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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第1章 婚約者より先に、見知らぬ青年が名前を知っていた

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第3話 3日以内に認められなければ——という条件だった

 辺境伯夫人は、挨拶の直後に3日と切った。


「3日以内に私が認めなければ、滞在も婚約話も白紙です」


 朝の応接室は、王都のそれより静かだった。重いカーテン、薄い湯気、窓の向こうに残る霧。誰も声を荒げていないのに、昨日までの馬車の揺れよりずっと足元が不安定に感じる。正しく呼ばれる世界へ来たはずだった。けれど、その世界の最初の言葉が歓迎ではなく査定だというだけで、胸の内の景色が少し変わる。


 カイ殿が何か言いかけた。私はその前に頭を下げた。


「承知いたしました」


 言ってから、自分でも少しだけ驚いた。拒みたいわけではなかった。むしろ、ほっとしたのだ。王都で私を傷つけたものは、ずっと曖昧だった。悪意でもなく、敵意でもなく、ただ見られないこと。ここは違う。認めるか、認めないか。残るか、帰すか。線が引かれているぶんだけ、私にはやることが見える。


 辺境伯夫人は白手袋の指先で茶器の縁を1度だけ撫でた。


「王都の令嬢に、土と湿気は重すぎるでしょう。息子は情に流されることがありますから、母である私が止めます」


「では、止めるに値するかどうかをご覧ください」


 ベルタが隣で息を呑んだ。カイ殿の視線が、少しだけ痛いくらいにこちらへ寄る。庇いたいのだと分かった。けれど今、庇われるのは違う。ここで必要なのは、好きだと言われることではない。担えるかを示すことだ。


 家令が卓の上に鍵束を置いた。乾いた小さな音がした。


「まずは乾燥庫をご覧に入れます」


 夫人が席を立った。白手袋の手が扉の把手を押した。その背中は、褒めるも貶すもなく、ただまっすぐ廊下へ消えた。


 ベルタが小声で呟いた。

「歓迎と承認は別物ですね、辺境……」


「ええ」と私は答えた。

「でも、分かりやすいです」



 乾燥庫は屋敷の裏手、北向きの棟にあった。廊下へ踏み込んだ瞬間、湿った草の匂いと冷えた石の感触が足先から来た。王都の薬草庫とは違う。もっと濃く、もっと土に近い。管理の手が行き届いているかどうかは、その瞬間にもう分かった。


 家令が棚の前で手を広げた。40代半ばほどの男性で、立ち居は律儀だが目線に遠慮がない。品定めをしている。令嬢であっても結果を出せない者には席を与えない、とその目が言っていた。


 私は帳面を受け取り、棚の前へ歩いた。保管札を1枚ずつ確かめながら、指先で葉の状態を触れていく。


 おかしい。


 札と実物が、合っていない場所がある。棚の最上段、カモミールと書かれた束の隣に、別の草が紛れ込んでいた。色は似ているが葉脈の形が違う。煎じた場合の成分も変わる。誰かが取り違えたのか、記録のつけ方が甘かったのか。調合に使えば、量を誤る。


 さらに奥の棚では、束の向きが統一されていなかった。北向きで湿気が入る側に茎を向けて並べると、乾燥が均一にかからない。見た目には問題がなくても、2週間後には使い物にならなくなる。


「この保管札、書き直してもよろしいですか」


 振り向かずに問いかけた。


「……書き直す、とは」


 家令の声が1段低くなった。


「取り違えがあります。この束はカモミールではなくマトリカリアです。似ていますが、解熱に用いるなら用量が変わります。それから、この棚の段の向き——乾燥の入り方が偏っています。修正してよいですか」


 沈黙があった。私は待った。


「……どうぞ」


 短い返事だったが、声に何かが混じった。驚きより、確かめるような間。私はそれを聞かなかったことにして、束を1本ずつ触り直した。左手で茎を持ち、指先の感触で水分を測る。王都でずっとしてきたやり方だ。爪の間に粉がつく。荒れた指先が、こういうときだけ役に立つ。


「それを、なぜ一目で」


 家令が低く問うた。


「一目ではありません。5年間、毎日触れていたからです」


 答えた瞬間、自分でも少し意外だった。怒りではなかった。自慢でもなかった。ただの事実だった。



 棚の確認に2刻ほどかかった。帳面の数字と現物のずれを書き出し、直せるものはその場で修正した。保管札の書き直しは家令が立ち合ったまま行い、私は1枚ずつ声に出して確認してから記録した。


 裏の仮干し場へ出たのは昼を過ぎた頃だった。


「少し休まれますか」


 声がして振り返ると、カイ殿が日陰の柱に背を預けて立っていた。外套を脱ぎ、腕を組んでいる。馬車の中にいた顔とどこか違う。辺境の土の上に立つと、この人は少し重心が変わる。


「結構です」


「そう言うと思っていました」


「では聞かなければよかったです」


 私が先に言うと、カイ殿は口の端を少しだけ動かした。笑った、というほどではない。でも笑ったと分かった。


「手伝えることはありますか」


「ここは私の試験です」


「では、手伝わない範囲で関わります」


 何がどう違うのか、と言いたかった。でも言う前に、彼が仮干し場の棚から端の束を1本だけ指で示した。


「あれ、結びが緩い。落ちかかっています」


 見ると確かにそうだった。私が近づいて直そうとしたら、ちょうど届かない高さだった。1歩だけ後ろから彼の手が伸びて、束を押さえた。それだけだった。代わりにするでもなく、ただ落ちないように支えながら、私が結ぶのを待っていた。


 左手の指先が縄を引いた。隣で、彼の袖が日差しに揺れた。


「ミラベル」


 名前を呼ばれた。声がすぐそこにあって、少し低かった。私は縄を締めながら先を待った。続きが来ると思っていた。


 来なかった。


 振り向いたら、カイ殿が視線をわずかにずらしていた。耳の端が赤かった。


「……束は、以上です」


「そうですか」


 私は何も聞かなかった。聞けなかったのか、聞かないことを選んだのか、自分でもまだ分からない。



 夕刻、家令が応接室へ戻すよう言ってきた。


 辺境伯夫人は昼間と同じ場所に座っていた。白手袋の指が、机の上の帳面の端に触れている。私が書き直した保管記録だと分かった。いつの間に届いていたのか。


「1日目としては、悪くない」


 短い言葉だった。褒め言葉とは言えない。しかし否定でもない。


「5年、宮廷で薬草管理をしておられたとか」


「はい」


「誰の名前で」


 1拍だけ遅れた。


「……書類には、私の名前を書きました」


「宮廷では読まれなかったと聞いています」


 誰から聞いたのだろう。夫人の目が、初めてまっすぐこちらへ来た。棚ではなく、私の目を見ていた。


「辺境では読みます。書かれたものは必ず誰かが確かめます。……それが分かるなら、続けてみなさい」


 承知しました、と頭を下げた瞬間、膝の裏がほんの少し震えた。泣くわけではない。ただ何かが少しだけ緩んだ。王都では1度もなかったことだ。読む人がいると言われたことが。


「2日目はもっと悪い場所を見せます。供給路です」


 夫人が立ち上がりながら言った。それだけで部屋を出ていく。


 その背中を見送ってから、私は初めて気がついた。夫人の試験は追い返すためではなかった。担えるかを、公正に問うていたのだ。王都では、問われたことすらなかった。



 夜は早く来た。


 部屋に戻って帳面の整理をしていると、廊下の奥で足音がした。止まった。戸口の手前だと分かる距離で、声がした。


「ミラベル——」


 筆を止めた。続きを待った。


 来なかった。


 しばらく経って、足音が遠ざかった。私はもう1度筆を取った。保管札の数字を書き写しながら、名前の後ろにあったものを考えていた。何を言いかけたのか。何を呑み込んだのか。


 明日は供給路を見る。不足の根は、屋敷の中だけではないのだと、家令の目が昼間に言っていた。


 私はまだ何者でもない。ただ今日だけは、書いたものが読まれた。それで十分だと思おうとして、そう思えない自分が少しだけいた。


 乾いた草の匂いが、まだ左手の指先に残っていた。

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