第7話 3年前から知っていたと、侍女が言ってしまった
「実は3年前からです」と言われて、平気でいられるほど私は鈍くない。
朝の支度をしている最中だった。髪を留める手をベルタが止めて、なぜか妙に気まずそうな顔をしている。いつもなら言うべきことを言うための勢いしか持っていない子が、珍しく視線を泳がせていた。
「どうしたの」
「怒らないでくださいね」
「内容によるわ」
「内容は、かなり私に不利です」
そこでだいたい嫌な予感はした。嫌な予感というより、昨日から胸の奥に引っかかっていた何かが、とうとう言葉になる気配だった。
ベルタは一度だけ深呼吸してから、観念したように言った。
「カイ様に、お嬢様のお名前を教えたの、私なんです」
私は瞬きをした。声がすぐに出なかった。怒るべきなのか、呆れるべきなのか、それとも納得するべきなのか、自分でも判断がつかない。第1話の終わりに浮かんだ「あの子」という内心が、遅れて形になる。ああ、本当にこの子だったのだ。
「……いつ」
「3年前です。裏口で、毎日待ってたんですよ。早朝5時から」
「毎日」
「正確には、花の時期になるたびですけど」
まるで誤差みたいに言う。全然誤差ではない。
裏口。早朝5時。3年前。その言葉が並んだだけで、私の頭の中に知らない景色ができる。左手に薬草束、右手に花、まだ王都の朝霧が濃い時間。そこに見知らぬ青年が立っていた。私の知らないところで、私の名前へ辿り着こうとしていた。
「言わないほうがいいかなって思ったんです。でも、もう隠しても遅いので」
「遅いわね」
「ですよね」
ベルタはしゅんとした。けれど、その顔を見ても私は本気では怒れない。怒るには、あまりにも分かってしまうからだ。もし3年前の私が、その青年に気づいていたらどうなっていたのか。たぶん何も変わらなかった。いや、変わったのかもしれない。そういう、どうにもならない想像がいちばん困る。
扉の向こうで足音が止まった。
「入ってもよろしいでしょうか」
カイ殿の声だった。なんて悪い間の取り方をするのだろう。この人は、私の平常心が崩れる瞬間ばかり選んで来る。違う。選んでいるのではなく、私が勝手にそう感じているだけだ。
そう思おうとしたのに、ベルタが余計な一言を足した。
「ちなみに、待ってたの本当に長かったですからね。重いですよ、あの方」
「ベルタ」
「だって本当ですし」
私はようやく息を吐いた。3年前から。裏口で。花の時期ごとに。そんな事実を聞いた直後に、あの人と普通に話せるほど器用ではない。けれど避けるのはもっと不自然だ。
困る。嬉しいのに、嬉しいだけで済まない。名前を知っていた理由が、こんなに重いものだとは思わなかった。
扉を開けると、カイ殿が立っていた。昨日の作業着より少し薄い上着で、手に台帳を持っている。私の顔を見た瞬間に、ほんのわずかだけ表情が止まった。
「おはようございます」
「おはようございます」
返事が重なった。ベルタが小さく身を縮める気配がした。
「採取地の確認を、午前中に回ろうと思っています。お時間はありますか」
「あります」
それだけだった。お互いに、それ以上続けなかった。
今日の辺境は、昨日より空が低い。裏口から外へ出ると、石畳の隙間に朝露が残っていた。採取籠を抱えたベルタが後ろをついてきながら、しきりに私の顔をうかがっている。やめなさいと目で言うと、「だって」という口の動きが見えた。
裏門の前を通ったとき、私は無意識に足を止めた。
踏み固められた土だった。何度も誰かが立った跡で、石の端が少しだけ摩耗している。この門は荷の搬出に使う。朝は早い時間から開く。3年前のその人が立ったとしたら、こういう場所だった。
「……3年前、この辺りですか」
口から出てから、聞くべきではなかったと思った。カイ殿が少し視線を落とした。
「この路地の突き当たりです。門番に止められていましたが」
「止められても来たのですか」
「来ました」
事実だけで答える。ベルタが後ろで「やっぱり重いですよね」と小声で言い、誰も返事をしなかった。
喉が乾いた。嬉しいという感情なら分かる。ありがたいも分かる。けれどそのどちらでもない、うまく名前のつかない痛みが、胸のどこかを小さく押した。3年間、この人は私の知らないところで立っていた。私は王都の宮廷で、間違えられた名前に慣れていた。その時間が、今になって重さを持つ。
カイ殿は先へ歩き始めた。私も歩く。足音だけが石畳に響いて、誰も言葉を出さなかった。
午後、乾燥庫で作業を続けていると、指先が少しずつ痛くなってきた。辺境の束は繊維が硬い。昨日よりさらに一区画多く選別しようとして、親指の付け根を少し擦った。気づいていたが、手を止めることは考えなかった。試験の2日目だ。手際を見せるなら今日のうちに進めておきたかった。
背後に気配がしたが、振り返らなかった。
「少し休んでください」
カイ殿だった。帳面を持ったまま、束の山越しにこちらを見ている。
「まだ終わっていませんので」
「終わらせてから言っているのではありません」
「余計なことです」
返した言葉が少しだけ刃になった。自分でも分かった。この人の前では、疲れているときほど言葉が尖る。カイ殿は一瞬だけ間を置いた。
「余計ではありません。3年前も、今も」
声の静かさが、ぜんぶを吸い込んだ。
続きを言おうとして、言葉が出てこなかった。3年前も。その一言が、今朝の裏口の話と結びつく。あの踏み固められた土と、見えない朝霧の中に立つ人の像が、また胸の奥を押した。理屈で止めようとしても、先に喉が細くなる。
「……余計だという人間に対して使う言葉ではないと思います」
かろうじてそれだけ返すと、カイ殿はほんの少しだけ目を細めた。耳の端に、薄く色が上る。乾燥庫の中は空気が乾燥していて、そのせいかもしれない。そうではないかもしれない。
「ベルタに感謝しています」
「聞いていたのですか」
「廊下で少し聞こえました。謝ろうと思っていましたが」
「謝らなくていいです」
言ってから、少し驚いた。自分で思っていた以上に、早く、はっきりと出た。
ベルタが倉庫の端から「だから最初から重いって言ったじゃないですか」と声を上げ、誰にも褒められなかった。
私は手を見た。染みと擦り傷が重なった左手。3年前から追われていたこの手が、今日も乾いた束の繊維で荒れている。奇妙な話だ。これほど見られていたのに、私はまだ、自分の手を誇れるところまで来ていない。
それでも今夜は、もう少しだけ、嬉しいという感情のほうを先に数えてみてもいいかもしれない。そう思ったとき、左の親指がまた鈍く疼いた。
3年前から、私の名前を知るために待っていた人がいた。もう、偶然とは呼べなかった。




