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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第4章 姉の影が、辺境まで追いかけてくる

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第18話 5年間、誰にも頼らなかった私は――今、迷っている

 眠れない夜に茶を淹れる手つきだけは、まだ5年前の私に戻る。

 けれど今夜、その湯気の向こうにいるのは王子ではなかった。


 作業室の灯りが消えていないことに気づいたのは、返答案の3枚目を破ったあとだった。書けば書くほど、父の言い方をなぞってしまう。家として。条件として。承認として。私が返したいのはそんな言葉ではないはずなのに、一人で考えていると、いつも相手の文面の形に引きずられる。


 だから逃げるように台所へ下りた。


 辺境の月見草は王都のものより香りが強い。乾かし方も違う。カモミールは少し少なめにして、代わりに寝つきではなく呼吸を深くする配合に寄せる。手が覚えている。誰のために作るのかを、頭で考える前に指が決めてしまうくらいには。


 そこまでやって、ようやく気づいた。


 私は今、カイ殿のために茶を作っている。


 おかしくて、少しだけ笑いそうになった。王都では、安眠茶は雑務だった。誰が飲むかより、何刻に出すか、どの濃さなら翌朝に響かないか、そういうことだけ考えていた。相手の顔を思い浮かべる必要なんてなかった。見てもいない人のために、正確に整えるだけで良かったから。


 けれど今夜は違う。眠れていない理由を、私は知っている。少なくとも一部は。王都の招聘状。父の条件。夫人へも同じ文面が行っているらしいこと。私が抱え込んだものが、いつの間にか彼の眠りまで削っている。


 茶を盆に載せて作業室へ向かう廊下は、やけに長かった。戻るなら今だ、と何度か思った。これは実務の差し入れだと言い訳もできる。そういう顔で入って、そういう顔で帰ればいい。けれど扉の前まで来ると、嘘の言い方だけが分からなくなる。


 控えめに叩くと、すぐに「どうぞ」と返った。


 机の上には書類が広がっていた。通行記録、供給表、乾燥庫の在庫札。それらの中央に、父の手紙の写しまで混ざっているのを見て、胸の奥が一段沈んだ。やはり私一人の問題ではなくなっている。分かっていたのに、目で見ると痛い。


「眠れないようでしたので」


 言えたのは、それだけだった。


 カイ殿は湯気の向こうで一瞬だけ目を細め、礼より先に、私の顔を見た。茶の温度より、その視線のほうが先に指先へ来る。差し出した手が、少し震えた。磁器の縁が小さく鳴る。その音が、今夜の私にはやけに大きかった。


 たぶん困るのは、茶を受け取られることではない。

 受け取られたあとに、私が何を言うかだった。


「……月見草の配合を少し変えました。辺境産のほうが香りが立つので」


 実務の顔で口を開いたのは、黙って渡すには手が震えすぎるからだ。


「分かります」


 彼が言った。


「前のより、今夜のほうが深く眠れそうです」


 前の。その一語が、喉に引っかかった。前の、というのは王都の安眠茶のことだ。あの茶が誰の手から来たか、この人はとうに知っている。そして今夜のものとを、ちゃんと比べている。見てもいない人のために整えていたあの5年間と、今夜の私とを、黙って並べている。


 部屋の空気が少し変わった。変わったのか、自分の中の何かが溶けたのか、区別がつかなかった。


「……カイ殿は、眠れていないのですか」


 問いながら自分でも驚いた。聞くつもりではなかった。


「ここ3日ほど、少し」


 正直に言った。嘘をつく必要を感じていない人の言い方だった。書類と向き合ったまま、手は止めない。


 私は父の写しを目で示した。


「……確認が必要でしたか」


「ええ」


「私が相談する前に」


 声に何かが滲んでいた。怒りかもしれない。安堵かもしれない。どちらとも言い切れないまま、彼はそこで初めて筆を置いた。


「すみません。先走りました」


 謝罪は素直だった。だから余計に、反論の仕方が分からなくなる。


「その件は、母も承知しています」


 一拍の後、彼は付け加えた。


 聞いた瞬間、胸の中で何かがずれた。音ではなく感覚だ。夫人まで。この家の中に、私の問題だけがひとり歩きしている。隠してきたわけでもないのに、自分で言う前に知られていることがこんなにも落ち着かないのは、なぜだろう。うまく言葉にできないまま、カップを持つ手に少しだけ力が入った。


「……左様でございますか」


「ミラベル嬢」


 名前で呼ばれると、どうしても一拍遅れる。


「一人で返答を整えようとしている、それは分かっています。邪魔をするつもりはない。ただ、私が知らないふりをするのは無理ですから」


 無理、という言葉が思ったより硬かった。


 私は何も言えなかった。礼を言うのも違う。待ってくださいも違う。だから黙ったまま、机の端に目を落とした。書類の脇に、小さく折られた紙が一枚。見慣れない筆跡だ。


「それは母への経緯報告です。父上の条件が夫人宛てにも届いている以上、私が黙っているほうが失礼になります」


 説明は正確だった。反論の場所を作らない正確さで。


「……ご迷惑をおかけしています」


「迷惑ではありません」


 言い切る速さだった。ためらいがない。その「ためらいのなさ」が、今夜の私にはうまく受け取れない。


 私は立ち上がった。盆を持ち直して扉へ向かう。これ以上ここにいると、今夜こそ言いすぎるか言えなすぎるか、どちらかになる。


「おやすみなさい」


「ええ」


 それで終わった。


 廊下は冷えていた。壁際の青い花が、灯りの中で色をなくしている。靴音が小さく鳴る。自分の足音が、今夜はやたら足もとに近い。


 返答は、まだ書けていない。


 カイ殿が先回りしたことへの怒りも、夫人が知っていることへの安堵も、どっちが上回っているか分からないまま、廊下の半ばで私は少しだけ足を止めた。


 5年間、私は誰かに報告する前に答えを用意してきた。承認だけをもらう形で生きてきた。それが迷惑をかけないことだと思っていたから。


 でも、カイ殿はすでに知っている。そして迷惑だと言わない。


 ならば今、私が一人で抱えているのは、いったい誰のためなのだろう。


 問いに答えが出ないまま部屋へ戻ると、机の上にはベルタが残した小片紙が一枚。


「頼るのと売り渡されるのは、別の単語です」


 彼女の字は大きくて、主張が強い。私はその紙を、破りかけた返答案の束の一番上に載せた。捨てなかったのは、答えがまだ出ないからだった。


 翌朝、家令から聞かされた。


 夫人宛てに、父の条件の写しではなく、正式な原文が届いていたと。

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