。特別に報告する必要があるレベルの事があったら教えてほしい。けど盗聴活動まではしないでね。石垣に来る取材陣と橘さんは会話が交わせる。中国人客がいれば事実を伝える事も出来る。彼らが信じるかどうかは別にして」
「じゃあブログでぎりぎりまでの事を書いても良いの」
「実はそれを期待している分けさ」
「沖縄県民を批判してもいいの」
「う~っ、そこは難しいポイントだね。それに沖縄県民は、沖縄通の顔をして沖縄を語る大和の人間を嫌うでしょ。切り口次第かな」
正也は朗読するように語り始めた。
「沖縄県民は琉球王朝時代をプライドの拠り所にしているけどなぜ琉球国が栄えたかと言う史実をほとんどの人が知らない。戦後の苦しい時代を生き抜いてきた沖縄の人達は誠実で我慢強く一生懸命に生きて来た尊敬に値する人々だった。そして沖縄の伝統を守りその食文化のおかげで長寿日本一を誇っていた。それが今はどうだ。男は肥満が増えて短命になった。たった百五十万人の沖縄がむしり取った復興資金は累計約十兆円で、人口十三億人の中国を栄えさせた日本からのODA資金よりもずっと多いのだよ。それでいて教育には金を使わない。いや、実際には使っているのだろうが、学力はずっと日本一最低で、二〇一二年に行われた全国学力テストでは十科目中全てが最下位という偉業を成し遂げた。大体毎年放送される成人式の様子はどうだい。日本各地でバカなガキどもが騒いでいるが、沖縄の成人式の風景は断トツバカだよ。米兵によるレイプ事件だが二〇〇七年の女子高生といい二〇一二年の事件と言い明け方の四時前後に基地周辺をほっつき歩いていて被害にあった。これも教育の賜物さ。県知事も県議会も教育委員会もそれを恥ずかしいとは思っていないから今があるんじゃないの」
正也は悪戯っぽく笑った。
「橘さん・・沖縄が大好きなんじゃなかったっけ」
「うん大好きだよ。だからこそ見える事もあるのさ。しかしこんな話をストレートに口に出せない難しさが沖縄にはあるね」
「そういった視点の声を届けてほしい。頑張って沖縄県民に嫌われて下さい。政府や官僚には中国の言い分にうまく反論出来る人がいない。沖縄を知らないだけではなく、傲慢なのに喧嘩は嫌なのですよ。沖縄県民の事はターゲットとして一割。韓国二割。中国に対してが七割で橘さんの言葉をぶつけて下さい。あっ、私は無関係ですからね」
このようにして石垣マタハリホテルのオーナーが出来上がった。ホテルの名前は正也がつけた。ふざけた名前の様にもとれるが、正也にとっては考え抜いた末の名前である。
雨宮との出会いが無ければあり得なかった事であるが、偶然にも正也の歩んだ半生が適任者を作っていたと言う事になる。
橘正也著『日本人のルーツを知るときが来た』はそこそこ売れた。どのような力学が働いたのか分からないが、大手出版社から出され電車の中吊り広告で力の入った宣伝がなされた。内容はともかくも、橘正也という名前が全国区に躍り出た。プロフィールから言えばこの様な本を出版してもおかしくはない。学者の視点よりもずっと生き生きとした内容である。しかし注目されたのは石垣マタハリホテルの実質オーナーであることであり、県営魚釣島ホテルとの関係が謎を誇張して、怪しいおっさんから隠れ右翼の大物説まで憶測が飛び交うようになった。