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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第3章 解熱草が尽きる前に、代替薬が間に合うか——

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第12話 夜の薬草園で、また指先が触れた

 その夜、私の左手は血のにじむ寸前まで荒れていた。


 乾いた束と湿った束を選り分ける作業を、昼からずっと続けていたせいだ。葉脈を確かめ、粉落ちを見て、香りの抜けを比べる。王都でも似たような作業はした。けれど辺境の草は繊維が硬く、寒さを含んでいて、少し無理をすればすぐ指先を裂く。親指の付け根が熱を持っているのに気づいたのは、束を吊るす紐が、そこだけやけに滑ったからだった。


「まだ続けるんですか」


 声がして振り返ると、カイが立っていた。片手に小さな陶器の壺。もう片方の手には、青い花が1輪だけある。夜露を含んだ花弁が、灯りの下で妙に淡く見えた。


「在庫が足りませんので」


「そういう答えをされると思いました」


 呆れたように言ったくせに、声音は柔らかい。私は少しだけ視線を逸らした。青い花のほうへ、つい目が行く。

 殿下の部屋に添えていた、あの色と似ていた。


 カイは作業台の脇へ壺を置いた。


「軟膏です。辺境の乾燥草に合わせたものを」


「……準備がよろしいのですね」


「眠れない夜に、余計なことばかり思いつくもので」


 それはたぶん、冗談のふりをした本音だった。


 私は壺を取ろうとした。けれど先に、カイの指が私の手首に触れた。


「貸してください」


 断るべきかと思った。荒れた手など、見せて得をするものではない。王都ではずっと、姉様の白い手と比べられる側だったから、なおさらだ。

 でも、引けなかった。

 前と同じだ。前と同じはずなのに、違う。触れたあと、離れるまでの時間が、少しだけ長くなっている。


 カイは慎重に軟膏を塗った。ひび割れた皮膚へ冷たい感触が広がる。痛みより先に、肩から力が抜けていくのが分かった。


「働いた手です」


 彼が低く言った。


「隠すようなものではありません」


 その言葉のせいで、私は返事に困った。そういうことを言われると、傷が傷ではなくなる。5年分の手荒れが、ただの見苦しさではなくなる。


 ベルタが顔を出して1言だけ置いていった。


「薬ですか、口実ですか」


「ベルタ」


「退散します」


 扉が閉まり、また2人きりになった。

 窓の外の夜は静かだった。静かなのに、指先の熱だけは妙に近い。私は花へ視線を戻した。


「その青い花、どうして」


「あなたが、誰のために青を選ぶ人か知っているからです」


 胸の奥で何かが、また1度だけ跳ねた。


 薬より先に効くものがあるのだとしたら、それはたぶん、こういう沈黙だった。


 


 しばらく後、作業台の束はなくなっていた。


「少し外の空気を」


 カイが言った。命令ではなく、提案でもなく、ただ置かれた言葉だった。私は小鋏を帳面の脇に置いて、頷いた。


 薬草園の小道は暗い。月が出ているぶん、廊下よりずっと白く見えた。冬の終わりの夜気は冷たく、それでも日中の泥と草の匂いがまだ残っている。前を行くカイの背中だけを目で追いながら、2、3歩遅れて歩いた。急ぐ必要はなかった。急ぎたい気持ちが、なかったわけでもないけれど。


 彼は畝の端で立ち止まり、指先を伸ばした。

 青い花だった。夜露で重くなった、小さな青。


「エルンスト様に添えていたのですね、この色を」


 問いの形ではなかった。私は足を止めた。


「……よくご存知ですね」


「あの方が好みだと聞いたことがあります。どこで聞いたかは」


 少し間があった。


「宮廷の記録ではありません」


 では、どこで。聞き返す前に、それ以上を知りたいような、知りたくないような感覚が来た。


「好みだから青を選ぶのではないと、最初に思いました」


 カイが花を指先で1度だけ回した。


「届ける相手の顔を思い浮かべながら選ぶ人だということは、薬草園で初めてお目にかかったときから分かっていました」


「……それが分かって、どうなさいますか」


「どうもしません」


 視線が横から来た。正面ではなく、花を見たまま。


「ただ知っておきたかった。あなたが何を見て、何を選ぶのかを」


 胸の奥で何かが静かに溶けた。傷ではない。でも傷に似た感覚だった。こういう理解のされ方には、まだ耐性がない。


 嬉しいか、と問われたら嬉しい。でも嬉しさより先に、怖い。知られているということは、知られた分だけ失える、ということだから。


 私は夜空へ目を逃がした。


「眠れない夜が多いのですね」


「最近は、特に」


「……辺境の素材で安眠茶の配合を変えれば、少し変わるかもしれません」


 言いながら、仕事の話に逃げていると分かった。でも手はすでに、作業室の棚の位置を思い浮かべていた。王都の茶葉とは成分が違う。2軍の薬草だけれど、辺境の乾いた空気には合うはずだ。


「ためしてみますか」


「……試させてもらえるのですか」


「問うような聞き方をしないでください」


 つい刺のある言い方になった。でも彼は笑わなかった。月明かりの下で、耳の端がわずかに赤い。


「はい。ありがとうございます」


 


 作業室に戻り、茶葉を量りながら、私はなぜか王都のことを考えていた。


 殿下が毎晩飲んでいた安眠茶。私が配合して棚に置いて、誰の手から来たかも知らずに消えていった茶。あれは雑務だった。感謝されるためでも、誰かに見せるためでもなく、ただ習慣として作り続けていたものだ。


 でも今、湯を注いで香りを確かめながら、少しだけ違うと思った。

 受け取る顔が、見える。


 茶碗を差し出すと、カイは両手で受け取った。1拍、何か言おうとして、止めた気配がした。代わりに息を1度吐いて、口をつけた。私は自分の分は作らなかった。その代わり、吊り終えていなかった束を手に取った。


 作業しながら、隣で茶を飲む気配がある。それだけで、夜が少し静かでなくなる。

 良い、と思った。同時に、危うい、とも思った。


 仕事の共有と、こういう沈黙の共有は、別のものだ。前者は言い訳になるけれど、後者はならない。今夜の自分がどちらへ傾いているか、正直に問えば答えは出てしまう。


 私は束を吊るす手を動かしながら、先に口を開いた。


「辺境の薬草園が必要な理由は、不足だけではないとおっしゃっていましたね」


 空気が微かに止まった。茶碗を持つ指に、1拍だけ力が入った気がした。


「今は」


「今は?」


「今は仕事の話をします。そうしないと、たぶん言い過ぎます」


 聞いた意味のない答えだった。でも、答え方の形から何かが見えた。


 言いたいことがある。でも今ではないと判断している。隠しているのではなく、順序を選んでいる。その違いに気づいた瞬間、苛立ちではなくなった。代わりに入ってきたのは、やはり少し怖い感覚だった。知りたい。でも知ったら、続きが来る。続きを受け取れる準備が、まだ自分にあるかどうか分からない。


 窓の外で、風に青い花が揺れた。

 薬以外の何かが、辺境を動かしている気がした。

 そしてそれは、供給路や台帳だけの話では、たぶんないのだ、と今夜初めて思った。


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