第16話 父の条件には、期日があった
父の条件には、期日があった。
それだけで、手紙はもう脅しの形をしていた。
昨夜は結局、眠りが浅かった。灯りを消した後も、王都の赤い封蝋だけが瞼の裏に残っていた気がする。だから朝一番で実家の封を切ったとき、驚きはしなかった。むしろ、やはり来たのだと思った。王都が必要だから呼び戻すなら、家は得をする形でそれを整えに来る。そういう家だった。
便箋は3枚。父の字は昔から無駄がない。情もまた、無駄として削ってきた人の字だった。
ミラベル。王都薬草管理顧問の打診については、家として好機と考える。マリエルの社交復帰も見据え、今は家内の整理を誤るべきではない。よって、10日以内に帰還し、当家を通じて宮廷と条件交渉に入ること。なお、辺境伯家との婚姻については、当方の承認を得るまで保留とする。期限を過ぎて独断で話を進めた場合、家名ならびに持参の実務支援は差し控える。
私はそこまで読んで、紙を机に置いた。
怒るより先に、文面の骨を数えてしまう。いつもの癖だ。要求。保留。期限。差し控える。娘へ書いた手紙というより、取引先への通知だった。けれど、そのほうがむしろ腹が立つ。父は、父親らしい言葉で踏み込まずに済む位置に立ったまま、必要な効きだけは全部取りにくる。
「……お嬢様」
ベルタの声が、珍しく低かった。
「10日、ですって」
「ええ。しかも婚姻承認まで条件に入れてきたわ」
言葉にした途端、胃のあたりが遅れて冷える。私はまだ婚姻していない。だから、家の論理が差し込む余地がある。それは分かっていた。分かっていたのに、こうして紙に書かれると、辺境で得た呼吸の深さが急に借り物みたいに感じられた。
窓の外では、乾燥棚を運ぶ音がしている。ここでは手が先に動く。誰が何を抱えているか、土と木箱と薬草で分かる。けれど父の手紙だけは、誰の手も汚さない顔で届く。
文末の追記に、さらに目が止まった。
――マリエルのためにも、今は感情で動くな。
私は笑いそうになった。感情で動いたことなど、この5年間に1度でもあっただろうか。名前を間違えられても、報告書を読まれなくても、婚約者に顔を見られなくても、私はいつも仕事の順番で動いてきた。その私に向かって、今さら感情で動くなと言うのだ。
「ずいぶん便利なお言葉ですね」
自分の声が、思ったより静かだった。静かなのに、喉の奥だけが焼けるみたいに痛い。
父はきっと、怒鳴られるよりこの声を嫌がる。
紙の上では、私はまだ動かせる娘のままだ。けれど、この文面を受け取った瞬間、もう一つだけはっきりしたことがある。ここで1人で返事を書けば、私はまた父の文章の中へ戻る。10日という期限より先に、その事実のほうが息苦しかった。
「頼るのと、売り渡されるのは別の単語です」
唐突に言ったのはベルタで、私は顔を上げた。彼女は便箋を指でつついて、少しだけ怒った目で私を見ていた。
「お嬢様が今考えてること、顔に出てますよ。誰かに話したら負けだって思ってるでしょう」
「……別に」
「別に、って顔の人は大抵別にじゃないんです。統計的事実として」
反論しようとして、やめた。ベルタは正しい。私はもう、話すべき相手を頭の中に置きながら、それを頼ることへの言い訳を先に並べていた。
「でも」
「でも、は後で。まず、1人で抱えたら向こうの思うつぼです」
思うつぼ。父の文面が使った言葉ではなかったけれど、構造は同じだ。私が1人で返答を作れば、その返答は父が用意した枠の中に収まる。静かに降参するか、感情で動くかのどちらかに。
ベルタが言いたいのはそういうことだった。そして私は、分かっていたのに、それを動けない理由にしようとしていた。
封筒の角を、指が無意識に撫でていた。薬草で荒れた指先だ。父が見たら眉をひそめるだろう。令嬢の手ではないと。そして、その手で今も辺境の棚を整えているのだと、彼は知らない。
私は立ち上がった。
答えを決めたわけではなかった。ただ、部屋の中だけで考えていると、文面の骨格が部屋ごと侵食してくる気がした。
外の空気を吸う必要があった。
家令室の前の廊下は、日当たりが悪く、午前でも薄暗い。棚板の軋む音と、乾いた木の匂いがする場所だ。辺境伯夫人は鍵束を手に、私が近づく前から気づいていた。振り返りもせず言った。
「読んだのね」
陳述だった。問いの形をしていない。私は1歩で止まった。
「……はい」
「中身は想像できます。あなたが10日、という顔をしているから」
夫人は書類箱の留め金を確認しながら、私の返事を待たなかった。手が止まることなく、ただ続けた。
「あなたが1人で抱える問題ではないとは言いません。向こうがそういう種類の文書を送ってきた以上、こちらもそれなりの形で受ける必要があります」
「夫人に、ご迷惑を――」
「迷惑という話をしに来たのではありません」
短く切られた。柔らかくはなかったが、拒絶でもなかった。夫人は初めて私を振り向いて、書類箱を小脇に抱えたまま言った。
「その手紙を、ここに預けていきなさい。判断は保留します。ただし、それを逃げにはしないこと」
逃げ。
正確だと思った。同時に、少し息が抜けた。これは甘やかしではなかった。審判官が、証拠をひとまず手元に置くときの顔だ。
私は手の中の封筒を差し出した。夫人はそれを受け取り、書類箱の上に置いて、また廊下を歩き始めた。振り返らなかった。
受け取ってもらった、と思った。庇護ではなく、継続審査として。それで十分だった。少なくとも今日は。
中庭には風がなかった。乾燥棚の影が長く伸びて、石畳の目地に沿って落ちている。カイ殿は通行記録の束を持ったまま、私に気づいて足を止めた。
「顔色が悪いです」
昨日も同じことを言われた気がして、少し可笑しくなった。
「よく言われます。今日は特に」
「父上の手紙を読んだのですね」
問いではなく確認だった。私はうなずいた。それだけで、彼の目の奥が少しだけ変わった。何かを先に計算している人間の、静かな顔だ。
「聞かせてもらえますか」
「……婚姻承認を、期日で区切ってきました。10日で帰還しなければ、家名も支援も差し控えると」
言葉にすると、冷えた事実が口の中に残った。カイ殿は記録束を両手に持ったまま、1拍だけ黙った。1拍は長い。
「分かりました」
それだけだった。それ以上でも以下でもない。「安心してください」でも「大丈夫です」でもなかった。彼が次に言ったのは、書類の話だった。
「神殿の婚姻記録に関して、確認すべき手順があります。明日、家令と合わせてもいいですか」
制度で返す気だ、と思った。怒りでも感情でもなく、書類と手順で。
嬉しかった。そして同時に、少し反発した。頼れば彼の庇護の中へ入る、という感覚が先にくる。宮廷でも、実家でも、私はいつも誰かの仕組みの中で動いてきた。ここでもそうなるのだろうか。
「一緒に考えることが、あなたへの重荷になるなら言ってください」
私が黙っていると、彼はそう付け足した。視線が1拍だけ落ちて、また戻ってくる。
「重荷では――」
「でも、何かが引っかかっている」
言い当てられると、かえって喉が詰まる。
「……頼れば、また誰かの都合で動かされる気がして」
「私の都合ではありません。あなたの名前の話です」
そう言った彼の声は、静かだった。低くて、少し硬くて、怒っているのでも励ましているのでもない。ただ、事実として置いてくる言い方だった。
風が1度だけ吹いて、乾燥棚の束が揺れた。私は封筒を渡した手を、前掛けの端で拭った。染みは取れない。染みは5年分ある。でも今日は、それが少しだけ自分のものに思えた。
夜、客室の机に便箋を広げた。
返答を書こうとして、1枚目を書き直した。2枚目は途中で止めた。書けば書くほど、父の言い方を引き写してしまう。家として。条件として。期限として。私が返したい言葉は、そういう形の外にあるはずなのに、1人でいると、いつも相手の論理の枠に引き込まれる。
3枚目を丸めて、灯りの横に置いた。
机の隅に、青い花が1輪だけあった。いつ誰が差したのか、私は知らなかった。ただ、見えないところに置いておく人間の心当たりが、今の私には1人だけいる。
破いた便箋の上に、その花の影が細く落ちていた。
父は私に感情で動くなと言った。カイ殿は一緒に考えると言った。夫人は逃げにするなと言った。みんなが正しくて、みんなの言葉が別の方向を向いていた。
私はどの言葉の形でも返答を書けないまま、灯りを細くした。
返答期限は10日。その半分も、心が持たない気がした。




