第12話 夜の薬草園で、また指先が触れた
その夜、私の左手は血のにじむ寸前まで荒れていた。
乾いた束と湿った束を選り分ける作業を、昼からずっと続けていたせいだ。葉脈を確かめ、粉落ちを見て、香りの抜けを比べる。王都でも似たような作業はした。けれど辺境の草は繊維が硬く、寒さを含んでいて、少し無理をすればすぐ指先を裂く。親指の付け根が熱を持っているのに気づいたのは、束を吊るす紐が、そこだけやけに滑ったからだった。
「まだ続けるんですか」
声がして振り返ると、カイが立っていた。片手に小さな陶器の壺。もう片方の手には、青い花が1輪だけある。夜露を含んだ花弁が、灯りの下で妙に淡く見えた。
「在庫が足りませんので」
「そういう答えをされると思いました」
呆れたように言ったくせに、声音は柔らかい。私は少しだけ視線を逸らした。青い花のほうへ、つい目が行く。
殿下の部屋に添えていた、あの色と似ていた。
カイは作業台の脇へ壺を置いた。
「軟膏です。辺境の乾燥草に合わせたものを」
「……準備がよろしいのですね」
「眠れない夜に、余計なことばかり思いつくもので」
それはたぶん、冗談のふりをした本音だった。
私は壺を取ろうとした。けれど先に、カイの指が私の手首に触れた。
「貸してください」
断るべきかと思った。荒れた手など、見せて得をするものではない。王都ではずっと、姉様の白い手と比べられる側だったから、なおさらだ。
でも、引けなかった。
前と同じだ。前と同じはずなのに、違う。触れたあと、離れるまでの時間が、少しだけ長くなっている。
カイは慎重に軟膏を塗った。ひび割れた皮膚へ冷たい感触が広がる。痛みより先に、肩から力が抜けていくのが分かった。
「働いた手です」
彼が低く言った。
「隠すようなものではありません」
その言葉のせいで、私は返事に困った。そういうことを言われると、傷が傷ではなくなる。5年分の手荒れが、ただの見苦しさではなくなる。
ベルタが顔を出して1言だけ置いていった。
「薬ですか、口実ですか」
「ベルタ」
「退散します」
扉が閉まり、また2人きりになった。
窓の外の夜は静かだった。静かなのに、指先の熱だけは妙に近い。私は花へ視線を戻した。
「その青い花、どうして」
「あなたが、誰のために青を選ぶ人か知っているからです」
胸の奥で何かが、また1度だけ跳ねた。
薬より先に効くものがあるのだとしたら、それはたぶん、こういう沈黙だった。
しばらく後、作業台の束はなくなっていた。
「少し外の空気を」
カイが言った。命令ではなく、提案でもなく、ただ置かれた言葉だった。私は小鋏を帳面の脇に置いて、頷いた。
薬草園の小道は暗い。月が出ているぶん、廊下よりずっと白く見えた。冬の終わりの夜気は冷たく、それでも日中の泥と草の匂いがまだ残っている。前を行くカイの背中だけを目で追いながら、2、3歩遅れて歩いた。急ぐ必要はなかった。急ぎたい気持ちが、なかったわけでもないけれど。
彼は畝の端で立ち止まり、指先を伸ばした。
青い花だった。夜露で重くなった、小さな青。
「エルンスト様に添えていたのですね、この色を」
問いの形ではなかった。私は足を止めた。
「……よくご存知ですね」
「あの方が好みだと聞いたことがあります。どこで聞いたかは」
少し間があった。
「宮廷の記録ではありません」
では、どこで。聞き返す前に、それ以上を知りたいような、知りたくないような感覚が来た。
「好みだから青を選ぶのではないと、最初に思いました」
カイが花を指先で1度だけ回した。
「届ける相手の顔を思い浮かべながら選ぶ人だということは、薬草園で初めてお目にかかったときから分かっていました」
「……それが分かって、どうなさいますか」
「どうもしません」
視線が横から来た。正面ではなく、花を見たまま。
「ただ知っておきたかった。あなたが何を見て、何を選ぶのかを」
胸の奥で何かが静かに溶けた。傷ではない。でも傷に似た感覚だった。こういう理解のされ方には、まだ耐性がない。
嬉しいか、と問われたら嬉しい。でも嬉しさより先に、怖い。知られているということは、知られた分だけ失える、ということだから。
私は夜空へ目を逃がした。
「眠れない夜が多いのですね」
「最近は、特に」
「……辺境の素材で安眠茶の配合を変えれば、少し変わるかもしれません」
言いながら、仕事の話に逃げていると分かった。でも手はすでに、作業室の棚の位置を思い浮かべていた。王都の茶葉とは成分が違う。2軍の薬草だけれど、辺境の乾いた空気には合うはずだ。
「ためしてみますか」
「……試させてもらえるのですか」
「問うような聞き方をしないでください」
つい刺のある言い方になった。でも彼は笑わなかった。月明かりの下で、耳の端がわずかに赤い。
「はい。ありがとうございます」
作業室に戻り、茶葉を量りながら、私はなぜか王都のことを考えていた。
殿下が毎晩飲んでいた安眠茶。私が配合して棚に置いて、誰の手から来たかも知らずに消えていった茶。あれは雑務だった。感謝されるためでも、誰かに見せるためでもなく、ただ習慣として作り続けていたものだ。
でも今、湯を注いで香りを確かめながら、少しだけ違うと思った。
受け取る顔が、見える。
茶碗を差し出すと、カイは両手で受け取った。1拍、何か言おうとして、止めた気配がした。代わりに息を1度吐いて、口をつけた。私は自分の分は作らなかった。その代わり、吊り終えていなかった束を手に取った。
作業しながら、隣で茶を飲む気配がある。それだけで、夜が少し静かでなくなる。
良い、と思った。同時に、危うい、とも思った。
仕事の共有と、こういう沈黙の共有は、別のものだ。前者は言い訳になるけれど、後者はならない。今夜の自分がどちらへ傾いているか、正直に問えば答えは出てしまう。
私は束を吊るす手を動かしながら、先に口を開いた。
「辺境の薬草園が必要な理由は、不足だけではないとおっしゃっていましたね」
空気が微かに止まった。茶碗を持つ指に、1拍だけ力が入った気がした。
「今は」
「今は?」
「今は仕事の話をします。そうしないと、たぶん言い過ぎます」
聞いた意味のない答えだった。でも、答え方の形から何かが見えた。
言いたいことがある。でも今ではないと判断している。隠しているのではなく、順序を選んでいる。その違いに気づいた瞬間、苛立ちではなくなった。代わりに入ってきたのは、やはり少し怖い感覚だった。知りたい。でも知ったら、続きが来る。続きを受け取れる準備が、まだ自分にあるかどうか分からない。
窓の外で、風に青い花が揺れた。
薬以外の何かが、辺境を動かしている気がした。
そしてそれは、供給路や台帳だけの話では、たぶんないのだ、と今夜初めて思った。




