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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第9章 名前が、宮廷を塗り替える

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第50話 毎日の花を、今日から私が選びます

 翌朝、普通の朝が来た。


 薬草園に出ると、朝露がいつもの場所にあった。乾燥棚にいつもの束がある。遠くの山はいつもの色をしている。何も変わっていない。昨日、宮廷記録委員会で承認書に印鑑が押されても、おとといの薬草学会で「ミラベル・ヴェストール」と名乗っても、その前の夜に「嘘でした」という言葉を受け取っても——朝露はいつもの場所にある。


 それが、少し嬉しかった。


 花を選ぼうとした。「届け先の人を思い浮かべて選ぶ」という習慣通りに、手が鋏を取った。何年かけて覚えた習慣かを数えようとして、やめた。数えることが今日は必要な気がしなかった。5年間、数えることで距離を保ってきた。数を並べれば、傷つきすぎないで済むと思っていた。今日は手が鋏を持ったまま、数の前に止まった。


「——誰のために」


 声がした。カイだった。薬草園の端から来た。外套を替えている。昨日と同じ栗色の髪が、今朝の光の中に立っている。「あなたのために選びました」と言おうとした。一拍止まった。止まった理由が分からなかった。分からないまま、でも言った。


「あなたのために選びました」


 カイが立ち止まった。


「そうですか」

「……おかしいですか」

「いいえ」

「余計でしたか」

「——いいえ。余計ではありません」


 その言い方が、今まで聞いてきた「余計ではありません」と全部違った。言葉は同じだった。でも今朝の「余計ではありません」には、昨夜の薬草園の匂いが全部入っていた。


「では」とカイが言った。「今日からは私が選びます」

「……何を」

「毎日の花です。あなたが添えていたように、私があなたの届け先を思い浮かべて選びます。——余計ですか」


 少しの間だけ、何も言えなかった。


 5年間、誰にも頼まれずに花を選んできた。届け先の人のことを思い浮かべて。受け取った人が一瞬だけ目を留めてくれたら、それでよかった。その習慣が、今この朝、逆向きで来た。主語が変わった。「誰にも頼まれなかった私」が今日「頼まれた側」になった、ではなく、「選ぶ側になりたい」と言う人間が隣に立っている。


「当然です」と言った。



 ベルタが来て「5年ですよ5年! やっとですよ!」と言い始めた。


 カイが「……そうですね」と答えた。ベルタが「少なくないですよ!」と言った。三人とも正しかった。


「お嬢様! カイ様! 今の会話、全部聞こえましたよ!」

「小声ではなかったので」

「当然です!」


 ベルタが「当然です」と言ってから、自分で気づいた顔をした。「あ」「……つい」「余計ではありません」とカイが言った。ベルタが少し赤い顔をしてから、前掛けを両手で握った。「……ありがとうございます、カイ様。いつも通り、余計ではありません」「いつも通りではありません」「似たようなものです」「——まったく違います」


 笑ってしまった。ベルタも笑った。カイは真顔のままだったが、耳が昨夜と同じ色になっていた。


 朝露が、薬草の葉の上で光った。変わっていない。でも今日は、変わっていないことの意味が違う。5年間、この薬草園に来るたびに「慣れてしまえば、別に苦痛でもない」と反芻してきた。今朝、その文句が頭に来なかった。代わりに来たのは、カイの「今日からは私が選びます」という言葉だった。



 書斎に戻ったのは、午前のうちだった。


 カイが書類を持って入ってきた。「昨日の件について、別の通知が届いています」


「委員会の追加書類ですか」

「いいえ。——別の地域の薬草学会から、招聘の依頼です」


 手が止まった。受け取った書類の差出人欄に、見知らぬ紋章が入っている。辺境ではない。王都でもない。中央から少し南の地域だった。


「……辺境だけでなく」

「はい。今回の学会発表がそこへ届いたようです。辺境の薬草の配合法が、別の地域の薬草師たちの間で話題になっていると書いてあります」


 届いた、という言葉が少し遅れてきた。


 5年間、薬草束を各部署へ届け続けた。差出人欄に名前を書き続けた。誰も読まなかった。薬務官も殿下も書類の宛先だけ確かめて次へ移っていった。でも今日、別の地域の薬草師が「ミラベル・ヴェストール」という名前を紙の上に書いて、ここへ届けてきた。差出人ではなく、宛先として。届ける側だった名前が、今日は受け取る側に来た。


「——名前が、宮廷を塗り替えるというのは、こういうことだったのですね」


 言った後で、自分でも少し驚いた。


「どういうことですか」とカイが言った。


「宮廷だけではなく、どこへでも。名前が先に届くようになった、ということです。5年前は——差出人欄に書いても、誰も読まなかったので」


 カイが一拍だけ黙った。視線を少し落として、それから「そうですね」と言った。


「——行けますか」

「当然です」


 今日の「当然です」は、昨夜のものとも今朝のものとも、また少し違う速さで出た。「当然です」という言葉がこんなにも多くの重さを持てるものだったのか、5年前の自分には想像できなかっただろう。5年前の私は、「当然です」という言葉を、傷つかないための盾として使っていた。今日は、ここにいていい理由として使っている。



 書斎の机の上に、新しい帳面が置いてあった。


「……これは」

「最初のページに、名前を書いてください」とカイが言った。

「なぜですか」

「毎日どこかに書いてください。そうすれば、いつでも自分がいる場所を確認できます」


 染みの多い左手で、帳面の最初のページを開いた。真っ白だった。


 羽根ペンを取った。インクをつけた。一拍止まった。止まった理由が今度は分かった。5年間、この手が書いてきたのは常に誰かへの届け文か、誰かのための記録だった。差出人欄の「ミラベル」は自分の名前だったが、それは誰かに届けるための印だった。今日、この帳面の最初のページには、宛先がない。届け先がない。自分だけのための名前を書く。


「ミラベル・ヴェストール」


 と書いた。


 5年間、差出人欄に書いてきた名前だった。薬務官も殿下も読み飛ばした。でも今日、自分のために書いた。インクが紙に馴染む間、その名前を見た。正しかった。一文字も違わず、正しかった。


「……これでいいですか」と聞いた。

「はい」とカイが言った。

「おかしくないですか」

「どうして」

「……自分の名前を、こんなに丁寧に書いたことがなかったので」


 カイが少し考えるように視線を落とした。それから「おかしくありません」と言った。「毎日書いてください」「毎日?」「はい。毎日、どこかに。そうすれば、いつでも自分がいる場所を確認できます」


 染みの手が、今日は少し違う使い方をされていた。宮廷では5年間、この手の仕事が誰かの名義になっていた。今日、この手が書いたものは、誰の名義にもならない。この手で書いた「ミラベル・ヴェストール」が、そのまま自分の名前として帳面の上にある。


 そのことが、今日は全部よかった。


 薬草園から、「ミラベル」と呼ぶ声がした。


 速さがいつも通りだった。


 いつも通りが、今日は一番嬉しかった。

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