第5話 王都からの封蝋を、開けずにいられない日がくる
王都の封蝋は、辺境の朝でもいやに赤い。
荷馬車の車輪が門前の砂利を噛む音で、私は帳面から顔を上げた。まだ陽は高くない。乾燥庫から戻ったばかりの指先には薬草の粉が残り、家令が寄越した在庫札の文字は半分ほどしか頭に入っていなかった。そこへ、門番の張った声が届く。
「王都からの急便!」
辺境まで来ても、宮廷は追いかけてくる。
その事実に、心が冷えるより先に肩が固まった。昨日までは、少なくともここでは王都の名を聞かずに済むと思っていたのに。門前に出ると、使者が差し出した封書の蝋印が陽を受けて鈍く光った。中央薬務局の印。その下に、早馬扱いを示す細い刻み。急ぎで、しかも正式だ。
ベルタが私のすぐ後ろで、小声にならない小声を漏らす。
「燃やしてしまいましょうか」
「受領記録が残ります」
家令が即座に切り返した。あまりに早くて、私は少しだけ救われる。くだらないやり取りがあるうちは、まだ飲み込まれずに済む。
「ミラベル嬢」
カイ殿は封書を受け取らなかった。代わりに、私を見た。
「開封は、あなたが決めてください」
その一言が、思ったより重い。勝手に庇われるのも嫌だが、勝手に処理されるのはもっと嫌だ。だからたぶん、これは正しい。正しいのに、少しだけ怖い。
私は封書を受け取った。紙の重み自体は大したことがないのに、手のひらへ落ちた瞬間だけ、過去が戻ってきたような気がした。報告書。差出人欄。後で書面で。読まれなかった名前。あれだけ置いてきたはずなのに、紙はこうして簡単に距離を越える。
「今すぐは開けません」
そう言うと、ベルタがほっとしたように息を吐いた。けれど、私自身は知っていた。これは先延ばしでしかない。開けずにいられない日は、たぶん今日のうちに来る。
封書を机に置いて作業へ戻っても、視線だけは何度もそこへ吸われた。王都印の赤は、辺境の土の色とどうにも馴染まない。異物だ。けれど異物だからこそ、無視していれば消えるという類のものではない。
昼過ぎ、帳面の上に影が落ちた。カイ殿だった。
「宮廷の書面は、待ってはくれません」
「ええ」
「ですが、急かすのも違う」
私は封書に手を伸ばした。終わったことにしたいなら、見ないままでもいられる。けれど、終わっていないものを見ないで済ませれば、それはまた別の形で追いついてくる。王都はそういう場所だった。
爪の先で蝋の端を押した瞬間、私は思った。これを割れば、私は辺境にいるだけの女ではいられなくなるのだと。
割れた。
封書の中に、紙が2枚入っていた。1枚は中央薬務局の紋章入りの正式書面。もう1枚は薄く、ヘルダ家の印が押されていた。
正式書面から読んだ。要旨は単純だった。宮廷薬草園の在庫管理と処方記録につき、担当者不在のまま複数品目の不足が生じている。過去5年分の配合根拠を照会したい。後任者の指定についても検討されたい。返書期限は本書到達より3日以内。
私は読み終えて、書面を机に伏せた。
招聘ではなかった。謝罪でも、呼び戻しの命令でもなかった。宮廷は、私がいなくなったせいで「困っている」のだ。5年間、私が管理してきたものが、今は誰にも引き継がれないまま薬棚に空白を作っている。その後始末を問い合わせてきた。
その事実の大きさを、どう受け取ればいいのかしばらく分からなかった。
悲しいとか腹が立つとか、そういう感情より先に、静かな確認だけがある。宮廷の台帳には「マリエル嬢担当」と記録されているのだろう。それでも照会が私のところへ届いたのは、誰かがどこかで、ミラベル・ヘルダという名前を追跡していたからだ。名前を呼ばれなかった5年間が、紙の上では証拠として残っていた。
カイ殿がまだ傍に立っていた。
「内容が分かりましたか」
「招聘では、ありませんでした。業務の照会と、不足品の問い合わせです」
カイ殿は一拍待って、低く言った。
「開かなければ終わったことにできた。でも、終わっていないなら見たほうがいい」
「それは私が言うつもりでした」
「先に取られましたか」
「少し」
笑えるはずだったのに、喉の奥で止まった。
ヘルダ家の薄い紙がまだある。手を伸ばした。父の筆跡で、療養中の姉の近況が一段落だけ書かれていた。眠りの波が落ち着いてきた。辺境でのことは父と直接話したい、と一文。
ベルタが小さく息を止めた。何も言わなかった。珍しいことだった。
私も何も言わなかった。眠りが落ち着いてきた。それはよいことだ。よいことのはずだ。ただ、父が「辺境でのことは話したい」と書いた意味は、たぶん姉の近況だけではない。
3日以内。3日試験と、まったく同じ猶予だ。
辺境の査定と王都の照会が、同じ期限で重なった。逃げ場が2方向から消えた、という意味でもある。
夕方、屋敷裏の薬草畑へ出た。在庫確認の残りが本当の理由だったが、封書の重さを少し外の空気に出したかったというのも嘘ではなかった。
すぐにカイ殿がついてきた。何も言わず、畝の端に並んで立っていた。
「今日は、ひとりになりたいわけではないのですか」
「ひとりになりたい顔なら、ついてきません」
「どういう顔をしていましたか」
「引き止めてほしい顔、ではありませんでした。でも、置いていかれると困る顔でした」
私は小鋏を持つ手を止めた。
「随分細かく見ていますね」
「癖です」
癖、という言葉が、どこかに落ちた。
風が畝を渡り、育ちかけの若い芽の先を揺らした。根を張ろうとしているのか、引き抜かれそうになっているのか、外からは分からない。似ている、と思った。何に似ているのかは言葉にしなかった。
「返答は、急がなくていい」
カイ殿が静かに言った。
「急がせたい相手ほど、急がせてはいけません」
「3日は変わりません」
「変わりません。でも、焦って書いた返事より、あなたが決めて書いた返事のほうが正しい」
反論したかった。けれど、声の温度が邪魔をした。
「辺境で根を張ると決めたなら」と私は言った。「王都の封書に振り回される時間はありません」
「ええ」
「だから早めに、私の判断で答えを出します」
カイ殿は何も言わなかった。よかった、とも、無理をするな、とも言わなかった。その飲み込んだものが、静かに場所を作った。頼りたくなる。そういう優しさが、かえって厄介だ。
その封蝋は、開いた瞬間から「まだ終わっていない」に変わった。
終わっていない。でも、それはもう、ただ怖いだけではなかった。




