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日本語の成り立ち その1

中国人は、琉球の言葉の成り立ちなど全く知らずに…

『琉球諸島は、元来中国の物だった』

などと言っているのだろうな。

 母幸子は目覚めると深紅の姿が見当たらないので慌てて夫の正人を起こした。正人はすぐに外へ飛び出してあたりを確認した。遠く尖閣カフェの正面のテラスで椅子に腰かけている深紅を確認した。見知らぬ大人が一緒にいたが何やら会話をしている様子である。緊迫した状況ではないので二人してゆっくりと身支度を整え、朝食を取りに部屋を出る事にした。


「お早うございます」

 幸子は取りあえず笑顔で挨拶をし、様子を窺った。

「あっ…ママっ」

 深紅は両親を見て嬉しかった。しかし勝手に抜け出して怒られるのじゃないか、フィリィピンのおじさんはとても素敵な人だけどお母さんには危ない人にしか見えないのではないか、など色々な事を想い混乱して不安な顔つきになっていた。

「おお、深紅ちゃんのお母さんですね。始めまして。私はフィリィピンから来ています。サントス・マグバヤニと言います。深紅ちゃんとはもうお友達になりました」

 黒くしわくちゃの顔に満面の笑みで握手を求めた。幸子は社交的な言葉がすぐに思いつかず…、

「どうも」

 と答えてしまった。サントスは日本人の会話下手、社交的表現の弱さを知り尽くしていたので気になどしていない。日本通なのである。

「お嬢さんが美しいのでお母様はどのような方かと思っていたら想像以上の美人でいらっしゃる。おお失礼いたしました。貴方がご主人…、深紅ちゃんはしっかりとしたお子様ですね」

 しまいには正人にまで歯の浮くような挨拶をし始めた。

『登校拒否になってひきこもり気味な娘がしっかりとした子供だってぇ。ふざけるんじゃないよ』

 と心で毒づきながらも、そこは正人もアパレル業界に身を置く中堅の営業マンである。心の声は微塵も顔に出さずにこやかな笑顔で挨拶を交わした。

「フィリィピンからおい出ですか。と言う事は尖閣諸島の取材ですね。ご苦労様です。海路の無事と大きな収穫のあらん事をお祈りいたします」

 二人は最大級の笑顔で握手を交わした。

 

 池田一家は一旦尖閣カフェに入り食事と飲み物を持ってまた合流した。

 サントスはフィリィピン大手メディア所属のジャーナリストだと言った。フィリィピンも中国とは南沙諸島の帰属で中国と揉め事の渦中にある。魚釣島に出来たホテルと日本のやり方を取材しに来たのである。

 双方ともに不誠実なタイプでは無かったので会話は弾んだ。サントスも正人も会話のつぼを心得おり、幸子も打ち解けて会話に参加した。

 旅先で出会った外国人との会話は冒険であり、楽しい時間が過ごせる。深紅は、自分が先に知り合った外人と両親が会話を楽しんでいる姿を見てほっとすると同時に嬉しかった。父も母も深紅が知らない大人の言葉を沢山使っていた。そして時折片言の英語で話しかける。何とか会話になっているようだった。今まで『どうせ何を言っても分かってはくれない』と言う見方で固まっていた両親が、なんだか尊敬出来て頼りがいのある大人に見えた。

「深紅ちゃんは外国旅行をした事があるかい」

 サントスが尋ねた。深紅は首を横に振ったが顔は微笑んでいた。

「生活に追われ、予算も時間も制限がありまして…、飛行機に乗ったのも今回が二度目なんです」

 幸子は聞かれもしないのに弁解がましい事を言った。

「いやいや奥さん、まあ世間はほとんどがそのようなものでしょう。私が深紅ちゃんに尋ねたのはですね、見識の持ち方を伝えたかったからなのです」

 サントスは深紅を相手に会話を始めた。

 石垣島の自然や風景は日本本土に比べればずっとフィリィピンに似ている。木々の八割がココ椰子に変われば同じ風景になると言った。それから人々の暮らし、宗教の事などをたったの二〇分でまとめて話した。その間深紅は目を輝かせて聞いていた。サントスは比較する視点を教えたかったようだ。深紅は想像たくましく真剣に聞きながら質問をした。その時の言葉は力強くはっきりとした声で、質問の内容も具体的な言葉になっていた。サントスは池田一家がどういった理由でこの島にやってきたのかを見抜いている様子だった。

 池田夫妻は深紅の反応に驚いていた。

『今の感じなら東京へ深紅を連れて帰っても大丈夫に見えるが…』

『私もそう思っているの』

 二人は目で語り合っていた。


 サントスは深紅から池田夫妻に目線を移し真面目な顔になって言った。

「県営魚釣島ホテルの取材なんて、ニュースソースとしてホットな時期は過ぎたのではないかとの疑問がありませんか。ホテルが出来てもう二年が過ぎました。尖閣諸島を巡る互いの国の感情は常に新しい場面を生んで行きます。恨み、呪い、威嚇、表面上の和解、妥協と色々な場面が交錯していますが常に今、この時がスタート時点で新しいストーリーが生まれるのです。私は母国の要請で動いています。しかし予算が国から出たと言う事でジャーナリストとしての本分を忘れているわけではありません。オブザーバーとして観察する、ウォッチャーとして見る、よく分かっていないところから結論を導き出すのが我々の仕事です。そのためには日本人の気質ももっと客観的に学ぶ必要があります。これからしばらくの間深紅ちゃんと友達付き合いをさせていただきたい。そしてお二人とも気楽に会話をさせていただきたく思っています。よろしくお願いします」

 幸子は固まって何と答えて良いのか分からない様子だったが、正人はサントスの言わんとする事を正しく理解していた。

「私と妻は一週間の滞在で東京へ戻る予定です。深紅は恐らく今日から別の場所で島の生活が始まります。短い間ですがよろしくお願いします。外国の方とこの様な会話が出来るチャンスはまたとありません。深紅にも固定観念の殻を破るような知識を教えてやって下さい。いや良かった。この島に来て本当によかった」

 いつの間にか正人は涙を流しながらサントスの手を握っていた。

 

 サントスは尖閣カフェから食事を乗せたプレートを持って出て来た二人組に手を振り、大きな声で呼び寄せた。台湾人のジャーナリストだと言う。もう既に友達になっているみたいである。

 サントスの説明では、今現在の宿泊客はジャーナリストが三組、一般客が八組の二三人だと言う。取材のジャーナリストはフィリィピン、台湾のメンバーの他に日本人が昨夜到着したらしい。そして韓国と中国のジャーナリストが今日やってくる事をホテルの支配人から聞いていると言った。


 魚釣島に港とホテルを建設する事は五年前に決まった。施設が完成し営業を始めたのは二年前の事である。その間、政府関係者の視察、測量、設計にまつわる実務的作業者は、皆石垣島から向かうことになった。それらが済んだら建設作業員を送り込むのであるが、政府としては関係者の行き来をスムースにするための宿泊施設が石垣島に必要だと考えた。一般市民やメディアから遮断すべきだとの声が本音だったのかも知れない。

 宿泊施設の事業はあくまで民間が行うとのポーズをとったが間接的には税金が投入されている。総務省と国交省が絡む天下り先の団体からの出資である。加えて銀行各社にも出資が求められた。通常ならあり得ない話は橘正也が代表取締役になった事である。その他の経営陣は元官僚の二名に銀行から名を連ねた四名を入れて合計六名である。正也以外、石垣島に赴任しているものは一人もいない。総事業費が五億円に満たない事業だったので調整に手間取る事もなく話は進んだ。

 この話を仕切ったのは国交省でも外務省でもなく総務省である。後々の事を考えてか自治行政局に話が回ってきた。魚釣島の施設建設と、このうわべ上は民間の宿泊施設との関連をカモフラージュするための策だった。


 総務省自治行政局局長雨宮昇は若い頃、キャリア組の修業としてインドネシアに赴任していた。立場はジャイカの現地駐在員の№2である。仕事はぶらぶらすることだったが生真面目な雨宮は積極的にインドネシア進出の日本企業と交流をもった。ジャイカのイメージは青年海外協力隊と捉える人が多いのではないだろうか。正確に言えば二〇〇八年頃から日本のODAの全ての手法(技術協力、円借款、無償資金協力)を司る機関になっている。外務省や財務省の管轄に思えるのだが総務省も複雑に絡み合っているのである。

 橘正也と雨宮はその時に偶然知り合った。ジャワ島東部の大都市スラバヤにある日本領事館で行われたパーティーの席で口をきいたのがきっかけである。

 尖閣がらみのややこしいホテル運営が正也に任されることになったきっかけであるが、この出会いが無ければあり得なかった。しかしその話を理解してもらうには正也の半生を語らなければ説明が出来ない。しばらく時間をいただくことにしよう。



 正也は昭和四七年に東京にある農学部のみの単科大学に入学した。農学科で植物病理学を専攻していたが、南方に憧れがあり、拓殖学科に顔を出す機会が多かった。大学二年の夏七月、拓殖学科の教授に頼み込み沖永良部島で一ヶ月間サトウキビの植え付けのアルバイトに参加させてもらった。初めての亜熱帯である。アルバイト代は一月働いて二万円。当時としても安いものであるが、旅費を出してもらった上に宿泊施設もある。見聞を広めるための体験旅行だと思えば二万円は十分に価値があった。毎晩永良部リリー(沖永良部島の黒糖蒸留酒)を飲んでもお釣りが来た。飲んで沢山の人と話しをする機会があった。戦時中の食糧難の折、毒を持つソテツの実を如何にして食べたかや、パパイヤの木の軸にはデンプン質が多くそれを食用に取り出す方法などを聞いた。時には島の村々で行われる盆踊りを見に行ったりもした。仕事は炎天下での作業できつかったが、目に映る自然の全てが新鮮で感激した。沖永良部島、そしてもう一つ南の与論島までは鹿児島県に所属しているが気候も風土も琉球と同じである。奄美群島は米軍にとって基地は少なく、一方住民の日本復帰運動は年々激しさを増していたため昭和二八年にはあっさりと日本に返還された。沖縄返還に先立つ事一九年前の話である。正也は島に滞在中この話を何度となく聞いたが若者であるが故に遠い昔の話のようで実感がわかずに聞き流していた。


 上京して大学に入学した時、同じ学科に沖縄からやって来た同級生が三人いた。その年の七月、佐藤栄作総理の下で沖縄県民悲願の本土復帰が叶った。彼ら三人はパスポートを持ってやって来た事に正也は驚いた。しかし三ヶ月後からはパスポートは不要になり思い出の品となった。この三人とは互いのアパートに行き来し、朝まで飲み明かす事も少なくなかった。そんな折に沖縄の話が出る。伊佐朝明は首里から。新垣健史は沖縄市から…、いや当時はコザ市だった。屋良徳昭は名護の出身である。

 この三人が揃うと故郷の話に花咲く。正也は聞いているだけで沖縄の魅力の虜になっていた。三人とも沖縄本島の出身だが、地域が変われば言葉も習慣もかなり違うと言う。それを説明してくれるのだが何度聞こうが、如何に比較してくれようが正也には違いが分からなかった。理解出来ない言葉の違いを説明されても理解不可能なのである。 地域による単語の違いを説明してくれるが喋りのリズム、抑揚、即ちイントネーションが同じに聞こえる。彼らはそれも違うのだと言ったが大分県生まれの正也にしてみれば琉球から鹿児島県本土まで同じ抑揚に聞こえた。しかしそのうちに多少は琉球言葉のルールが分かってくるようになった。まず基礎編であるが、母音がア、イ、ウ、しかない。エはイに変わりオはウになる。これが分かってから一番多く聞く言葉は『の』が『ぬ』に代わる事で、山の、川の、浜の、ワンのが、ヤマヌ、カワヌ、ハマヌ、ワンヌとなる。


 バンカラ気質が伝統の学生に酒は付き物だった。飲み始めると歌が出る。当時はまだカラオケと言うものが世に無かった。平成以降に大学生となった諸氏には驚かれるのだが、カラオケが出現するまでに当時は五年早く、普及するまでには十年早かった時代である。

 飲み始めて出て来る歌は当然無伴奏である。誰もが知っている歌には手拍子が入り一緒に歌い始める者が加わる。

 今では考えられないだろうが、戦後二五年以上が過ぎ去っているにも関わらず皆が知っている歌と言うのは、軍歌であり春歌だった。例え戦後生まれであっても昭和三十年代前半までに生まれた男子はほとんどが軍歌を知っていたのである。恐らく若者が軍歌を知らなくなったのはカラオケが普及し終わってからだろう。学生運動の盛りは過ぎていたが残り火はちょろちょろと燃えており、フォークソングからニューミュージックと言われるものへ流行が移って言ったのもこの時期である。従って宴会の席では軍歌の後に反戦フォークソングを歌うなどと言う奇妙な光景もよく見られた。『同期の桜』の後に『イムジン河』を歌う者がいたのである。当然洋曲ファンも多くなっていた。ビートルズやCCRはお兄さん世代の流行で、スリードッグナイトやキャロルキング等の歌が愛されていた時代である。しかし宴会の席で洋曲を歌うのはタブーとされている時代だった。誰もが知っている曲では無いので座がしらけるのである。

 春歌と言うのはちょっとエッチな歌からかなりどぎついものまであり、ほとんどが替え歌である。地方に古くから伝わるものも沢山あるが、内容が下品なので隠れた文化である。なぜ宴会になると歌われたのか、それは多くが知っていたからであろう。加えて女性もまだ包容力のある時代で、笑いながら頬を赤らめる程度のリアクションで、座に艶が生まれる楽しさがあった。


♪お嬢さん~ ブランコ遊びもいいけれど~

 登り~下ぁ~り~ぃの その時に~

 ちらりと見えます真っ黒けのけ ああ~

 真っ黒けのけ♪


 これは春歌の古典である。


 また同大学では地方の都道府県の全てから均一に入学者がいたので方言に対する興味が話題に上る事も多かった。それが春歌にも現れる。柳田國男も書いていない地方の文化なのである。例を挙げてみよう。

「女性のあそこ…、つまり女子のデリケートな部分だが、俺の田舎ではボボと言う」

 と、九州の男が口火を切ると・・

「俺の所ではチャコちゃんなのだが」

「随分可愛いな」

「ワシのとこではお饅頭と言う」

 青森県の酢ヶ湯温泉郷に饅頭蒸しの湯と言うのがあるが、関連があるらしい。

「やばい。想像しちまったじゃないか」

「俺は秋田だがアンビと言う」

「何処から来た言葉か分からんなあ」

「あっ、それで小鹿のアンビはかわ~いいな~♪って歌が出来たのか」

 これには言いだした秋田の男も苦笑するがめげることなく歌い始める。


♪ あ~秋田音頭ですっ。

ヨイナー。

秋田オバコがリンゴさ採るべと梯子さ足かけた。

あ~ソレソレ。

下から見上げた隣の三毛猫あわてて角立てた。

ハイ キタカサッサー ♪


 正調秋田音頭だと言うのだが、曲げ輪っぱもハタハタも出てこない。

 こんなノリの学校なので沖縄出身の連中も集まれば、春歌ではないが、子供のころに聞き覚えた歌を披露してくれた。


♪鉄砲かたみてぃヤマトゥン塊、

ヤマトゥヌ戦はウトゥルシム、

ポーヌサチからピーンジタ♪


 いつのころから歌い継がれたものかは分からないが薩摩の侵略当時なのかなと思わせる。解説すると・・・

♪鉄砲かたみてぃヤマトゥン塊(鉄砲を担いで大和の連中が挙って来た)ヤマトゥヌ戦はウトゥルシム、(大和の連中の戦いは恐ろしい)ポーヌサチからピーンジタ(棒の先から何か飛び出したよ)

 古いウチナーグチ(沖縄の語り)であるが明らかに日本語なのが分かってもらえるだろうか。

 

 名護出身の屋良徳昭が歌ってくれたものは他の二人も初耳らしかった。それでも意味は何となく分かると言う。


♪クニブぬさちからフガウトゥち~、

ありよーありよー我がフガよー、

トゥイガヌウチクァティねーらんたん♪


 解説しよう。

♪クニブぬさちからフガウトゥち~、 (クニブ=ミカンの一種…の枝の先からフガ=男性の股間の玉袋…を落とし~)

ありよーありよー我がフガよー、トゥイガヌウチクァティねーらんたん♪

(あれよ、あれよ私のフガよ、鳥が咥えて行ったので無くなってしまったよ)


 下品な歌だが、言葉を理解するに興味深い歌詞である。


トゥイガヌウチクァティ=鳥がうち咥えて

 いったいいつの時代の言葉だとおっしゃる方がいるかもしれない。しかし全くの日本語である事が分かってもらえるのではないだろうか。『ウチクァティ』の『ティ』は先に説明した『て』の母音の『え』が『い』に変わるので『ち』になるのであるが、琉球風の発音で『ティ』になった訳である。

  

 九州には平安時代の言葉が多く残っている。それは都から落ち伸びた平家の落人が伝えたものであると正也は学校で習った。事実宮崎県や熊本県の山奥には平家の落人部落が点在しており、当時の屋敷が観光の名所になっている。そして沖縄にはもっと色濃く平安以前の言葉が残っていた。

 当時沖縄から来た同級生と話をすると、彼らも同じように習ったと言っていた。つまり沖縄に日本の古い言葉が多く残っているのだが、それは九州に落ち伸びた平家の落人が、更なる追っ手から琉球まで逃げのびて伝えたものであると先生達は教えていたらしい。

 彼らのお父さんやお爺さんの世代であるが、沖縄県の中部地区では花の事を『ファナ』と言い、名護市あたりでは『パナ』と発音していたと言う。『ファナ』は平安の時代に都では花がそう呼ばれていたらしいのだが、平城京の頃の奈良の都では『パナ』と呼ばれていたらしい。そんな言葉が琉球には残っていた。


 これらの話がどうもおかしいと言われ始めたのは後の事である。

沖縄、奄美、九州南部に残っている言葉は、もうそれぞれに通じ合わなくなっている部分もあるが似ている。日本語の話し言葉のオリジナルではないかと言う疑問を抱いていた人達の主張がポツリポツリと紹介されるに連れて、それが主流になって来たのである。

 橘正也はインドネシアで知り合った雨宮にこう言った話しをした事があった。


 雨宮はジャイカの№2としてインドネシアに赴任する前の半年間、インドネシア語の教室でみっちり現地の言葉を学んだ。キャリア組は公費で、且つ勤務時間中に学べるのである。

 言葉というものは不思議なもので、方言でも外国語でも一旦取りつかれてしまうともっと深いところを知りたくなってしまう。雨宮は自分が短い間に学んだレベルでも現地に赴いて会話に通じる部分があるのが嬉しかった。

 そのような下地があってか雨宮にとって正也が言葉に関して話す内容はとても興味を惹かれるものだった。


 正也は大学卒業後大手商社の子会社に就職し、当初はボルネオでのラワン伐採に携わった。五年間で終了した事業だったがその間に現地採用の作業員や、食事の世話をするために雇い入れた現地採用の人達との会話で、インドネシア語を一通り喋れるまでになった。その後インドネシアで伐採された木材は加工されたものしか輸出はしないとの、国内産業育成策が取られたためこの事業は終わり、しばらくはスマトラでのトウモロコシ栽培に携わっていた。その後中国は大連、上海、そしてベトナム、ラオス、マレーシア、ミャンマーと渡り歩いたが仕事の内容は一貫して一次産業に纏わるものだった。仕事に携わる現地人と一番交流が深くなる職種である。

 雨宮と初顔合わせをした時は五〇歳前でありこの業界ではアジアの現地事情に詳しい人物として名前が売れていた。いつの間にか子会社から親会社へと異例の出向となり、両者が出会ったパーティーの折は一次産業担当から外されて地熱発電のプラントを売り込む立場にいたのである。


 二人は気が合った様子で正也の案内で美味しいと評判の店を巡る機会が増えた。また雨宮のインドネシア視察の小旅行に正也は好んで通訳として参加した。当初は十歳ほど年上の正也に雨宮は敬語をつかった。正也の方も官方は仕事をくれるクライアントなので敬語を使った。しかしそのうちに友達の様な砕けた喋りになって行った。


 あるとき二人でバリ島に出かける機会があった。公費視察であるが、宮下にとっては見聞を広め、後に幹部としての仕事に生かすのが目的である。つまり他の人から見れば行楽旅行以外の何ものでもなかった。それならば楽しい思い出を作ってあげようと正也がくっついて来たのである。

 熱い海岸線のリゾート地を避け朝晩の涼しいウブドを拠点にし、一週間を過ごした。

「ホテルやレストランでは英語や日本語の通じるところが増えて来たけどほんの十数年前までは、ここら一帯はインドネシア語以外は全く通じない土地だったんだよ」

 正也は今までにもインドネシアの歴史、風土、言葉、産業などについて教えてくれたが、バリ島事情にも通じていた。

「元々男は働かない土地でね、昼間は闘鶏を撫でて過ごし、夜は賭けに興じるのが男のスタイル。一方女は働き者なのさ。どう、悪くない生活でしょ」

 男が熱心に働くようになったのはホンダのおかげだと言われている。つまりバイク欲しさに働き始めたら次々と他の物も欲しくなり働くようになったのだと正也は解説した。話し半分でもありがちだなと雨宮は思った。


 滞在したホテルは谷底を流れる川筋の南側の丘に位置し、同じ側の少し下流にネカ美術館が見えた。そのネカ美術館付近から谷底へ通じる道があるようで数名の女性が登り降りを繰り返していた。登りの女性は皆頭に何やら乗せて登って来る。急な雨があるとバナナの葉の下で、頭には荷物を乗せたまま雨宿りをしている姿が遠くに見える。

「谷底は深く垂直に浸食されていてね、良い石のある場所がすぐに分かるんだよ。建材になるか神々のオブジェになるかでサイズが異なるけどあの華奢な体で一回に二十キロ以上を上げるんだよね。それで三〇円ぐらいにしかならないけど、沢山の人を養う職業になっている」

「う~ん…考えさせられる光景だな~。生活保護者がいない理由の一つかな」

「ちょっと下りてみようか」

 朝食の配膳をしているウェイターに道を尋ねると、眺めていた光景に繋がる道がこのホテルの下から横に伸びていると言って教えてくれた。

 谷底までの高低差は約六〇メートル、上の方こそ勾配が緩やかだが下に行くほど角度が立ってくる。その所々では木の根をステップとし、ほぼ九〇度に切り立った場所を上り下りしなければならない。

「あんな石材を頭に載せてよくこの道を登って行けるものだな」

「こっちの女性は背筋が伸びて皆姿勢が良い。頭に物を乗せて歩くのは姿勢が良くないと出来ないんだよ」

 雨宮は自分がカメラしか持っていないにも関わらず、果たしてこの道を登って帰れるのだろうかと不安になっていた。

 谷底に着くまでに三人の女性とすれ違った。それぞれに若い。彼女らは姿勢を崩せないので、すれ違う際には正也と宮下で大きく道を譲った。

 底に着くと新たな娘さんが切り出した石のブロックを頭に載せて。河原を歩いて来た。


「ボレー サヤ アンビル フォト」 (写真をとってもよいですか)

 彼女は立ち止り目線だけを宮下に向けて微笑んだ。

「ボレー ボレー」 (いいですよ)

 宮下は多少インドネシア語を学んできたが会話に至ってはまだ挨拶に毛が生えた程度しか喋れない。しかしこれは一番使う言葉となっていた。祭りが多く民族衣装を身にまとった綺麗な娘さんが沢山いたが、同意を得ずに写真をとる事は憚られたのである。


 写真を撮り終わると宮下は乳房で膨らんだ娘の上着の胸ポケットに一〇〇〇ルピアを四つ折りにして差し込んだ。娘は石を支えるために両手を上げたままである。そしてにっこり微笑み、

「トゥリィマカシ」(ありがとう)と言って歩き始めた。


「だいぶこっちにも慣れて来たね」

 チップの習慣のない日本は暮らしやすいのだが、チップの必要な国では払う事で安心感が得られる。一〇〇〇ルピアは日本円で言えば一〇円程度なのだが、彼女にとっては十分な余禄だった。


 この様な二人なので夜は食事をしながら言葉と文化についての話題に花咲いた。

「日本語でのお互い様と言う言葉とここの『サマサマ~』っていうのだが、日本語の『お互い様』とルーツが同じじゃないの」

『サマサマ』とはまさにそういった意味で、転じて『どういたしまして』となる。

「フィリィピンで話されるタガログ語やパンガシナンにはインドネシア語に通じる雰囲気がより濃くあるよ。まあ隣と言えば隣。海洋交易や民族の移動がブッダ以前のインドからこの地域、そして琉球、日本本土に至っていたと思えば日本語にインドネシア起源の言葉が混じっていても不思議じゃないね」

「けど日本語はいわゆるアルタイ語族に属する言葉だからインドネシア語とは違うでしょ」

 インドネシア語はマレー・ポリネシア語族に属し朝鮮半島から北方匈奴の地に広がるアルタイ語族とは言葉の成り立ちが異なる。

 台湾は日本と東南アジアの交流を考えるにあたって外す事の出来ない位置にある大きな島である。そこに古来より生活する少数民族のほとんどはマレー・ポリネシア語に属する諸言語を話している。従って台湾原住民族はインドネシア、フィリィピン方面から渡ってきた民族であると言う説がある。一方で彼らはマレー・ポリネシア語族の古い祖形を有している。加えて新石器時代は台湾からフィリィピン、インドネシア方面へ拡散した痕跡もあるのでオリジナルは台湾ではないかとの説もある。何れにせよ雄大な話である。


「学生時代、田に水を引き込む水路の構造はバリ島が世界一だと習ってね。そんなことからバリ島にも憧れがあったね」

 その当時は日本からの航空路はベトナムのサイゴン経由しかなく、航空運賃だけでも二十五万円はかかった。ベトナム戦争の真っただ中であり、留学生にベトナムから来た同級生も数名いた時代である。

 こんな話を正也は何となく喋り、雨宮は何となく聞いていた。

「橘さんは英語も綺麗に話すけど何処で覚えたの」

 海外に長くいると片言の延長で英語もかなり話せるようになる人がいる。必要から喋っている内に上手くなってくるのである。しかしその舞台が北米やイギリス、オセアニアで無い限り発音は酷いもので橘であれば東南アジア訛りがあって当然なのだがそれが無い。橘は米国の若者の様な英語を喋っていた。

「真面目に英語の勉強始めたのは四〇を過ぎてからだね。友人に言われた方法を実践してみたのさ」

 正也も時々は日本に帰る。その時に旧交を温めた友人の一人に言われたと言う。

「お前、エクセルの解説本をちゃんと読んだ事があるかい」

 言われてみれば初めてエクセルを操作した時以来読んだ事が無い。理解している部分だけで操作をし、バージョンアップしても何となくいじくって分かる範囲で理解したつもりになっている。

「大体ね、入門の時だって全部は読んでいないだろう。当時は難しく感じたはずだからね。今読んでみなよ。ある程度操作しているわけだから書いている事はほとんど分かるはずだよ」

 そう言われて試してみるとなるほどすらすらと頭に入って来る。自分の仕事の環境と処理速度が飛躍的に改善された。その彼がもう一つ言ってくれた事がある。

「英語も同じだよ。入試の頃に比べたら圧倒的に断片的な知識が付いている。今は会話入門から時事、理数系の言葉まで全てCD付きで本が出ている。一からやり直してみなよ短期間でかなり上達するぜ」

 正也はこれも実戦してみた。なるほど言う通りだと感じる程の成果が短時間で現れた。

「それとFOXのドラマにハマっちゃってね。面白いドラマはマンガと同じで続きが見たくなる。やはり生きた言葉は人間同士の会話の中にあるね。それがドラマのストーリーに引き込まれているわけだから勉強といった苦痛感覚無しに言葉を覚えて行くんだよ」

 言葉の話はコンピューター言語から会話手法、バイアスのかかった主観の強い人間のいなし方などとりとめもなく広がって行った。


 正也は別に意図があって雨宮に近づいたわけではない。ほんの短い間、気が合ったから一緒に行動したと言った具合である。


 雨宮は二年の任期を終え日本に戻った。

 その後正也は国内勤務となったが雨宮とコンタクトをとる事は無かった。それが五年前のある日、雨宮の方から電話を入れて来た。


「アパ カバール タチバナ」 (お元気ですか、橘さん)

 橘は突然のインドネシア語に戸惑ったが知人からかも知れないと思いインドネシア語で返した。

「ビアサ サジャ.ナマ アンダ」 (まあまあですよ。貴方のお名前は)

「サヤ…ナマ アマミヤ」 (私の名前は雨宮です)

 懐かしい名前だった。

「なんだい雨宮さんか。今何処よ」


 門前仲町にある馴染みの割烹で落ち合う事にした。十二年ぶりの再会である。

「橘さんは今年で会社を辞めるんだよね」

「えっ、調べたの」

「まあね」

 正也は六〇歳で定年を迎えていたが、受け取り年金のあまりのショボさに、会社側は嘱託扱いで五年の雇用延長をしてくれていた。それも次の誕生日で終わりとなる。

「ホテルのオーナーをやってもらいたいんだけど」

「へっ…」


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