第14話 10日で間に合わせる
返答期限は、10日後だった。
王都からの封書は2通目で、最初のものより文面が硬かった。宮廷薬務局、医務室、侍医局に加え、今度は王家の内務印まで添えられている。要するに、放っておくなということだ。辺境に残したままでもいいが、返事は寄こせ。できれば来い。できれば今すぐ。文面は丁寧なのに、息苦しいほど急いている。
私は応接間の椅子に座ったまま、10日という数字だけを眺めていた。
10日あれば何ができるだろう。
解熱草の残量を書き直す。供給路の空白を洗う。代替薬をもう一段安定させる。患者の熱を下げる。夫人に結果を出す。辺境に残る理由を作る。
そしてたぶん、王都が今さら必要としてきた自分の名前と向き合う。
「長いですか。短いですか」
辺境伯夫人が訊いた。
唐突な問いに見えて、実は逃げ道のない問いだった。仕事として見るなら10日は短い。感情として見るなら、決めるには長いのかもしれない。
「仕事には短いです」
私は答えた。
「ですが、何も決められない長さではありません」
夫人は私を見た。初めて値踏みではなく、返答を受ける側の目だった。
「では10日で見せなさい。こちらに残る価値も、戻らない理由も」
胸の奥で何かがきしんだ。
それは圧であり、同時に承認でもあった。昨日までの私は「試されている人」だった。けれど今の言葉は違う。もう数に入れられている。いてもいなくても同じ人間には、こういう言い方はしない。
部屋を出ると、廊下の向こうにカイがいた。封書を見た顔をしている。私が何か言う前に、彼は1歩だけ近づいた。
「10日で足りるようにします」
「何がですか」
問うたのに、彼は答えなかった。答えられなかったのかもしれない。封書を握る指にだけ、はっきり力が入っている。
足りるようにする。
薬か。供給か。説得か。あるいは、もっと別の何かか。
窓の外では、朝の風に青い花が揺れていた。
残りたいと思った。
その気持ちが仕事だけではなくなり始めていることに、気づかないふりはもう難しかった。
廊下に残ったのは、私とカイ、それから言い損なった言葉だけだった。
問い返そうかと思った。けれど彼がきちんと答えるつもりなら、最初から答えている。
「配合表を、午後までに出します」
やっと口から出てきたのは仕事の話だった。我ながら、と思う。
「分かりました」
カイは頷いた。普通の返事なのに、少しだけ声が低い。
「夕方に確認します」
それだけ言って、彼は廊下を折れた。封書を持ったまま、姿が見えなくなるまで私は動けなかった。
昼を過ぎた頃、アウラ嬢が供給路図の写しを作業場に持ってきた。腕を組んだまま、前置きはない。
「北の道が今週中にもう1本、通れなくなります」
「雪ですか」
「凍結です。今年は解けるのが早かった分、夜に締め直される。ぬかるんで固まった道は、通れる道ではありません」
私は図の上に指を置いた。昨日と同じ村を示す線が、今日は細く見えた。
「そこへ回す荷は先に振り替えるべきですね。代替薬の材料から3村ぶん確保できていれば、北を先にできます」
「ええ」
アウラ嬢は短く言った。刺々しくない。それが逆に不安だった。彼女が棘を引っ込めているとき、状況が限界に近いのだと分かってきた。
「封書は読みましたか」
視線を上げると、アウラ嬢がこちらを見ていた。
「読みました」
「返答は」
「まだです」
1拍の沈黙があった。
「辺境は、いてくれる人間しか当てにできません」
言い方は平らだった。責めてもいない、励ましてもいない。ただ事実だけが残る。
それが余計に刺さった。正しいから刺さる。反論できないから刺さる。
「ええ」
私は正面から受けた。
「だから10日で出します。結果を」
アウラ嬢は何も言わなかった。ただ供給路図の空白を指先で押さえ、視線を外した。到着印はあるのに荷がない区間が、また1本増えていた。
同じ場所を見ているのに、見ている意味が違う。彼女にとっては土地の論理、私にとっては記録の歪み。そのどちらでもある答えを、1人だけが知っているかもしれなかった。今はそれを考えないことにした。
配合表を仕上げたのは、夕方の灯りが必要になった頃だった。
カイが来て、受け取り、黙って読む。私は自分の手の甲を見ていた。乾燥草を触り続けた今日で、昨日よりまた指の節の裂け目が1つ増えている。
「問題ありません。調整点がいくつかあります。聞きますか」
「はい」
短いやり取りの中に、昨日までと少し違う何かがある。言葉のことではなく、距離のことだ。空気が1枚、剥がれた気がした。気のせいかもしれない。そうであってほしいと思いながら、そうでないとも感じている。
ベルタが茶を持ってきて、机の端に置いた。カイが礼を言う前に、彼女は「1つだけよろしいですか」と言った。
「よろしくないです」
「お嬢様の意見は聞いていません。カイ様」
「……なんですか」
「10日で返答しなければならないということは、10日の猶予があるということですよね。そう考えると、期限って恋にも使えるんですね」
私は口を開きかけた。カイのほうが先に口を閉じた。ベルタが澄ました顔で前掛けを直す。
「退室します、ベルタさん」
「させませんよ。茶が冷めるまでの時間は、まだ残りますから」
それでもベルタは茶が冷める前に席を外した。残った沈黙は重くなかった。むしろ静かで、窓の外の夜の音だけがある。
夜が来た。
ベルタが眠った後、私は窓辺の小机へ帳面を開いた。カイが調整した配合表の数字と、供給路の残日数と、代替薬の現在在庫。数字を並べるのが癖になっている。名前を間違えられた回数を数えていた頃から、そうだ。数えると、少し怖くなくなる。
筆先を墨に浸して、まず書いた。
10日。
その2字だけ、なぜか少し濃くなった。後から気づいた。書き終えて、筆がその字の上で一瞬だけ止まっていた。力んだのではない。止まっていたのだ。
解熱草の残量を書き足す。供給路の閉鎖予定を書く。代替薬の安定まであと3配合。村で咳が出ている家の数。
帳面の端に空白が残った。書こうとして止まる。書くべき言葉は分かっている。残るか、戻るか。どちらかを書けば、数字として固まる。数字になった途端、それは選択だ。
私は筆を置いた。
窓の外、夜の草の中に青い花が薄く揺れていた。辺境の夜風は王都よりずっと冷たいのに、今は寒いと思わなかった。
返答期限ではなく、回収期限のつもりでしょう。
頭の中でそう言い返した。王都は困っているから呼んでいる。名前を知ったから呼んでいるのではない。5年前から変わらない。変わったのは、今ここに「呼ばれる前から、名前を知っていた人」がいることだ。
10日で間に合わせるのは薬だけですか。
それとも――。
問いが形をなす前に、風が青い花を揺らした。
帳面を閉じた。10日という数字が、夜の中でまだ濃く残っていた。




