第11話 呼び戻す文面に、ようやく私の名前が書いてあった
5年かけて積み上げたものが、1か月で崩れた。
それは、誰かが感情的に吐いた誇張ではなく、王都の役所印が押された文面に並んでいた事実だった。解熱草の誤投薬。乾燥庫の黴。後任の読んでいない引き継ぎ書類。外交茶会での正式苦情。薬務局、医務室、侍医局の連名。文章は乾いているのに、読んでいるこちらの手だけがじわじわ熱くなる。
応接間の窓は閉じられていた。外は晴れているはずなのに、室内だけ薄暗く見える。
私は2枚目の紙へ視線を落とした。顧問招聘。辺境滞在中であることは承知の上で、至急の返答を求む。そこには、たしかに私の名前が書いてあった。
ミラベル・ヘルダ嬢。
5年間、差出人欄にあっても誰も読まなかった名が、今は呼び戻すための文面に整っている。少し可笑しい。少しだけではなく、かなり可笑しい。けれど笑えなかった。
「……ずいぶん都合のよい話ですね」
そう言ったのはベルタだった。私ではない。私はまだ、文字を追うのに手一杯だった。王都が困っている。ようやく困った。因果としては美しい。読者ならきっと気持ちいい場面だ。けれど当事者の胸の内は、そんなふうには整わない。
困るくらいなら、最初から見ていればよかったではありませんか。
そんな言葉が喉元まで上がって、出てこない。遅すぎる、という感覚だけが、紙の上の文面よりはっきりしていた。
カイが向かいで封書の控えを見ていた。指先に無駄な力が入っている。普段なら机の端に揃えられる紙が、今日は少しだけずれていた。
「王都医務室まで連名に入っています。穴埋めでは済まなくなったのでしょう」
「戻れと書いてあるわけではありません」
「書いていなくても、そういう意味です」
静かな声だった。静かなままなのに、怒っているのが分かった。
私は紙を置いた。
「5年分の仕事が、1か月で壊れたそうです」
自分で言ってから、ひどく他人事のように聞こえた。
「……嬉しくありませんか」
ベルタが聞いた。あまりに正直な問いで、少しだけ救われる。
「嬉しいのかもしれないわ」
答えながら、私は窓の向こうを見た。
「でも、それで5年が戻るわけではないもの」
紙の上にようやく書かれた自分の名前が、少しも軽くなかった。
封書はまだ1枚残っていた。カイが先にそれを滑らせて、私の前に置く。動きに荒さはない。でも、いつもの彼より半拍だけ早い。
3枚目の紙には、外交使節団からの正式苦情書の写しが添えてあった。来訪者を迎えた席で提供されたカモミール茶。腸を傷めた使節、1名。殿下の体面を傷つけた薬草管理の欠陥、という文章。
私は読み進める手を1度だけ止めた。
カモミール。去年の秋、私は収穫月の配合変更を備考に書いた。気温差による揮発の偏りがあるため、保存前に1度撹拌を要す、と。その備考は、読まれていなかったのだろう。
「後任が、撹拌の手順を飛ばしたと書いてありますか」
「ありません。保管上の問題として処理されています」
「そうでしょうね」
見ていた人間が去れば、見ていた理由ごと消える。書き残したものは、書き残したことさえ伝わらない。
「お嬢様」
ベルタが小声で呼んだ。いつもの賑やかな声ではない。本当に心配しているときの、低い声だ。
「怒っていいんですよ」
「……怒っています」
「顔に出してもいいんです」
「それは難しいわ」
カイが静かに帳面を1冊、机の上へ置いた。私のものではない。辺境の家中台帳から抜いた副本だ。
「乾燥庫の記録です。先ほど家令から届きました」
台帳を開くと、出荷日と搬入量の欄が並んでいる。その末尾に、家令の細かい字で1行だけ書き足されていた。供給元の一部、昨年秋より変更記録なし。
私はその1行を2度読んだ。変更記録がない。書類の上では、何も変わっていない。なのに薬草は空箱のまま続いてきた。
「人為です」
口をついた言葉が、室内に落ちた。
カイも、控えに残っていた家令も、誰も否定しなかった。
誰かが意図して、記録だけを残し、実物を動かしていた。不足は育成の失敗ではない。供給の歪みだ。
その重さが、ようやく肌で分かった。王都の崩壊より、この1行のほうがずっと怖い。王都の失態は因果だ。でもこれは、誰かが現場を意図して動かした痕跡だ。
「今この話は夫人にだけ報告します」
カイが静かに言った。
「アウラ嬢にも、まだ伏せてください」
「まだ、ですか」
「彼女の縁者が供給路に関わっている可能性を、まだ排除できていませんので」
胸の奥が、少しだけ冷えた。
アウラ嬢のことが嫌いなわけではない。地図の前に並んだとき、彼女の言葉の多くは正しかった。それでも今の一言は、別の感触を連れてくる。土地勘が深すぎることの意味が、恋の話でなく制度の話と繋がり始める。
ベルタが袖を引いた。
「今、また複雑な顔をしてましたよ」
「仕事の話をしていたわ」
「そうですね。でもお嬢様、仕事と嫉妬は共存しますよ」
カイが、小さく咳払いをした。今日初めての、人間らしい誤魔化し方だった。
夕方になって、家令が正式な返答期限を確認しに来た。10日。私は答える前に自分の帳面を開いた。解熱草の残量。代替薬の成功件数。供給路の不一致箇所。それから王都の封書。
数字を並べると、やるべきことははっきりする。でも今夜だけは、数字より先に来るものがある。5年間で1度も、公式の文面に正しく書かれなかった自分の名前が、今は招聘状の宛名に整っているという事実だ。遅すぎる。でも消えてはいない。
応接間を出ると、カイが廊下で立っていた。封書をまだ持ったままだ。
「10日で足りるようにします」
「……何がですか」
答えが来なかった。視線は私の顔にあるのに、言葉だけが来ない。紙を持つ指に、また力が入っているのが見えた。
「カイ」
「今日はここまでにします」
それだけ言って、彼は廊下の奥へ行ってしまった。
窓の外に、夕暮れの青い花が揺れていた。
10日で足りるようにする。薬のことか。供給路のことか。それとも、もっと別の何かか。
私にはまだ、その答えがない。ただ1つだけ分かったのは、封書に書かれた自分の名前を、今夜は少しだけ眺めていてもいいかもしれないということだった。5年間、誰にも読まれなかった名前が、ここにある。それだけで、何かが少し、変わった気がした。




