第8話 手を離れても、残るものは
その夜、私の左手は血のにじむ寸前まで荒れていた。
昼のあいだずっと、乾いた束と湿った束を選り分けていたせいだ。葉脈を確かめ、粉落ちを見て、香りの抜けを比べる。王都でも似たような作業はした。でも辺境の草は硬く、寒さで繊維が締まり、少し無理をすればすぐ指先を裂く。気づいたときには、親指の付け根がひどく熱を持っていた。
そこへ現れたのが、アウラ嬢だった。
「まだ続けるんですか」
採取籠を抱えたまま、彼女は私の手を一目で見た。辺境の娘らしく、袖をたくし上げた腕には迷いがない。今日の荷受け場で初めてきちんと言葉を交わしたが、短いやり取りだけで分かった。この人は、この土地の冬の匂いまで知っている。
「カイ様は、冬場の供給路をよくご存知です。ここから先は、帳簿だけでは足りませんよ」
責める声ではなかった。事実を置いただけだ。だから余計に刺さる。帳簿だけでは足りない。王都の私が、まさにそう見られていることを、彼女は遠慮なく形にしただけだ。
「承知しております」
それしか返せなかった。アウラ嬢は少しだけ目を細め、私の手から視線を外した。
「では、まずその手を休めてください。働けない手では、何も間に合いません」
正しい。正しすぎて、息苦しい。
彼女が去ったあと、ベルタが小声で言った。
「綺麗な方ですね。でも、お嬢様のほうが怖い場面では強いです」
「誰もそんな比較は頼んでいないわ」
「私はしておきたいんです」
笑う気にもなれないのに、少しだけ口元が緩みそうになった。そのせいで、余計に自分が情けない。私はいま、痛んだ手より別のことで取り乱している。
調合室へ移ると、代替処方の整理を続けながら手の荒れを確かめた。月見草が少ない。解熱草は乾燥が甘い束がある。ラベンダーは辺境産のほうが香りに硬さがあって、王都の配合をそのままは使えない。指先で葉を触るたびに、親指の付け根が疼く。それでも止まれなかった。
ベルタが帳面の脇で黙っていた。珍しい。いつもなら何かを言う子が、このまましゅんとしている。
「どうしたの」
「……お嬢様って、嫉妬するんですね」
私は瞬きをした。
「何の話」
「アウラ様と、カイ様のこと。お嬢様が今、ものすごく丁寧に仕事をしているの、そういうことじゃないですか」
声が出なかった。否定したかった。でも「違う」と言い切れる言葉が、すぐには見つからない。
「……仕事は、仕事よ」
「はい。でも手に血がにじんでます」
見ると、本当だった。親指の付け根の内側に、細い赤い線が入っていた。私はしばらくそれを見ていた。嫉妬という言葉が自分に当てはまるとは思っていなかった。いや、思いたくなかっただけか。アウラ嬢が「カイ様は供給路をよくご存知です」と言ったとき、私の胸の中で何かが重くなった。その「知っている」の中に、私の知らないカイ殿の時間が入っていたからだ。
3年前から。裏口で。花の時期ごとに。今朝のベルタの告白でようやく形になったその事実を、まだ全部は飲み込めていない。私がいなかった時間に、この人は何を考えていたのか。アウラ嬢と同じ冬を、同じ土地で越していた。それをただ事実として受け取れればいいのに、受け取れない理由が自分でも分からない。
ベルタは茶化さなかった。帳面を閉じて、黙って布を持ってきた。
夜になってから、扉が叩かれた。
「失礼します」
カイ殿だった。手に小さな薬壺を持っている。
「見せてください」
「何を」
「手を」
あまりにも迷いがなくて、拒む間がなかった。差し出した左手を取られた瞬間、私はようやく気づいた。今日いちばん困るのは、アウラ嬢の言葉でも不足の帳簿でもなく、この人に触れられて平然でいられない自分だと。
薬の匂いが立つ。ほのかに、安眠の香草も混ざっていた。
「少し沁みます」
そう言った声のほうが、私の手よりずっと静かに震えていた。
塗り薬を受け取るのではなく、塗られていた。親指の付け根から手のひらへ、指先が動くたびに息を整えなければならなかった。王都なら。こんな時間に、2人きりで、この距離で。そういう条件を頭に並べてみても、私の身体は逃げる口実を全部飲み込んでしまった。
「眠れるといいのですが」
独り言のように言った。安眠の香草を混ぜたことへの、一応の説明だろう。でも「あなたが眠れるといい」と「手当てに最適な配合」は、全然別のことだ。
「……それは、私への心配ですか。それとも作業上の話ですか」
聞いてしまった。聞くつもりはなかったのに、口が動いた。
カイ殿は一拍だけ黙った。視線を、少しだけ落とした。その仕草をもう知っている。言いにくいことの前に、必ずこうする。
「……両方です」
短い答えだった。でもその短さに、いつもの「理屈」がなかった。説明の皮が、1枚だけ薄くなった。
私は目を逸らした。逸らさないといけなかった。こういう顔をされると、「必要性で選んだ」という読み方が揺らぐ。揺らいでほしいような、揺らいでほしくないような、どちらとも決められない感覚が胸の中でぐるぐるした。
「……余計な配合です」
「余計ではありません」
即座だった。口調が穏やかなのに、1ミリも引かなかった。
薬壺が机に戻る音がした。指先が私の手を離れた。塗られているときより、離れたあとのほうが熱い。それが何を意味するのか分からない。分かりたくなかった。でも確かに、手の熱はそこにあった。
次の瞬間、廊下から足音が来た。
「カイ様、ミラベル嬢」
家令の声だった。いつもより少し急いだ口調だ。扉の隙間から流れ込んだ夜気が、室温を一気に引き下げた。
「山の村で高熱の病人が出ました。解熱草の備蓄が、足りません」
甘さが凍った。
カイ殿はすでに立っていた。私も立った。2人の間に残っていた何かが、そのまま後ろへ流れた。
「在庫はどれほど」
「乾燥済みで2束。明朝の便に上等品を載せても、村の人数には足りません」
「代替は」
「ご存知の範囲では――」
家令が私を見た。一瞬だけ、ためらうような間があった。
「ミラベル嬢。王都産の解熱草と辺境の野草を組み合わせた代替処方を、整理されていると伺いました」
私は1度だけ息を吸った。今日調合室で整理していた帳面の中に、その配合メモがある。試したことはない。でも、配合の理屈は通る。
「試せます。ただし辺境産の三つ葉ゲンの採取時期と乾燥度を、明朝一番に乾燥庫で確かめます。問題がなければ、昼前には第1便を出せます」
家令が一拍の間を置いた。
「……承知いたしました」
見込みを問うたのではなく、段取りを確認した。そういう返し方になったことが、むしろ正しかった気がする。
夜気の中で、カイ殿の視線がこちらへ来た。言葉ではなく、ただ見ていた。昼間のアウラ嬢の「帳簿だけでは足りない」が、まだ頭の隅に残っている。でも今夜は、その言葉の続きを自分の仕事で動かす番だ。
手の熱は、まだそこにあった。でも今はもう、仕事の熱のほうが先になった。
家令の足音が遠ざかる。
「ミラベル」
呼ばれた。名前だけで、何もなかった。
「……はい」
「今夜は、手を使いすぎないでください」
「承知しております」
承知はしていた。でも、明日の朝を越えれば、辺境の薬草不足はもう私1人の試験ではない。3日試験の期限より先に、本物の仕事が立っていた。
それがどうしても、少しだけ嬉しかった。




