第13話 届かなかった理由
足りないのは、薬草だけではなかった。
朝一番に広げられた供給路図の前で、私はそれをようやく認めた。紙の上には村の名と道筋と荷の流れが整然と書かれている。けれど、現場で見た空箱の数と、ここに載っている到着印の数が合わない。届いたことになっている荷が、届いていない。畑は死んでいない。乾燥庫も全部が腐っているわけではない。ならば、不足を作っているのは天候だけではない。
「この道は冬場、半分潰れます」
向かいから言ったのはアウラ嬢だった。腕を組み、地図の端を指先で押さえている。昨日まではただ棘のある人だと思っていたのに、地図の前に立つと、その棘の多くが土地勘から来ているのだと分かる。
「だから村医者へ回る荷より、邸の備蓄が先になる。そうしないと、中心が先に崩れます」
「でも現実には、邸にも足りていません」
「ええ。だから私は、単純な不作ではないと言っているのです」
言い方は少しも優しくない。けれど、言っていることは正しい。
私は地図の別の箇所を指した。ほとんど同時に、アウラ嬢の指もそこへ伸びていた。触れはしない。でも、近かった。ベルタが後ろで小さく「あっ」と息を呑んだ。何に対しての「あっ」なのか、今は考えないことにした。
「到着印の時刻が早すぎます」
私は言った。
「この距離なら、雪解け後でも半日はかかるはずです。なのに、同じ朝の印が3村ぶん並んでいる」
家令が眉を寄せる。アウラ嬢の目だけが細くなった。
「あなた、そこまで見るのですね」
「見る仕事でしたので」
「王都では、ですか」
「ええ。見てもらえませんでしたけれど」
その一言だけ、自分で思ったより冷たく出た。
アウラ嬢は何も言わなかった。ただもう一度、地図の空白を見た。私も見た。同じ場所を見ているのに、見ている意味は少し違う。彼女にとっては土地の論理、私にとっては記録の歪み。どちらも正しくて、だからこそ、そこへの到達が重なった。
「この村が、去年まで一番早かった」
しばらく沈黙した後で、アウラ嬢が言った。
「今年になって、報告が遅れ始めた。最初は雪だと思っていました。でも、雪解けの後も同じでした」
「それを夫人には」
「言いました。ただ、証拠がなかった」
家令が帳簿を繰る音が、やけに大きく聞こえた。
「……担当が変わったのは、一昨年の秋です。先代の荷担人が病を得まして」
「名前を確認させてもらえますか」
自分でも驚くほど静かな声だった。怒っているのかもしれない。いや、違う。怒りより先に、冷えている。数字が合わない理由に、人の顔が混じりかけているからだ。
家令が名前を言った。私はそれを帳面の端に控えた。アウラ嬢は腕を組んだまま、私の手元を見ていた。値踏みとは少し違う目だった。
「……この土地では、届かなかった薬は『なかった』ことになります」
静かに言って、アウラ嬢は地図から手を引いた。
「それだけです」
その言い方だけが、さっきと少し違った。棘がなかった。棘を抜いた人間の声だった。
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中庭は風が通っていた。
供給路図の部屋を出ると、カイが縁石のそばに立っていた。さっきまでここにいなかったはずなのに、待っていたような顔をしている。向かいから来ると分かっていたような、そういう佇まいだ。
「何か分かりましたか」
「到着印の時刻が不自然です。担当者の交代時期とも重なっています」
カイは一拍置いた。
「報告します」
「あなた自身は、どう思いますか」
問い返したのは少し意地悪だったかもしれない。でも聞きたかった。アウラ嬢の言葉が頭に残っていたからだ。届かなかった薬は、なかったことになる。ならば、なかったことにした側には主語がある。カイはそのことをどう見ているのか。
「薬草園の必要性は、不足だけではありません」
ゆっくりと言い始めて、カイが止まった。
喉の奥で何かが、一度だけ固く鳴った。
止まると分かった。これはまた止まる、と思いながらも、止まってほしくなかった。昨日の夜と今朝の間に何かが変わった気がしていた。そう思うのは私の都合だと分かっていた。それでも、止まらないでほしかった。
「信じないのではありません」
私は言った。できるだけ穏やかに。でも穏やかにするのが少しだけ難しかった。
「分からないまま頷きたくないだけです」
乾燥札が風に揺れた。カイは目を一度だけ下へ落とした。懐へ手が動く。中に何か入っているのかもしれない。いつもそういう仕草をする。初めて気づいたのはいつだったか。
「今は言えません」
「理由は」
「……言えません」
その繰り返しが、言えない理由がある、ということの証拠だった。
追わなかった。追えば、壊れる何かがある気がしたからだ。仕事の話として続けなければならない。そう決めた。決めなければ混乱する。
「では、分かる範囲で教えてください。供給路に人為の可能性がある場合、どこへ先に当たりますか」
一瞬、カイの表情が動いた。そこへ逃げるのか、という顔だったかもしれない。逃げる、という言い方は失礼だ。でもそう見えた。
「荷担人の記録と中継点の台帳を突き合わせます。それと、検疫札の発行元を確認する必要があります」
「ありがとうございます」
「……礼を言うことではありません」
「いいえ」
私はそこで止まった。言いかけた言葉を飲んだ。『あなたが言えないなら私が掘る』は、言わなくていい。言えば、距離が開く。今は開かせたくない。
なぜそう思うのかは、考えなかった。
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荷受け場には夕方の光が斜めに差していた。
「お嬢様、そっちの棚も見ますか」
ベルタが帳簿を開けたまま首を伸ばす。私は返事をしながら、受取確認欄を指でなぞった。
3村ぶんの印が、同じ行に並んでいる。日付は違う。でも筆圧が同じだ。書いた人間が同じか、あるいは書いた日が同じか。いずれにしても、この距離を同じ朝に確認できるのは物理的におかしい。
「……同じ人が書いています」
声に出したのは、自分への確認だった。
「え」
「この受取欄。3か所とも、筆の入り方が同じです」
ベルタが覗き込む。
「あー……言われてみれば。これって、もしかして」
「まだ断言はできません」
言いながら、別の棚の台帳を引き出した。前年の分だ。担当者が変わる前の記録。筆跡が違う。丁寧だが、少しだけ癖がある。今年の欄の均一な字体とは別の手だ。
つまり、担当者の交代後から印の整合が崩れ始めた。
ベルタが小声になった。
「お嬢様、これって恋より怖いやつですよね」
「恋より怖いものは、そんなにないと思うけれど」
「……なんですか今の」
ベルタが言いかけて、口を閉じた。珍しい。ベルタが言葉を飲むのは、本当に心配なときだけだ。
「大丈夫ですか」
「仕事の話をしています」
「仕事の話は、さっきのカイ様との中庭の件を含みますか」
帳簿を閉じる音が、思ったより大きくなった。
「含みません」
「でも、お嬢様の顔に含まれています」
私は帳簿を棚に戻した。ベルタは続けなかった。それだけで、十分だった。
夕方の光の中に、半分剥がれた荷札がある。風が吹くたびにめくれる端が、さっきから気になっていた。引っ張れば剥がれる。でも、剥がしたらそこにあった記録が消える。誰かがあるものを消したくて、剥がしかけたまま止まったのかもしれない。
「今夜中に報告を整えます。夫人へ出します」
「はい」
「アウラ嬢にも、一度確認を取るべきかもしれません」
自分で言って、少しだけ意外だった。半日前なら、言えなかった言葉だ。でも、地図の前で同じ場所を同時に指した人は、少なくともこの土地の論理を持っている。憎まれ口よりも土地勘を取るのは、仕事の話だ。
仕事の話だと決めれば、少し楽になる。
そのことが、また少しだけ痛かった。
帳面に、担当者の名前を書いた。その下に中継点の名前を書いた。さらにその下に、確認すべき台帳の種類を書いた。書けば書くほど、見えてくる。不足は天候ではなく、優先順位だ。優先順位には主語がある。主語には顔がある。
その顔を特定する前に、王都のほうが先に期限を置いてきた。
帳面の最後の1行の下に、もう1行だけ書いた。10日、と。その数字だけが、筆跡の中でひとつだけ濃くなった。




