石垣島に集う
10年前には想像もしていなかった事がつぎつぎと起きています。
東日本大地震は例外だとしても、日本を取り巻く政治や経済においても、大きな変化の方向と流れに驚いています。
若いころからすっかりニュース中毒になっている私ですが、知識と想像を元に近未来を描いてみました。
私の想像の埒外へ国際情勢が進めば、この話はそこで陳腐なものとなってしまいます。
ストーリーのプロットは仕上がっているのですが、どうか書き上げるまで、中国が尖閣諸島周辺で強硬策に出ないでいてくれることを望みます。(苦笑)
西南諸島は、鹿児島県南方から台湾の西方に至るまでの、およそ千二百キロに渡って連なる島々からなる。県の境は線引きされているものの、奄美大島から与論島まで、鹿児島県に属する島々も琉球の文化を色濃く残している。
当然長い歴史を経て現在に至っているのであるが、そんなことは全く無視して
『元来は我が国の領土に属していた』
と主張する隣国がある。しかし日本国の政治家の中にその主張を真っ向から論破出来る人材は乏しい。与党は振興予算に群がり、野党は『米国憎し』の、海外勢力の傀儡として活動に精力を注いで来た。琉球の自然、文化、歴史などに興味を持ち、それを人に正しく説明出来る政治家はあまり見かけない。
当然の事だが、芭蕉布が織られるまでの複雑な工程や、琉球独自の染物である『びんがた』の歴史に興味のある政治家は稀である。悪意に満ち、目的を持った他国からの干渉にに対しては的確な反論を即座に行う事が必要なのであるが、その角度から言葉選びが出来る政治家が少ないのである。
また、沖縄県民にも問題が出て来た。琉球を愛する気持ちは強いものの、琉球王朝がなぜあの時代に栄えたのかを正しく知る沖縄県民は少ない。従って明国の衰退と共に薩摩が攻め込んで来た事に関しては、恨みのみが募り、必然の力学を受け入れられないままでいる。
あの我慢強く、寡黙で、正義感と責任感を強く持っていたウチナンチュー(沖縄の人)は何処へ行ってしまったのだろう。今や、長寿の伝統を守りきれない肥満体型が目立ち、自立の心を維持する人は少数となってしまった。
こんなことすら全く知らず、また琉球の歴史や文化、人々の営みなどには全く興味のない隣国が、『琉球はそもそもがわが国の領土であった』と主張をし始めた。しかし沖縄県議会からこの隣国の言に対す反論は全く聞こえてこない。
琉球は、地政学的見地からも、民俗学的見地からも今一番ホットな場所の一つである。残念ながら現時点でこの事の価値の大きさにに気づいている人は多くない。尖閣諸島と米軍基地以外には、興味が向かわないのであろう。このような環境の下、石垣島に『尖閣カフェ』なるものが出現した。
この物語は、そんなある時期の石垣島を舞台に書き込まれたグラフィティーである。
石垣空港に降り立つと早速口論が始まった。
「タクシーで良いじゃない」
「すぐに尖閣諸島へ行けるわけじゃなし、取りあえずはこの島を廻って空気を感じるのが先だと思わないか」
「予算は下りたけど条件付きなんだからね。節約しないと目的を果たせるかどうかわからないでしょう」
「急がば回れさ。レンタカーを借りようよ」
特大のトランクケースに、ダンプに踏まれても壊れないペリカンのカメラケースをタスキ掛け。砂漠仕様であるサンドタンのデジカモパーカーとカーゴパンツ。四月とは言え二五度を超える暑さでアミ上げのブーツ、二人揃って亜熱帯の島では場違いな出立ちだった。突撃系のジャーナリストである。彼らにとってスクープを挙げる事が一番の目的であるが、使命なのか功名心なのか長年続けていると分からなくなるらしい。一端のジャーナリスト面が出来るようになると人の目などお構いなしになるのかも知れない。
政治の乱れた国のニュースを見る度に腰がムズムズし、ひどい自然災害の映像を見ると地球温暖化と結び付けてしまう。挙句に人類の被害者代表としての思考でキーボードを叩く。そして内戦勃発のニュースが報じられればもう居ても立ってもいられない。行かなくちゃ、行かなくちゃ、行かなくっちゃ、と血が騒ぎ結局は行ってしまう。
この二人もそんな経験を何度か繰り返し、アラブの春で瓦解したリビアの取材で初顔合わせとなった。その後シリアにも行ったが日本人記者の死の報道を聞くや即座に脱出した。この判断が出来た事は少なくともプロの証だった。死亡した日本人記者も海外取材では実績の認められているプロだった。あの戦争好きな米国が長い間介入をためらい、国連監視団も逃げ出す紛争の地である。国情の複雑さや危険度で測ればイラクやアフガンの比では無い。西側諸国がサポートしている反体制側にせよ勢力図が理解し難いモザイク模様を描いている。危険で難しい国なのである。この時期、シリアへ行くこと自体が無謀で決して自慢にはならない事は二人とも承知していた。もし捕虜にでもなって日本政府が動くとなると軽率な行動としてバッシングの嵐に曝される。その可能性が非常に高い国だった。しかも取材テーマが女性と子供の生活である。被害者意識を煽る記事ネタを探すにしてもあまりにも場違いであり、タイミングが悪い。加えて、未だに通販で人気のアレッポの石鹸は、果たしてアレッポで造られているのだろうか、と言った緩いテーマも持っていた。二人とも、無謀かなと思う客観性は少なからず持ち合わせていたが血が騒いだのである。帰国後もシリアへ行った事はあまり喋らないようにしていた。
二人そろって大手新聞系のソースソリューションであるインフォセンターに所属していた。
今回の仕事は、危険度から言えば、国内の全く緩いものだった。しかし功名心と売名行為をくすぐるに十分な価値のあるトライアルだと判断をし引き受けた。
男は立石稔、四一歳。報道カメラマンとしての腕には定評があったが彼の書く記事はなかなか人気が出ない。日本人に多い被害者的な立場で訴える文章から抜け出せないタイプの記者である。自立、独立した職業で頑張っている人以外は何でもかんでも人のせいにする生き方が楽なのであるが、その感覚で書く記事が大勢に受け入れられる事はない。戦後日本のメディアは往々にしてこの様な記者を育ててきた。
女は谷川亮子、外資系の為替ディーラーからジャーナリズムの世界に転身した異色で、三十六歳と微妙な年頃であるが、記者としては油の乗って来たところである。立石以上に被害者意識満載の記事を書き、読者受けも良くないのだが、それが話題となる。しかし業界内や上司には受けが良い。美人だから仕方が無い。スタイルも良い。そして強気な性格である。男はどんなに振り回されても強気な女に惚れる傾向がある。亮子にはコンスタントに仕事が回ってきた。
「まあいいでしょう。国内の仕事は久しぶりだし、取りあえずは先輩の判断を尊重してあげるわ」
「君の言う通り、いつ順番が回ってくるか分からない。かなり待たされる確率の方が高いだろう。その間折角だから石垣島の全てを取材し尽くすつもりなので取りあえずレンタカーを借りるよ」
「立石さんの経費でね。時々運転手をしてくれたら文句は言わないわ」
亮子から初めて白い歯が覗いた。
仲が良いのか悪いのか分からないが毎度のやり取りである。表向きは仕事上の関係であるが、谷川亮子にとってはわがまま言いたい放題、自分のリズムを崩さないでいられる相手が立石稔であり、保護者同伴の感覚だった。
一方立石にとっての亮子はもっと複雑である。過去に数回肉体関係を結んでいた。特にシリアからトルコ国境を越えた時の夜は二人とも強く求めあった。判断の甘さと体験した恐怖を頭の中で違った内容の過去に刷り変える作業だったのかも知れない。しかしその時に亮子とは心が通い合ったと思っている。
立石の中では亮子は恋人なのであるが、亮子の態度は素っ気ない。従って立石も距離を保ち、結果として保護者の様な立場を演じていた。
「ジャーナリストなんだから万物に興味を持っておくべきだろ。そして画像を撮り溜め整理しておく。その点この島は自然、人々の暮らし、そして地政学的見地からして取材対象の宝庫じゃないか」
「先輩風を吹かせたいの。教えたがりは鬱陶いのよ。そんな男の習性って醜いわ。私は島の自然、島民の暮らしなんて緩いテーマには全く興味が無いからね」
『可愛いくねえ性格だな』
立石は心の中で毒づいたが空港のカウンター脇で見たヤギミルクのケースを思い出してゆとりを取り戻した。
『そのうちにヤギ料理でも食わしてやるか』
琉球のヤギ料理は性的な欲求を極度に高めると言われている。
結局はトヨタレンタカーでヴィッツを一週間借りる事にした。立石はどこに行ってもトヨタレンタカーを利用する。大概はエコノミーな一〇〇〇ccクラスを一日四五〇〇円で借りる分けだが、トヨタレンタカーで手配するのが彼なりのささやかなブランド指向だった。
「お~い秀平、お客さんが来たよ」
勢いよくドアを開けて砂川一哉が飛び込んできた。元気いっぱいの小学四年生である。
「おい一哉、何度言ったら分かるんだい。子供に呼び捨てにされて嬉しい大人はいないぜ」
「じゃなんて呼べば良いんだい」
「ん~、そうだな、お兄さんは無理があるとして、橘さんとか、秀平おじさんとか、何か言い様があるだろう」
「じゃあアンクル秀平?…、キャハハ、やっぱり秀平は秀平だよ」
南の島には同じ名字が多く、ここ石垣島も例外ではない。 宮良、金城、砂川、石垣、大浜、平良と多い順に続くが、その数たるや多くない。近年大和(沖縄県民は県外の日本を大和と呼ぶ)から移転して住み着く者が増えているので多少バラエティーに富んで来た感はあるが、学校では同じ姓の子がクラスに五、六人いる事もある。従って子どもたちは名前で呼び合わないと区別が出来ない。
年長者に対する礼は島の風習の中で培われており、決して疎かにする地域では無いのだが、課外で師事する橘正也が『秀平、秀平』と呼ぶものだから遠慮する距離感を感じていないのである。加えて秀平はどうも母の千賀子に気があると一哉はにらんでいた。
一哉は踵を返すと一旦外に飛び出し、客を連れて戻った。
「さあ入って。フロントは向こうの建物だけど今はお客さんが少ないからこっちで受付をやっているのさ。え~っと、この人がね、フロント係兼支配人、そして雑用係の橘秀平さん。それじゃごゆっくり」
一哉が招き入れた客は若い夫婦に一人娘の三人連れで、娘の方は一哉と同じ年頃に見えた。
一哉は表に出るとそのまま県道に向かって坂を下りた。ホテルは川平湾の南に位置する山懐にある。県道には大きな看板が立っていた。支柱はしっかりとした鉄柱だが、ボードは飾り気が無い。白地の看板にはWellcome to the Ishigaki Matahari Hotelと言うモスグリーンの文字が浮かび上がっていた。そして看板の一番下には、『尖閣カフェ』の文字が並んでいた。ホテルは県道から車で三分ほど坂を上った所にあるが徒歩では結構な距離だった。
一哉は母の砂川千賀子との二人暮らし。母子家庭である。千賀子は石垣島で生まれ育った。高校を出ると東京にある服飾系の専門学校に通い、バイトの延長でDCブランド時代から何とか生き残ったアパレルメーカーに就職をした。そこで出会った男と結婚をして一哉を授かったが、亭主の遊び癖が治らず結局は離婚して石垣島へ戻ってきた。
奄美・徳之島以南、鹿児島であれ沖縄であれ西南諸島の女性にはこの手の悲話が付き物である。元来が暖かい地方の自由奔放さであろうか、高校を出るまでの妊娠騒動の発生件数は国内の他府県に比べるとかなり多い。そして島を離れて都会に出ると文化的観念の違いが上手く理解できずに孤独な想いをする。掻い摘んで言えば言葉の壁と思考パターンの食い違いである。元来の素直さと明るさが段々無くなり猜疑心が芽生え殻を作るようになる。
一方大和の男子であるが、より若い時ほど目鼻立ちくっきりのエキゾチックな顔立ちに惹かれる傾向がある。西南諸島出身の女の子の顔立ちは若者の嗜好を本能の部分からくすぐるのである。その結果悲劇が生まれる。孤独に耐えながら頑張っている女性と本能で魅力に取りつかれた若者が出会えばお互いの願望を埋め会う仲になるのは早い。しかし暫くは幸せな時間が過ごせても悲劇がやってくるまでにそう長くはかからない。本能に突き動かされた男は、飽きや次のターゲットといった変化に抗うことが出来ない。一方情が深く一途な島出身の娘は男との関係を修復しようと試みるが口下手な娘が多く、男を繋ぎ止めるのに有効な言葉選びが出来ない。結果として子連れで島に戻ってくる女性は少なくないのである。
砂川千賀子もそういった女性の一人だった。一哉が小学校に入る直前に結論を出したので、島に戻ってから三年以上が過ぎた事になる。心に一区切りはついたが悲しみが消えることはなかった。島にはまだ五〇代になったばかりの父母がいるが、同居はしていない。良くあるパターンを自分自身が演じた事で毎日父母と顔を合わせるのが辛かったのである。
千賀子の父砂川真徳はダイビングのインストラクターと漁師で生計を立てていた。素潜り漁も一本釣りもやる。二反程のまとまった畑もある。祖父の時代まではサトウキビを植えていたが、今は観光客が増え、ホテル需要や大和向けの野菜栽培の方が実入りが良い。裕福ではないが小銭を貯金出来るぐらいの収入があった。
千賀子は島に戻ると父真徳の口利きで石垣マタハリホテルで働くことになった。
何やら曰有り気なこのホテルは、その当時はまだ建設中で、開業したのは千賀子が島に戻って半年後である。そんな早いタイミングも手伝って千賀子の肩書は副支配人となっていた。仕事はフロントからルームサービスまで全てをこなすが、現在では支配人の橘秀平と千賀子を除く九人の雇用人が全て千賀子の部下だった。
オーナーは秀平の父、橘正也である。正也は千賀子の父真徳とは旧知の間柄の様であるが謎の多い人物である。おかげで父に対する謎も大きく膨らんでいるのだが、焦る必要もない。そのうちには分かるだろうとあえて問う事を止めていた。と言うのも千賀子は東京のビジネスホテル勤務の副支配人並の給料を貰っていたからである。島に戻ってすぐに仕事が見つかっただけでもラッキー。それが本土並みの給料をもらえるのである。二〇一二年には高知県にボトムの座を奪われたものの、沖縄県の平均所得は相変わらず本土平均の六割前後である。今は生活基盤を確保し、一哉との生活を確立させる事が先だった。
一哉は嬉しそうに歩いていた。
『可愛かったな。明日から一緒に過ごせるのだろうか』
一哉の行く先は橘正也が主宰する『私塾・強く生きる』だった。正也の活動は、始めは千賀子が働いている間、一哉と遊ぶ所から始まった。そのうちにホテルの従業員の選定も進んだ。大概が女性である。真面目そうであればなるべく生活に困っている人を採用してあげることにした。結果として六人の女性の内三人までが母子家庭の母だった。
『勉学と社会を生き抜く知恵を子供の内から教えてみるか』
子供たちと遊ぶのは楽しい。しかし、何らかの体系を作らなければ自分自身に飽きがくる事は分かっている。無責任な結果で終わらせる事はしたくないと思っていた。そのうちにホテルの出資者サイドから二人の子供を押しつけられた。いじめにあって学校に行けなくなった小学二年生と担任の先生が嫌だと言い始め登校拒否になった小学五年生、二人とも男の子である。
正也は預かった子供や縁の出来た子供たちを水準以上の能力を持った人間に育ててみようと考えた。過去の私的な経緯が動機なのだが正也には勝算があった。強く生きるとはどういう事か、ここがポイントである。先ずは自力で社会の荒波を泳ぎ、生き延びる術を身につけさせる事であろうと考えた。『私塾・強く生きる』の名の由来である。
こういう活動は密やかに、そして特定人数以内でやる事が肝心である。しかし世間には悩みを抱え、誰かに縋りたい人が沢山いる。困ったことにまた一人預かる子供が増えた。
千賀子からの頼みだった。東京時代の友人の子供だと言う。
一哉が尖閣カフェの秀平の許に連れて来た客がそうだった。子供の名前は池田深紅、一哉と同じ小学四年生であるがこの年になってもまだ親の背に隠れるようなオドオドとした性格が見受けられた。
二〇一二年、石原都知事の東京都による買い上げ発言に始まった尖閣諸島をめぐる騒動は未だに収まっていない。それどころか更にエスカレートしていた。国が血税で買い上げた後も暫くは中国に気を使って放置されたままだった。国民に『どこの国の政治家だ』と言わしめた民主党は次の総選挙で大敗し、引き継いだ自民政権も当初は穏便に済ますべく極端な行動を控えていた。しかし、中国は海洋監視船の執拗な領海侵入のみならず、隙あらば飛行機を以て領空を犯した。『神経戦に付き合う愚に価値があるのか』との国民の声が高まり、日本政府は重い腰を上げざるを得なくなったのである。
中国人は愛国無罪と言う言葉を好んで使う。最近では韓国人も使い始めた。日本人をバッシングし、非難し、辱めることは両国民にとって愛国行為と言う事らしい。それでは日本人が同じ行動をとったら彼の国々の国民はどう思うだろうか。新大久保や横浜中華街で愛国無罪と叫びながら店のウインドウを叩き割って練り歩く。全く同じことなのである。しかし彼らは烈火のごとく怒りをぶつけてくるだろう。 自分らの言う愛国無罪と同じものだとは思わないだろう。『日本人は悪い事をしたのだから』と言う反日教育が理論の根底にある。加えて情報統制をしている国の民にこの理屈を分からせるのは容易ではない。
もし日本で愛国無罪などと言う言葉を使えば直ちにその言葉の矛盾点を突かれ、日本国内だけでも各方面から叩かれるだろう。そして『バカ』と言うレッテルを貼られてしまう。発言も情報入手も自由な国だからこそ当たり前に理解が出来るのである。
そして相手国対しては、国がこの行為を放っていること自体がその国に屈している事になるのだが、メディアを含め、日本の国情はかなり複雑になっている。日本の政府はそれでも穏便に済まそうと受け身の対応をして来た。
しかし、 どんどんエスカレートしてくる中国側の主張に対して、日本側も強くでないと押し負けそうな気配になって来た。そもそも中国側が『釣魚群島は歴史的に見て我が国固有の領土である』と言い始めた一九七〇年ころは、日本側は『また鬱陶しい事を言い始めたな』ぐらいにしか思わず、誰もが中国の本気度を理解していなかった。
『民度の低い国だからな』と揶揄していた内は日本側もゆとりだった。それがいつの間にかそんな島がある事すら知らなかった中国人民のほとんどすべてが釣魚島(日本名:魚釣島)は中国の領土だと信じてしまった。そして尖閣騒ぎは益々エスカレートして行ったのである。
中国のやり方や推移を観察するに、日本側はもっと大きな問題が出てくる前に手を打つべきだと言う事に気がついた。
中国の要人や学者の発言の中に、『そもそも琉球は歴史的に見て中国の領土だったのだから』という話を紛れ込ませる機会が増えて来た。そして『明らかに…』や、『疑う余地もなく…』などとお得意の表現が増えるようになった。
つまり日本人の常識で見れば『またまたご冗談を』と言った中国の言い分が、 やがて大きなうねりとなって押し寄せてくる可能性を否応なしに感じ始めたのである。尖閣諸島の帰属で議論している段階では琉球の話を本気の舞台にあげるにはまだ無理があるだろうと言う理屈で『尖閣を防波堤に』と言う機運が高まった。
日本政府が動きだしそうな気配を見せた時、国民は当然軍港を造って自衛隊員を常駐させるものだと思っていた。ところが尖閣諸島の中でも一番大きな魚釣島に港とホテルを建設する事になったのである。当初石原元都知事が唱えていた漁船の避難場所と言ったイメージから大きくかけ離れる程の立派な港湾施設の建設が決定した。
中国側は怒った。今までにない規模の激しい怒りである。反日デモは容赦が無く、中国へ進出している日本企業は操業できない日が続き、経験のないレベルの窮地に立たされた。二〇一二年の比では無かった。尖閣諸島周辺には以前にも増して沢山の中国船が繰り出された。しかし日本側は以前と打って変わり、他国からの領海侵犯は許さないと言った態度を露わに示したため、緊張は一気に高まった。
中国の怒りの根底にあるものは、相手の立場に立って見れば容易に見えてくる。しかし戦後ディベート文化を育ててこなかった事で、日本人には相手の立場でものを見ると言う訓練がなされていない。主観の強さでは中国人民も中々のものであるが、かつて国土を蹂躙された側のプライドに関わる、どす黒い怒りを全く理解しない日本国民の方に心のゆとりがあった。それがまた中国人民には許せないのである。
中国にとって日本列島、そして九州から台湾のすぐ傍まで点在する西南諸島は、太平洋を臨む上で全く邪魔な存在である。しかもその距離たるや非常に長い。ロシアですら直接太平洋に出るルートを長い距離で確保している。何れは米国と肩を並べ覇権を争う事になるだろうと考えている中国にとって、太平洋を望むルートが狭く遠回りなのでは全くの不利である。奄美、琉球が邪魔だった。平素は貿易のための船が太平洋から奄美付近を通って上海へ向かう事が出来ても、いざ日本やアメリカと事を構えるとなるとそれが許されなくなるのである。
中国は『我が国が発展する前に欧米列強諸国が作り上げた海洋法など無効である』と言った理屈を持ち出して来た。常任理事国がこの理屈を持ち出せば国連は全くの価値を失くすのであるが、お構いなしである。もちろん付近に眠る海洋資源の魅力も少なくはない。しかしそれが一番の理由ではない。
公式な表現を借りれば、第一列島線、即ち種子島、屋久島から石垣、西表を結ぶラインであるが、その内側をアメリカ海軍力の及ばない聖域にすることが目的遂行のための第一歩だと考えている節がある。
国家一〇〇年の計、計画を立てていればこそチャンスがあれば物にできる。琉球は歴史的に見て中国の領土だったとのメッセージを発信しながらチャンスを待つにしても、その手前にある尖閣諸島すら物にできないのでは琉球は諦めざるを得ない。中国は本気且つ真剣だった。
日本側にとって魚釣島に港とホテルを建設する事は理に適っていた。外交は相手が嫌がるものでなくてはカードにならない。戦後の日本外交は相手が喜ぶ事ばかりに専念し、莫大なお金を溝に捨てて来た。
四月の八重山は花の季節である。琉球の旅は真夏しか経験が無いと言う方が多いので残念であるが、亜熱帯にも季節はある。この時期、冬に葉を落とすデイゴはやっと葉をつけ始めたころである。一方野山は春の花で満ちている。取り分け目につくのがセンダンの木で、野山の木々にあってその数が多いのであるが、花が咲いているこの時期に旅してこそ見分けられる。またカショウクズマメが本土の葛と違って丸い花の塊を見せてくれる。灌木の花で目につくのは野ボタンで、いたる所でその紫の花を楽しませてくれる。
センダンは本土では高級家具の材料として知られ、琉球では娘が生まれるとセンダン(シンダン:琉球読み)を植え、武家に男子が生まれると琉球黒檀を植えると言う伝統があった。琉球黒檀であるが、沖縄では黒木と呼ばれている。これはサンシン(琉球三味線)の最高級竿材である。
石垣マタハリホテルの施設一帯はかつて八重山の森の一部だった。
ガジュマルやセンダンの古木はなるべく残すようにして設計されていた。遠目には鬱蒼と生い茂る森の中のホテルに見えるが、エントランスからフロントのあるゲストハウス、そして尖閣カフェと並ぶ空間は芝生に覆われたヤードで、木々の下には木陰で食事ができるように鋳物のテーブルと椅子が配置されていた。この時期はセンダンの花の香りが辺り一帯を満たし心地の良い季節である。
「池田正人様ですね。話はお伺いしております。奥様の幸子様、そして深紅…、ミク様ですね。おっ、英語だとスカーレット、君にぴったりの名前だね」
秀平は深紅の目を見つめて微笑んだ。
ずっと無表情だった深紅の口元に少し笑みが覗いた。人にこの様に言われる事はまず無い。気に入っている名前なので分かってくれている人がいると嬉しいのである。
「橘正也は私の父でして、私は当ホテルの支配人、橘秀平と言います。明日父とお引き合わせ致しますので、本日はご家族で旅の疲れをお取り下さい」
「おーい、盛孝、お客様をお部屋に案内して。B棟の二〇三号だよ」
下地盛孝は石垣マタハリホテルの雇用人である。九名のスタッフの中で一番若い一九歳。今年島の高校を出たばかりである。褐色の肌に白い歯、満面の笑みで池田一家を迎え、部屋へ案内をした。
尖閣カフェは元来宿泊客の食事の場所として独立した棟が作られたものである。四人掛けのテーブルが四〇席程ある。まずまず広い空間であるが最近では席が埋まる事はまずない。壁には沢山のパネルが飾られていた。尖閣諸島の遠景、島の植物、水中の景色、ホテルと港湾施設などの写真がバランスよく並び、尖閣カフェと呼ぶに相応しい雰囲気を醸し出していた。左右を分ける中央の位置にフードサーバーがありビュッフェスタイルだった。ビュッフェスタイルと言うのは元来立ち食いなのでバイキングスタイルと言いたいのだが時流に逆らわずここはビュッフェスタイルと表現しておこう。
店内に入るとすぐ左にレジカウンターがあり、秀平はここに立っていた。つまり予約客が少ないとホテルのフロントカウンターはここに移動しているのである。
朝は和食中心だが洋食嗜好の軽食も豊富である。海ブドウとモズク酢、それに島ラッキョウの酢味噌和えは年間定番メニューである。フルーツは島特産の物でほとんどを賄えるが、欧米のホテル並みにスイカは一年中定番として供給される。夜は中華に洋食。味、ボリューム共に文句を言う客はいない。食事の時間帯が過ぎればデイタイムは喫茶であり夜はバーになる。正面奥のバーカウンターから左方向は一段高いステージになっており、グランドピアノが配置されていた。
西日が射して来たころに新しい客がやってきた。
トヨタのヴィッツが入り口前に止まった。ハッチバックを開けて一つ、後部座席から一つ、大きなトランクを取り出した。荷物と女性客を降ろして、車は駐車場へと向かった。駐車場はフロントヤードの西の端にあり、そこだけが車二〇台分程のスペースで舗装されている。聞くまでもないと言ったなれた手順で事を済まし、男は入口のドアを開けた。
『八重山の密林でサンドタンのデジカモってかぁ~、何と場違いな』
秀平は、心の中で揶揄しながら顔は最大級の笑顔で客を迎えた。
「立石稔様と谷川亮子さまですね。ご予定は取りあえず二十日間、県営魚釣島ホテルに空きが出なければ延長希望と伺っておりますが」
「それでお願いします」
立石が太い声で答えた。亮子は立石の掌に自分の指をからませて胸のふくらみを腕に押しつけていた。
「おーい、義進、お客様をお部屋に案内して。D棟の一〇五号と一〇六号だよ」
『何んだいあれは。べたべたしながら部屋は別だってぇ~』
秀平の心の声だった。
友利義進は石垣マタハリホテル設立当初からの社員である。マネージャーの秀平を除く男性社員三人のチーフだがまだ二四歳と若い。男性社員は表向きはポーターでありルームサービスである。しかし厨房もこなせば庭仕事もやる。ホテル周辺の自然の手入れも仕事の範疇だった。しかし最も重要な仕事は別にあった。全員そろって食料調達係なのである。マーケットで野菜や果物を仕入れるのも彼らの仕事であるが、島育ちの彼らにとって農家の知人は多い。最高に美味しい状態で農家から直接仕入れをするのも重要な仕事だった。加えて海にも出る。
千賀子の父砂川真徳が漁に出る日は男性社員の誰か一人がアシスタントとして乗船することになっていた。三人そろって素潜りもやれば一本釣りもやる。五色エビやワラジエビの刺し網を仕掛けるのも慣れたものである。そして収獲の中からホテルで供給されるものは浜値で買い取るのである。ホテルの客は運が良ければ他の石垣島の観光客の口には入り難い食材を口にすることが出来た。例を挙げてみよう。
クロマグロづくし。巨大シイラの姿焼、ヤガラの刺身、グルクンの塩焼き(当たり前すぎるがこれが旨い)。メッシュバック大のクブシミ(大型の甲イカ)の生け造り。巨大五色エビ、ワラジエビ、草鞋エビの刺身。クモ貝、水貝、夜光貝の刺身。姫シャコ貝の酢のもの。そしてこれらの食材が和食からイタリアンへと変わって行く。また海の漁ではないが、超高級食材のヤシガニが夕食に供される事もある。ヤシガニ採りは海岸線のアダンの根の下に出来た洞を煙で燻して追い出すのであるが、大雨の翌日には道路に出てきて捕獲される事がある。こういうのに限って大物である。三人とも漁に出掛ける日は生き生きとしていた。
この様な嗜好はオーナーである橘正也の趣味と言っても良い。元来石垣マタハリホテルはサービスの良さで客を引き寄せる必要はなかった。料金はまずまず、高くもなく安くもない。部屋は並のクラスだが建って間もないのでエアコンとシャワーに不具合はない。オープン当初から曰つきで仮にサービスが悪くとも一定の客は来るのである。当然の事、予約は電話で受け付け、楽天トラベルに利用料金を払う必要も無かった。
深紅は五時ごろ目が覚めてトイレを済ませた。もう一度寝なおさないと両親は起きて来そうにない。しかし昨夜は九時前に寝てしまったのでもう眠れなかった。
池田正人、幸子夫妻は深紅が寝着いてからも暫くは意見を交わしながらビールを楽しんでいた。休暇届けを出してから本日を迎えるまでには様々な葛藤があった。担任の先生が怖い、先生と口を利きたくない、と言って登校拒否を始めた深紅に手を焼き始めたのが事の始まりである。そこで先生と意見を交わすと、正人からしてみれば担任は好青年の部類で、深紅が何処に不信感を持っているのかが分からなかった。しかし深紅の心を開かせる努力は全て失敗に終わり、このまま行けば両親にすら心を開かなくなりそうな雰囲気になっていたのである。
幸子は千賀子の元同僚で、子を持つ母として、千賀子が離婚して故郷に戻っても連絡を取り合っていた。互いに愚痴を言ったり笑いあったりの仲で辛い時には話をするだけで心が救われる事もあった。正人と幸子は社内恋愛の上に結ばれたので千賀子と正人も遠慮無しで話せる仲である。
千賀子は池田夫妻が深紅に手を焼いている事は知っていたが、出口が見えず次第に状況が悪化しているのを感じ取っていた。そこで勤め先のオーナーである橘正也の話をしてみた。息子の一哉が正也になついている。正也から何やら色々な手ほどきを受けているようだが、島に来てからの三年で以前とは打って変わってしっかりとしてきた。実績が信頼を作る。千賀子も正也に全幅の信頼を置くようになっていたのである。そして島で暫く深紅をあずかってみようかと幸子に提案をした。そんな会話があってから二カ月、やっと今日を迎えて親子三人で石垣島に来た。池田夫妻は心身ともにへとへとだった。しかし南国石垣島に到着して別世界の雰囲気を味わい、夕食をはさんだホテルでの楽しい一時を過ごすと、何とか事が好転するのではないかなとの楽観的な期待が湧いてきた。深紅が寝た後も暫くは二人で会話を楽しんだ。久しぶりの幸せな時間だった。
千賀子は池田一家が到着した日に会って旧交を温めるつもりだったが、深紅に関するプログラムは既に始まっているので到着当日は会ってはいけないと正也に釘をさされていた。幸子はその話を聞いて残念に思ったが、久しぶりの親子水入らずの時間が楽しいものになり満たされた気持ちになっていた。
東京に比べると日の出の時刻は一時間ほど遅い。目覚めた深紅は六時半ごろまで友達の事や学校の事を考えながらじっとしていたが、外が白み始めるとこっそり抜け出すことにした。小さな冒険である。
昨日あれだけ暖かかった空気が今朝はひんやりとしている。八重山だとは言えまだ四月になったばかりである。見た事もない小鳥が芝生の上で何かをついばんでいた。赤と黒が基調の綺麗な鳥だった。風のない空気に濃厚な花の香りが纏わりついていた。センダンの花の香りが低く漂っているのだが、深紅は二年前北海道に家族旅行をした際に嗅いだライラックの香りに似ていると思った。尖閣カフェの前まで来たがまだ閉まったままである。カフェの入り口の左右はブーゲンビリアがいばらの様に密集して枝を張り、ゴージャスに紫の花を咲かせていた。回れ右して開けた正面の空間を見渡す。深紅が生まれ育った江東区東陽町とは大違いである。また学校の行事や両親が連れて行ってくれて見た自然とも大違いだった。開けた場所と森の堺目には見た事もない植物が生い茂っていた。図鑑で見た事がある恐竜時代の植物の様な木生シダのヘゴ。サトイモの様な葉っぱを茂らせているが地上の上まで茎を膨らませているクワズイモ。そして東京でも見た事のあるソテツだが、ここでは赤い大きな実を沢山付けていた。
やっと日が射し始めた芝生の隅で何かが蠢いている。トカゲである。丸々と肥えていた。まだ体が温まっていないのか動作が鈍かった。東京にいるときは不快で不気味な動物だったトカゲがなにやら可愛い動物に見えて不思議だった。
駐車場の脇には実を沢山付けたパパイヤの木が五本並んで生えていた。下の方の実は黄色く熟れている。昨日ホテルのお兄さんが部屋まで案内してくれる際にこの脇を通った。彼は『ママガスキッ』と奇声を上げたがその時は何の事だか分からなかった。寝る前になって…
『な~んだ、パパ嫌…ママが好き』って事か、と分かった途端に可笑しさがこみ上げて来た。
『くだらねえ~、くっだらねえ~っ』と今どきの子供が使う乱暴な言葉を吐きながらも暫くは笑いが治まらなかった。
深紅は野外に設置されたテーブルセットの椅子に腰を下ろした。脇に生えている古木の下枝がテーブルの上一メートルぐらいの位置まで垂れ下がっていた。その枝には小さな花の塊がびっしりとついており心地の良い香りを放っていた。『これだったのね』深紅は辺り一面に漂う香りの主が分かって納得した。センダンの花である。
突然音楽が流れ始めた。音が鳴る位置を追うと野外には数か所スピーカーが設置されているのが分かった。道路から離れており自然の営み以外の音が無いので音量は抑え気味だが、楽器の音も歌声もはっきりと聞こえて来た。時計を見ると七時半、尖閣カフェのオープンと共に音楽が流れる決まりなのかもしれない。
♪サー 君は野中のいばらの花よ
アー ユイユイ
暮れて帰れば ヤレホニ引きとめる
マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ♪
のんびりとした曲である。
石垣港から四キロほど西に位置する竹富島の民謡で安里屋ユンタと言う。
歌詞にある、マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨは八重山の古い方言で、『また会いましょう、美しい人よ』とされているが、この古語を理解できる人は既にいない。一方インドネシア語で解釈してみると、『私たちの太陽は君と私を同じように愛している』となるそうな。歌詞の内容は琉球王国時代に実在した絶世の美女と八重山に派遣された下級役人のやり取りを面白おかしく描写したものである。
インドネシア語節はマタハリが太陽と言う意味であるところから始まっているのだが、歌詞の流れからすれば『また会いましょう、美しい人よ』の方に軍配が上がっている様である。しかしインドネシア語節を支持する人たちはメルヘンチェイサーのおじさんたちであり、その下地が琉球にはあった。またインドネシア人に聞かせると『母国の言葉だ』と言い切るのでここでは判断を避けておく。
古代の日本には北方や半島、そして大陸から人々が流入してきた形跡があるが、その初期若しくはそれ以前に南方から渡って来た民族が縄文、そしてそれ以前の時代を築いたと信じている人は多い。
近年インドネシアのバリ島観光が安価で楽しめるようになった。現地ではどこでもバリの音楽が流れているが『あれっ、どこかで聞いた様な懐かしいメロディーが』と感じる人の話を良く聞く。五木の子守唄を連想させるようなうら悲しい曲が少なくない。そして何よりも驚くのが音階にレとラが無いのである。琉球好きの人がバリに行くと、バリ島の音楽は琉球とおなじレ・ラ抜き音階である事に気がつく。当然曲想に似たものが多い。
また近年本土でも大人気のゴーヤチャンプルーであるが、インドネシア語でチャンプルーと言うのは『ゴチャ混ぜ』と言う意味で沖縄と同じである。現在も生きて使われている言葉である。更にインドネシア語には琉球との関連以外に、日本語のオリジナルかと思わせるものが少なくない。
トッカル・チンチンと言う言葉がある。チンチンは指輪の事であるがトッカルは取り交わす、取り替えるの意味で、婚約の意味になる。その他飯はナシ、好きはスカである。この様に日本語のルーツではないかと思われる言葉は多いので全てを紹介するわけにはいかないが、かなり飛躍した説を一つ紹介しよう。
インドネシア語でカマル・クッチールと言えば便所の事である。カマルは部屋、クッチールは小さいと言う意味で小さな部屋、即ち便所になる。これがオラン・クッチールとなると小さな人と言う事であるが、意味は了見の狭い野郎、小人、ケチな野郎と言う事になる。即ち日本語のケチはこのクッチールが短縮されて出来た言葉ではないかと言う輩がいるのである。
深紅に分かる話ではないだろうが、このホテルのオーナーである橘正也もまたメルヘンチェイサーのおじさんだった。若いころから沖縄、そして東南アジアに深い縁を作って来た正也も六九歳と人生の終盤に差し掛かっていた。偶然の縁も重なって石垣島でホテル経営をする事になったが、ホテルの名前石垣マタハリホテルの由来は安里屋ユンタの歌詞とインドネシア語の太陽と両方から貰ったと人に説明していた。
新天地を求めて移動する人たちにとって、日本は文明の発生する以前から東に位置する最果ての地だった。弥生時代以降、中国や朝鮮半島経由で日本に移ってきた人たちの話は解き明かされているものもある。しかしそれ以前となると未だ想像の域を出ない。北と西、そして西南方向から流入した人々間で今の日本語に繋がる概念が確立されたのはいつのことだろう。正也はその時期を縄文以前だと思っている。そしてそれを証明できるのがウチナーグチ、即ち沖縄の方言であると信じて疑わなかった。
正也は学者でも無ければその方面で飯のタネにありついている人でもない。ただ仕事や旅行で特定地域に惚れてしまうと、学者よりも地域に密着した視点と知識が身についてくる事がある。興味がそれを適えるのでありアジア全般を知ることが彼の趣味となっていた。
『単純な事柄でも難しく説明出来るのが立派な先生』
『難しい事でも分かりやすく説明出来るのが優れた先生』
との通説がある。大学で地域の政治や経済、民俗学や歴史を教える教授には前者が多い。自然科学に比べて理論にシビアーさが要求されないので、各自が勝手な事を言い、自論に酔っている節がある。
ネット社会が確立されて、投稿できる場所が増えると正也もポツリポツリと自論を投稿するようになった。反論のコメントには思うところを答え、疑問の残る所は断定をせずに皆に参加してもらうようにしてしていた。一方の意見や考え方が全ての人に受け入れられる事はまれであるが、正也の自論は比較的多くの人に理解され始めていた。
深紅が抜け出て来たB棟は尖閣カフェに向かって右側、一番高いところにある。尖閣カフェと元来フロントのある建物は北西を向いて建てられている。その裏側に二階建ての建物が四つの配置されており全てが石垣マタハリホテルである。四つの棟は南西から北東、即ち正面ヤードに並行した形で配置されているが建物自体は全て西向きに建てられている。東シナ海に沈む大きな太陽が見られた。四つの棟は全て二階建てで部屋数は各棟共に全て一〇部屋だった。西側はそれぞれに広く開けていたが裏手は鬱蒼とした森だった。
尖閣カフェのドアが開き、深紅が腰かけているテーブルの近くに人がやってきた。外で朝食をとるつもりらしい。
「Good morning little lady」
日本人ではなさそうなおじさんが英語で声をかけて来た。そして日本語に切り替えた。
「このホテルに泊まっているの」
深紅は緊張してなんて答えてよいものか分からなかった。
「おじさんはね、フィリィピンって国からやって来たんだよ。そんなに緊張しないで。そうだお友達になろうよ」
色黒で皺の多い痩せた男だったが、目がとても優しい感じで深紅の緊張は自然に解けた。
男はiPhoneの電源を入れて深紅に見せた。そこには家族の画像が映し出されていた。
「これが私の奥さん。中の二人が息子と娘で、可愛いでしょ。君と同じぐらいかな。娘は一〇歳なんだ」
画面を指差しながら説明をした。ちょっと巻き毛で、浅黒い肌に満面の笑みを湛えた娘が映っていた。
「一つお姉さんです。私は九歳。池田深紅と言います」
「おお、自分から名乗ってくれましたね。これはとても素晴らしい事です。私の名前はサントス。サントス・マグバヤニと言います。これでもう僕たちは友達だよ」
サントスは軽くコブシを突き出して言った。
「ドラえもんの握手だよ」
深紅もコブシを突き出して、コブシのままで二人はシェイクした。とても楽しい気分になれた。
サントスの日本語は少し癖が残っているが流暢に喋った。『日本のアニメが好きなのかな』と、疑問と言うよりは親しみがわいた。
それから三十分ほど楽しい会話が続いた。深紅自身、初対面のおじさんとすぐに打ち解けて楽しい会話になった事などは無い。しかし自分では初体験であると言う意識はなかった。ただ楽しくて喋っていた。
深紅のいるテーブルにゆっくりと近づいてくる二つの影があった。深紅の両親である。