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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第2章 辺境は優しくない——それでも根を張ると決めた

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第6話 彼が眠れない夜に、理由を聞いてはいけない気がした

 眠れない人の気配は、灯りの色で分かる。


 夜更けの廊下は静かだった。壁際の燭台だけが細く燃えていて、昼間より広い屋敷が、まるで息を潜めているように見える。水を取りに出ただけのはずなのに、私は足を止めた。書庫の前の灯りが、まだ消えていなかったからだ。


 こんな時間まで起きているのは、たいていろくでもない理由がある。


 覗き込むつもりはなかった。けれど扉の隙間から見えた横顔に、私は一歩だけ近づいてしまった。カイ殿が机に肘をつき、何枚もの紙を前に視線を落としている。昼間より少しだけ顔色が悪い。目の下の影が濃い。紙の束の端には、村名と数量が見えた。解熱草、乾燥ラベンダー、検疫札。仕事の顔だ。なのに、そういう種類の疲れだけではないことが、見た瞬間に分かってしまった。


「……まだ起きていらしたのですか」


 私の声に、カイ殿が顔を上げた。驚いたような、見つかって少しだけ困ったような目をする。


「ミラベル嬢。申し訳ありません、起こしましたか」


「いいえ。私も起きておりましたので」


「慣れているのです」


 何に、と問いたくなった。眠れないことに。足りないことに。責任に。私のことに。どれも違う気がするし、どれも少しずつ正しい気もする。だから、その先を聞くのが急に危険に思えた。


 聞いたら、答えが欲しくなる。


 代わりに私は机へ寄り、紙束の脇に置かれた空の湯呑を見た。


「お茶も飲まずに働いていたのですね」


「そこまで余裕が回りませんでした」


「では、淹れます」


 そう言ってしまってから、少しだけ後悔した。こんな時間に、2人きりで、わざわざお茶を。王都なら噂になるような状況だ。辺境ではそうではない、と頭では知っている。けれど、私の身体はまだ王都の臆病さを引きずっている。


 調合室へ移ると、夜の空気の中で薬草の匂いが昼間より強く立った。月見草の残量は少ない。カモミールは辺境産のほうが香りが硬い。王都と同じ配合にはならない。それでも、眠れない夜に効く組み合わせは作れる。


 匙を持つ手元を、カイ殿の視線が静かに追う。見られている。見張られているのではなく、ちゃんと見られている。その事実が、まだ時々困る。


「理由を聞いてはいけない気がした」というのは、こういうときのためにある言葉なのだろう。私は黙って湯気を待った。聞けばきっと答えてくれる。でも今は、その優しさがいちばん危ない。


 月見草の代わりに使ったのは、昼間の採取で余った辺境の野草だ。名は違うが、働きは近い。正確には近いとしか言えないが、試してみなければ分からないことはある。仕上がりを確かめようと指先で湯気の向きを変えると、右手の親指の付け根だけが少し熱い。今日の乾燥庫での作業で、無意識に力を入れすぎたらしい。


 気にしないことにして、湯呑に傾けた。


「王都の配合とは少し違います」


 書庫へ戻り、湯呑を渡しながら言った。渡す瞬間、指先がかすかに震えた。誰かのために組み替えた茶であることが、手から伝わりそうで、それが恥ずかしかった。


「でも、眠れない夜には、こちらのほうが向いています」


 カイ殿が受け取った。両手で包んで、一口含む。何も言わなかった。けれど、一口含んだだけで分かった顔をした。その顔が、何かを言うより余計なことを伝えてくる気がして、私は視線を外した。


「眠れない理由は……たくさんあります」


 どこかで風が鳴った頃、カイ殿が口を開いた。声が昼間と少し違う。抑えようとして、抑えが浅い。


「山側の荷の次便が遅れています。移送計画で補う必要があって、今夜はその算段を――」


「理由を聞けば、きっと答えてくださるのでしょうね」


 私は言った。


「……だから、聞かないでおきます」


 カイ殿の話が止まった。


 沈黙が落ちた。今度は昼間の張り詰めた種類ではなく、もう少し柔らかい静かさだった。カイ殿が湯呑を机に置き、ゆっくりと私を見た。見て、何かを考えるような間があって、それから微かに息を吐いた。


「……左様でございますか」


「そうです」


「余計なことを、申しておりましたね」


「そうは言っていません」


 カイ殿の耳の先が、燭台の光の中でわずかに赤い。私は見なかった。正確には、見えていたけれど、気がつかなかったことにした。


 机の端に、昨日の封書が置かれている。蝋の欠片が一片だけ残っていた。中央薬務局からの照会。私の名前は書かれていなかった。機能の不在だけが、丁寧な文面に並んでいた。私はそれを今朝から何度も読んで、まだ返答を出していない。


「封書の件は」


 カイ殿が静かに言った。


「急かしません。あなたが決めるまで」


「……ありがとうございます」


 答えながら、私は帳面に手を伸ばした。数字を確認するためではなく、視線の逃げ場所が必要だったから。


 カイ殿は何も続けなかった。それが、かえって正確に届く。言葉にしないほうが重いことは、ある。


 湯呑の湯気が細くなった頃、カイ殿がまたひとつ話しかけようとして、やめた。懐へ手が動きかけて、止まった。仕事の紙束に戻りかけて、そのままにした。


 私はそれを全部、見ていた。帳面に目を落としているふりをして、全部見ていた。


「この茶は、効きます」


 最後に私から言った。


「分かっています」


「信じていただけますか」


「最初から、信じています」


 その台詞だけ、少しだけ早かった。


 お休みなさいを言って、部屋を出た。


 廊下の石が冷たい。自分の足音だけが静かに続く。水を取りに出るはずだったことを、ここまで忘れていた。書庫の灯りがまだついているかどうか、振り返ればすぐに分かる。


 振り返らなかった。


 ――カイ殿は、なぜ眠れないのですか。


 聞けなかった問いが、廊下の暗さに残っている。知りたいわけではない。知ることが怖いわけでもない。ただ、答えを聞いたら、受け取れるかどうか分からない。受け取れてしまったら、もっと困る。


 辺境産のカモミールは、王都のものより少し渋い。それでも、今夜はあの人に効く。私が今夜から知ったのは、それだけで十分のはずだった。


 それだけでは足りない気がしているのが、問題だった。



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