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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第1章 婚約者より先に、見知らぬ青年が名前を知っていた

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第2話 花1本から、3年間が始まったと彼は言った

 馬車が王都の石畳を離れてしばらく経ったころ、カイ殿は膝の上で指先を1度だけ止めた。揺れの合間に、懐から取り出したのは小さな押し花だった。淡い紫。茎は潰れているのに、色だけは不自然なほど鮮やかで、私は見た瞬間に息を詰めた。


「3年前、花1本から始まりました」


 そう言って差し出されたそれは、リュゼリカだった。辺境の山にしか咲かない花。王都で揃えるには手間がかかる。しかも誰に頼まれたわけでもなく、貴賓棟の薬草束に添えた1輪を、この人は3年も持ち歩いていたのだ。


「……花1本で」


「ええ。花1本だったからです」


 受け取るかどうか、1拍だけ迷った。迷ったまま、結局手を出した。押し花は、私の指先より少しだけ冷たかった。婚約解消も、殿下の後悔も、昨夜まではまだ出来事の名前だった。でも今、掌の上に置かれた1輪だけは、出来事ではなく時間だった。私の知らない3年が、この人の懐で潰れずに残っていた。


「翌年も添えてありました。2年目は、花の状態がよくなる時期を選んでいた。3年目には、裏口で待ちました」


「裏口で?」


「早朝5時から。左手で薬草束を抱えて、もう片方の手に花を持った人が来るのを」


 ベルタが隣で小さく咳払いした。小さいつもりで、全然小さくない。


「だから言ったじゃないですか。この方、最初から重いんですって」


「ベルタ」


「だって本当です」


 叱ろうとしたのに、うまくいかなかった。見つけられていたことは嬉しいはずなのに、嬉しいだけでは済まない。こんなふうに3年も追われる理由を、私はまだ知らない。いや、知らないままでいるほうが安全な気さえした。


 カイ殿は私の顔を見て、それでも静かな声で言った。


「あなたの名前を呼びたかったのです。呼ぶ正当な理由が欲しかった」


「……それは、少しだけ、ずるいですね」


「はい」


 即答だった。言い訳もなく、澄ました顔で「はい」と言える人間を、私は今日まで知らなかった。おかしくて、だから泣くよりも先に息が詰まった。



 山道の検問所に差し掛かったのは、昼を少し過ぎたころだった。


 木柵の前で御者が馬を止め、カイ殿が先に窓の外へ目をやった。その横顔が、馬車の中で笑っていたときと少し違う。しわ寄せではなく、引き締まりだ。なにかを読んでいる顔だった。


「少し時間がかかりそうです」


 柵の内側で、門番が2人、通行者の名前を台帳に記していた。荷馬車が1台、脇に寄せられている。御者台の男が何か言っているが、聞き取れない。ただ、荷台から乳白色の布にくるまれた何かが見えた。それと、咳だった。荷馬車の幌の向こうから、断続的な低い咳の音が届く。


 カイ殿が馬車を降りた。私も続こうとしたが、先に声がかかった。


「お待ちください。ここは私が」


 それでも降りた。カイ殿は一瞬止まったが、止め直しはしなかった。


 門番の1人が帳面を持ち直す。


「お名前と、ご目的を」


「カイ・ヴェストール。辺境伯家子息です。同行は侍女1名と、ミラベル・ヘルダ嬢」


 ミラベル・ヘルダ。墨で書かれる、私の名前。王都では薬務官も、薬草束の受け取り確認も、差出人の欄だけが私を知っていた。でも今、門番の手が帳面に名前を記したその瞬間、辺境という土地に初めて私という字が刻まれた。


 それを嬉しいと思う前に、門番が低く言った。


「お知らせがあります。山向こうの村で咳が広がっております。解熱草の入荷が遅れていることは、屋敷にも知らせが行っておりますが」


 カイ殿の視線が、1度だけ荷馬車のほうへ流れた。私も見た。荷台に積まれた、布に包まれたもの。それは解熱草ではなかった。乾燥済みの草の束ではなく、生のままで積まれた何かで、形がひどく不揃いだった。集められるものを集めただけ、という形だ。


「承知した。急ぎましょう」


 馬車に戻ってから、しばらく誰も話さなかった。ベルタが水袋を取り出して、それから迷って戻した。私は掌の上の押し花を、いつの間にか握り直していた。



 半刻ほど走ったところで、泉水のある広場に止まった。馬に水を飲ませるためだ。ベルタが御者と言葉を交わし、カイ殿が遠くの山の稜線へ目をやっている隙に、ベルタが私の袖を引いた。


「お嬢様、実はあの、3年前の件なのですが」


「3年前」


「花を添えた束のこと、私が……つまりその、1度だけカイ様にお話ししたことがありまして」


 ベルタが珍しく声を落とした。落としても十分聞こえる音量だったが、本人は潜めているつもりらしい。


「どういうこと」


「辺境の使節の方々が帰られるとき、カイ様が薬草園の前に立っておられたのです。花を見て、誰が選んだのかとお聞きになって。私、お名前だけお教えしました。お嬢様のご本名を。お姉様と間違えたまま帰らせるのは、なんだか悔しくて」


 呆れが来た。それから、怒りかけて、でも怒り方が分からなかった。3年前のベルタに怒ることも、この縁が偶然ではなかったと知ることも、どちらもうまく飲み込めない。


「……勝手なことを」


「はい。でも後悔はしていません」


 胸を張られた。堂々としすぎている。


 遠くで、カイ殿が礼を言いかけた。でも言葉を選び直す間があって、結局「ありがとう」とだけ言った。何に礼を言ったのかは、問わなかった。



 辺境伯家の正門は、王都のそれより厚く、低かった。石の色が違う。建てた人間が、飾りより重さを選んだ門だ。


 灰青の夕暮れの中に、白手袋の人影が立っていた。


 辺境伯夫人だと、一目で分かった。そうでなくても分かった。佇まいがそう言っていた。装飾のない黒の上着、背筋が1本の線のように真っ直ぐで、視線だけが動く。迎えに出ているのに、迎えの顔ではない。値踏みの顔だ。


 カイ殿が先に降り、私の手を取ろうとした。私は自分で降りた。


「お帰りなさい、カイ」


「ただいま戻りました。母上、こちらが」


「存じています」


 夫人の視線がこちらへ来た。一瞬だけ、私の手に止まった。薬草の染みが残る、荒れた左手に。止まって、次に顔へ上がった。そのまま1言も出なかった。


 沈黙は長くはなかった。夫人が石段を1段降りて、それでも白手袋の指先を差し出しただけだった。握手ではなく、触れるか触れないかの会釈だ。


「旅でお疲れでしょう。明朝、お話しいたしましょう」


 それだけだった。


 温かくもなく、冷たくもない。ただ、歓迎の言葉がなかった。


 私は「よろしくお願いいたします」と返した。カイ殿が何か言いかけたのが分かったが、夫人はもう振り返っていた。


 家令が乾燥庫の鍵束を腰に提げたまま、先を歩いている。濡れた石段の隙間から草の匂いがした。冷えた土の匂いだ。


 ベルタが耳元で囁いた。


「お嬢様。歓迎と承認は別物です」


「……分かってる」


 灰青の空の下で、辺境伯家の屋根が私の上に重く落ちた。呼んでくれる人がいるだけでは、まだ何者にもなれない。正しく呼ばれるだけでは、まだここは私の場所ではない。


 そして明朝、辺境伯夫人は3日と切ると言うだろうという予感が、すでに足の裏に来ていた。


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