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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第2章 辺境は優しくない——それでも根を張ると決めた

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第4話 辺境の朝に、呼びかけが途切れた

 辺境の朝は、名前より先に冷たさが触れてくる。


 窓を開けた瞬間、白い息が細くほどけた。王都より空が近い。遠くの稜線はまだ青く沈み、庭の土は夜の湿りを抱えたままだった。ここでは、花より先に冬支度の話をしなければならないのだろう。昨日まではその事実さえ、どこか他人事だった。


 扉を叩く音がして、ベルタが顔を出した。


「お嬢様。応接室へ。辺境伯夫人が、朝一番でと」

「分かったわ」


 分かった、と返した声が少しだけ硬い。3日。昨日のうちに告げられた期限は、眠って起きても短いままだった。3日以内に認められなければ、滞在も婚約話も白紙。名を呼ばれる幸福のすぐ隣に、そんな条件が置かれるとは思っていなかった。


 けれど、理不尽だとは不思議と思わない。王都では見てもらえなかった。ここでは見られる代わりに測られる。ただ、それだけだ。


 支度を整えて廊下へ出ると、向こうからカイ殿が歩いてきた。外交使節の衣装より少し簡素な朝の上着姿で、それでもこの屋敷の空気によく馴染んでいる。昨日までは、その馴染み方を頼もしいと思っていた。今朝は少しだけ遠い。


「おはようございます、ミラベ――」


 そこで言葉が切れた。


 たった一拍のことなのに、胸の奥が妙に大きく鳴った。呼ばれたかったのかと、自分で自分に驚く。カイ殿はほんのわずかに視線を伏せ、何事もなかったように言い直した。


「おはようございます。母はもう応接室におります」

「ええ。承知しております」


 本当は、その途切れた先を聞いてみたかった。昨日の馬車の中で、「あなたの名前を呼びたかったのです」と言われてから、少しだけ世界の質感が変わってしまった。困る。こんなときに困る。


 応接室の扉の前には、家令が立っていた。鍵束が腰で小さく触れ合う音がする。ああ、と私は思う。ここでは、花より先に鍵なのだ。任せるかどうかは、好意ではなく管理の話になる。


 扉が開く。


 白手袋の指先で茶器を整えながら、辺境伯夫人はまっすぐこちらを見た。


「ミラベル嬢。3日目の朝に、同じ顔でここへ来られるかしら」


 その問いに答える前に、私は一度だけ息を吸った。


「試みます」


 夫人はわずかに口を開いた。


「3日間、家令が案内をします。倉庫、記録、調合棟を順に。何かを変えたいなら、まず家令に申し出ること。いちいちカイに頼まなくてよいように」


 最後の一言は、私だけでなくカイ殿へ向けた言葉だとすぐ分かった。隣でカイ殿が小さく息を吸う気配がした。庇えないと、今この部屋で告げられている。夫人の声は穏やかだが、細い隙間ひとつ許さない線が通っている。


「承知しました」

「花では冬を越せません」


 それだけ言って、夫人はまた茶器に視線を落とした。終わりだ、と背中が理解した。


 廊下に出ると、家令がすでに半歩先を歩いていた。振り返らずに言う。


「門番の台帳に記録します。先に」


 門衛小屋は屋敷の北口にあった。家令が台帳を開き、ペン先に墨をのせる。


「お名前を」

「ミラベル・ヘルダです」

「ミラベル・ヘルダ。婚約候補資格にて滞在」


 書かれていく。声に出して読み、正しく記す。知らない人間の手が、正しい名前を辺境の台帳へ刻んでいく。宮廷で一度も正しく記録されなかったものが、今日の朝にここで書かれた。それだけのことなのに、指先が少しだけ熱くなった。


 乾燥庫は屋敷の裏棟にある。扉を引いた瞬間、乾いた草の匂いに混じって、かすかに湿った空気が漏れた。入ると同時に私の左手が動く。壁のそばへ伸ばし、空気の流れを皮膚で読む。王都でも最初にすることだ。


「在庫はこちらです」


 家令が棚を示した。保管札が整然と並んでいる。数は確かに多い。帳簿とも合っている。けれど、視線を奥列へ滑らせた瞬間、私は足を止めた。棚の右端から3段分、葉束の色が濃い。


「帳簿を見てもよいでしょうか」

「どうぞ」


 受け取った台帳は、整っていた。品目、数量、仕入れ日。どの欄も丁寧に埋まっている。私は台帳を戻し、奥列へ向かった。束を1つ取り、指先で葉脈を押す。芯が柔らかい。香りを嗅ぐ。揮発が弱い。


「この区画と奥列の左手3段、保管札の日付と乾燥の状態が合っていません」


 家令が一歩止まった。


「……何が」

「湿気が偏っています。換気が右壁側に抜けているせいで、奥列だけ空気が淀む。今の季節なら1週間以内に品質が落ちます」


 ベルタがすかさず口を開いた。


「えっ、これって含湿率の問題ですか。フクシツリツって何ですか」

「湿り気の割合よ」

「割合の話なんですか」


 家令が眉間にわずかに折り目を入れた。何かを言いかけて、止めた。そして静かに言った。


「数は合っています。質は合っておりません」


 私の言葉を繰り返しているのに、他人の手に渡ると全く違う重さになった。反論ではない。事実の確認だ。査定役が初めて、こちらの言葉を自分の言葉として置き直した。


 乾燥庫を出ると、中庭の回廊でカイ殿が待っていた。手に薄い紙束を持っている。


「供給元の台帳の写しです。今後の参照に使えるかと」

「ありがとうございます」


 受け取ろうとして、指先が触れた。一瞬だけだ。カイ殿の手が一拍止まった。


「……今日、どうでしたか」

「左様でございますか、とは言えないくらいには」


 その言い回しがおかしかったのか、カイ殿の口元が少し動いた。微笑む、というより、何かをこらえるような動き方だった。耳の先がほんの少し赤い。見なかったことにした。見てしまうと、まだ困る。


 夕方、家令が部屋を訪ねてきた。


「1点、申し上げておきます」


 声が昼間より低い。


「今日の乾燥庫の状態は、換気の改修で対処できます。ですが」


 一拍あった。


「この不足は、誰か一人の手際では説明がつきません」


 私は帳面を手に取った。


「仕入れ元が」

「そこから先は、今日の話ではありません。ただ、知っておいたほうがよい」


 それだけ言って、家令は扉を閉めた。


 灯りの下で、私は帳面に1行書いた。仕入れ先の変化。そしてその下に小さく書き添える。倉庫の中だけでは、説明がつかない。


 家令は何を知っているのだろう。そしてカイ殿は、最初からどこまで見ていたのだろう。


 途切れた呼びかけと、仕入れ先の問題と、まだ開いていない翌日の扉が、夜の部屋にゆっくり積もっていった。


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