第22話 姉の言葉を、信じていいのかわからない
「知らなかった」と言われて、救われる人がいるのだろうか。
朝の客間は静かだった。窓際の薄い光が、机の上の白だけを妙に浮かせている。姉様が置いた封筒も、私が昨夜ほとんど眠れないまま読み返した控えの束も、何もかもが白く見えた。白い紙は清潔で、だからこそ、そこに乗る言葉の遅さが目立つ。
姉様は手袋を外していなかった。たぶん、外すべきか迷っているのだと思う。謝る人の手ではなく、訪問する令嬢の手のままここへ来たことを、自分でも分かっている顔だった。
「……座ってもいいかしら」
「どうぞ」
その1言だけで、部屋の空気が固くなる。姉様は礼を守る。私は礼を崩さない。礼が崩れないまま苦しくなれるのは、家族の会話くらいだ。
しばらく、どちらも本題を言わなかった。茶の湯気が薄くのぼり、先に冷える。こういう間の悪さは、昔から姉妹で変わらない。姉様は綺麗な間を作る人で、私は実務の間を埋める人だった。だから結局、先に口を開いたのは私だった。
「姉様は、どこまでご存知だったのですか」
姉様の睫毛が震えた。予想していた問いなのに、真正面から来るとまだ痛むのだろう。その反応に同情しそうになって、私は自分で嫌になった。
「……知らなかったと言ったら、信じてもらえませんか」
呼吸が、浅くなった。
その言い方をする人は、何も知らなかった人ではない。
姉様は目を伏せたまま、封筒の角を指でなぞった。
「知らなかった、と書くのは卑怯だと思ったの」
「では、知らなかったわけではないのですね」
「全部ではないわ。でも、知ろうとしたら見えてしまうものがあると……分かっていて、見ないふりをしたの」
外では、乾燥室の戸が開く音がした。誰かが木箱を運んでいる。辺境では、手を動かしている人の音がよく通る。王都では、書類の音ばかりだった。私はなぜか、その違いを今ここで思い出した。
姉様は私の前に、古い控え紙を1枚滑らせた。発注書だった。差出人欄の名義は姉様のままなのに、書いている人間は私だと分かる、あの癖のある文字。
「これを見たとき、もう分からないふりはできないと思ったの」
思ったのが、今なのだ。遅い。遅いのに、その遅さを認めて来た人を、私はどこまで拒めばいいのか分からなくなっていた。
だからこそ、まだ信じてはいけない気がした。
私は控えを手に取った。薬草の染みが馴染んでいる、私の指先で。
「これは——どこから」
「父の書斎を整理したときに見てしまったの。3年前のことよ。返そうと思っていたわ。でも、誰に返せばいいか、宛名が書けなかった」
宛名が書けなかった。
姉様の名前で積み上げられていた書類を、本来の持ち主に返すための封筒の宛名を、正しく書けなかった。私はその言葉の重さを噛み砕きながら、もう1つ問いをした。
「父様のご指示で、持ってこられたのですか」
姉様の睫毛が、今度は別の動き方をした。短い間のあと、白い手袋の指先が膝の上でそっと重なった。
「……違うわ」
そうか、と思った。声には出さなかった。
父様の命で辺境に来たのは本当だろう。けれど、この控えを鞄に入れて持ってきたのは姉様自身の判断だ。それがどういう意味を持つのかは、まだ分からない。分からないまま、私の中で何かが1ミリだけ動いた。遠ざかる方向にではなく——どこかへ、ほんの少しだけ。
姉様は続けた。
「他にも、いくつかあるの」
鞄の口が開いて、古い紙が数枚、机に並んだ。どれも差出人欄はマリエル名義だった。でも書いた文字は私のものだ。筆圧の癖、備考欄の細かな書き込み、薬草名の略し方。年を遡るほど文字の大きさが少し変わる。私が仕事を覚えながら書いていた頃の癖だ。
「見ないふりをしていたと言ったわ。でも、これを見てしまった後は——」姉様は紙の端に、指先だけで触れた。「見ないふりができなくなってしまったの」
私は、怒るより先に疲れた。
怒鳴りたいわけではなかった。泣きたいわけでも、詰りたいわけでもなかった。ただ、この重さを誰かと分けることが、まだできない。受け取ることも、突き返すことも、今日の私には早すぎる。だからこそ、1番困る形で姉様は来た。悪意ではなく、遅すぎる誠実さを持って。
「姉様」
「ええ」
「今日のところは、ここまでにしましょう。長旅でお疲れでしょう」
姉様は少し驚いたように顔を上げた。もっと激しい言葉を覚悟していたのかもしれない。どちらでもよかった。私は立ち上がりながら、机の上の控えに手を伸ばした。1枚だけ、取った。
「これは借りていきます。返しません」
「……ミラベル」
「最初から私のものですから」
姉様は返事をしなかった。代わりに、封筒の角から白い指先がゆっくりと離れた。それを確認してから、私は客間を出た。
廊下はひんやりしていた。乾燥棚の薬草の匂いが、どこからか流れてくる。この匂いの中にいると、頭がいくらか整う。私は立ったまま、1息だけ吐いた。
ベルタが角の向こうにいた。当然のように。
「……お嬢様」
「聞こえていたでしょう」
「全然聞こえていませんでした」
「嘘はよくないわ」
「お嬢様が崩れずに出てこられたので、それで十分です」
崩れていないかどうかは自分では判断できないが、少なくとも足は動いていた。
そのとき廊下の奥から足音がした。カイだった。通行札を手に持ったまま、こちらを見た。
「……1枚、持ち出しましたか」
「ええ」
「そうですか」
理由も聞かず、咎めもしなかった。ただ、視線が1拍だけ控えの紙と私の指先のあいだに落ちて、それから戻った。
「父様が、3日後にこちらへ来ます」
言いながら、自分で気づいた。今の私は姉様より先に、カイにそれを告げた。なぜそうしたのか、うまく説明できない。ただ、言うべき順番がそこにあった気がした。
「知っています」
カイは通行札を上着の内側に収めた。それからこちらを見た。灰青の目に余分なものがない。
「余計なことは言いません。ただ——3日、あります」
それだけ言って、カイは廊下を進んでいった。
私は控えの紙を、改めて見た。差出人欄は姉様の名前のまま。けれど備考欄の隅に、作業担当者の略称として記してあるイニシャルがある——「M.H.」という2文字。マリエル・ヘルダではなく、ミラベル・ヘルダ。
姉様は、ここを知っていたのだろうか。
3年間持ち続けて、辺境まで運んできたこの1枚の、備考欄の2文字を。
父が来るまで、あと3日。私はその3日で、この問いの答えを決めなければならなかった。




