第15話 封蝋は、辺境の土に似合わない
王都の封蝋は、辺境の土にあまりにも似合わなかった。
朝の荷場には、乾いた草の匂いと、まだ冷えきらない木箱の温度がある。納品札を確かめ、検疫札の色を見て、採取係が土を払う。ここでは紙より先に手が動く。王都にいた頃は書類の山に埋もれていたのに、今は箱の角を持つたびに、自分が何のためにいるのかが指先で分かる気がした。
その感覚を、たった1つの赤い印が壊した。
「お嬢様。使者です」
ベルタが受け取った封筒を、持ちたくないものみたいに2本指で差し出してきた。王都の紋章が押された封蝋は、土の色の中で妙に湿って見える。濃い赤。宮廷の廊下で何度も見た色だ。あの色が机の上にあるだけで、息をする角度まで王都のものに戻される。
「……1通ではないのね」
「はい。下のほうはヘルダ家の印です」
上から、王都。下に、実家。嫌な順番だと思った。
左手の荒れた皮膚が急に意識に上がってくる。薬草の染みが残る手。王都では誰にも見られなかった手だ。辺境へ来てからはようやく仕事の痕に戻りつつあったのに、その赤い封蝋は、また別の意味を貼りに来た。
私は封に指をかけた。一瞬だけ、蝋の縁で止まる。止まったことに気づいて、いやだと思う。怖いのではない。ただ、開ければ昨日まで積み上げてきた辺境の重さが変わる気がして、それが惜しかった。
切る。
文面は驚くほど丁寧だった。宮廷薬草管理顧問として、ミラベル・ヘルダ嬢を招聘したい。王都薬草園の管理は想定以上に混乱し、辺境からの正式な苦情も積み重なり、早急な立て直しが必要である――。
必要である。
その1語だけで、胸のどこかが冷えた。
必要だから、今さら私の名前を探したのだ。婚約者だった王子は5年間、1度も正しく呼ばなかったのに。差出人欄の名も、備考欄の癖も、毎晩飲んでいた茶の配合も見なかったのに。
「顔色が悪いです」
低い声がして振り向くと、カイ殿が荷場の入口に立っていた。灰青の目が、文面より先に私の手元を見ている。
「大丈夫です。ただ、王都は困ったときだけ字が丁寧になるのだと分かっただけで」
「……見せていただいても」
問いではなく確認のような言い方だった。私は黙って招聘状を差し出す。彼は受け取り、1度だけ速く読んだ。速さが、文書の危険度を言っていた。速ければ速いほど、読む前から答えが見えている人の読み方だ。
「薬草管理の綻びについては、辺境側の取引記録に記載があります。この書面だけで動くつもりはないでしょうが、来た、という事実そのものが圧力になります」
「ええ。でも私のほうが先に、少し嬉しいと思ってしまいました。必要とされることに」
自分でも驚くくらい、すんなり出た言葉だった。嘘ではない。5年間、書類の端で作り続けた報告書が誰にも読まれなかったから、機能としてであれ、今さらであれ、ようやく届いたという感触は確かにあった。
「……必要だからと書かれるのは、もう慣れているはずでした。でも、慣れたくはなかったのです」
そう続けた自分の声が少し掠れた。カイ殿はしばらく何も言わなかった。言わないまま、招聘状を折り直して私へ返した。折り目に指を置いた一拍が、妙に長かった。
「もう1通は」
「……まだ開けていません」
手元に残るヘルダ家の封筒を見る。家印の蝋は王都より小さく、色も薄い。なのに今日は、こちらのほうが重い。予測がつく手紙は、開ける前から疲れさせる。
「封蝋の赤って、だいたいろくでもないんですよね」
ベルタが後ろから言った。思わず振り向くと、本気の顔でうなずいている。
「半分だけ正しいわ」
「半分?」
「色は関係ないもの。中身がろくでもないのよ」
ベルタがうーん、と唸った。それでもやはり、封蝋の赤が嫌いな顔をしていた。
その日の午後、乾燥庫の前でアウラを見かけた。彼女は採取係と保管棚の確認をしているところで、私が廊下を通るとき、一瞬だけ目が合った。封筒がまだ手の中にあるのを見たのだと思う。
「王都からの使いが来たと聞きました。よほどお困りなのですね、あちらも」
さらりと言って、すぐ視線を棚へ戻した。揶揄でもなく、慰めでもなく、現場で情報を確認するような声だった。
私は「ええ」とだけ答えた。それ以外の言葉は持っていなかった。
乾燥庫を離れながら、背中のあたりに残った。ろくでもない赤は、こうして辺境の人間の目にも届くのだ。
夕暮れの廊下で、カイ殿と行き合った。
「顔色が、朝よりは戻っています」
「そうですか。自分では分かりませんでした」
「父上の手紙は」
指先が、手の中の封筒を少し強く握った。
「今夜、開けます。先送りにすると頭の中で最悪の文面を補い始めるので」
カイ殿は少しだけ黙って、灰青の目を1度だけ私の手元へ落とした。それから、言った。
「今夜でなくてもいい、とは言いません。ただ、読んだあとに1人で返事を考える必要はありません」
優しい言い方だった。優しいから、少しだけ困る。1人で整理するつもりでいた場所を、先に確保してもらったみたいで、断る理由もないのに、素直に頷きたくない自分がいる。
「……左様でございますか」
とだけ返した。カイ殿は何も言わなかった。言わないまま先を行く背中が、腹立たしいくらい、落ち着いていた。
客室の灯りを絞って、机の前に座った。封筒を立てかけて、眺める。家印の蝋が1つ。ここから先は父の言葉だ。
小鋏を取る。
封の端を切る音が、静かな部屋に細く走る。便箋を広げる前に一拍だけ吸う。それが癖になっているのは、吸ってから読むほうが、最初の行をゆっくり受け取れるからだ。
便箋は3枚。父の字は昔から無駄がない。情もまた、無駄として削ってきた人の字だった。
ミラベル。王都薬草管理顧問の打診については、家として好機と考える。よって、10日以内に帰還し、当家を通じて宮廷と条件交渉に入ること。なお、辺境伯家との婚姻については、当方の承認を得るまで保留とする。期限を過ぎて独断で話を進めた場合、家名ならびに持参の実務支援は差し控える――
私はそこで1度、紙から目を離した。
窓の外で風が木の葉を鳴らした。それだけが音をしていた。
怒るより先に、文面の骨を数えてしまう。いつもの癖だ。要求。保留。期限。差し控える。娘へ書いた手紙というより、取引先への通知だった。父は、父親らしい言葉で踏み込まずに済む位置に立ったまま、必要な効きだけ全部取りにくる。
――10日。
それだけで、手紙はもう脅しの形をしていた。




