第10話 ありがとうは、嬉しいより先に怖かった
その朝、私は初めて辺境の子どもに名前で呼ばれた。
「ミラベルさま、にがいの、やだ」
熱で頬を赤くした男の子が、寝台の上でしかめ面をした。村医者は困り果てた顔で私と鍋を見比べている。鍋の中で煮えているのは、解熱草の代わりに使う辺境産の代替配合だ。王都でなら2軍扱いの薬草ばかりだが、この土地では冬でも切らさず手に入る。問題は、効くかどうか。効いても、どこまで持つか。もっと言えば、この1鍋分で今日を越えられるかどうか。
「苦いのは知っています。でも、熱が下がればもう一度文句を言えます」
我ながら可愛げのない慰めだと思ったのに、子どもは眉間に皺を寄せたまま頷いた。ベルタが横で小声で「それは説得なんですか」と囁く。答える余裕はなかった。
匙1杯。唇が歪む。飲み込む。少し待つ。
その数分が、やけに長い。
村医者が額に手を当て、次に脈を取り、ようやく息を吐いた。
「落ち着いてきた」
それだけの一言で、室内の空気がゆるんだ。子どもの母親が寝台に突っ伏しそうになり、私は咄嗟に肩を支えた。軽い。寝ていない人の重さだった。
「……ありがとうございます」
その人は泣きながら言った。
私は返事を忘れた。
ありがとう。
そんな言葉、今まで何度聞かなかっただろう。いや、違う。数えるほどしか聞かなかったのだ。薬は届いて当たり前。束は置かれて当たり前。花は誰のものでもない親切。そういう場所で5年働いてきたから、感謝の言葉は受け取るものではなく、たまたま相手の口から落ちる音だと思っていた。
けれど今、その音は落ちてこなかった。まっすぐ私へ届いた。
荒れた左手を掴まれて、初めて分かった。ありがとうは、嬉しいより先に少し怖い。受け取ってしまったら、もう「誰のおかげでもいい」では済まなくなるからだ。
村医者が鍋の残りを見て言った。
「もう2鍋。いえ、できれば3鍋ほしい」
現実は待ってくれない。私は熱の下がった額から手を離し、鍋の配合表へ視線を戻した。喜ぶのはまだ早い。効いたのは1人。必要なのは1人分の成功ではなく、村ごと越える数だ。
◇
追加の3鍋を終えたのは昼過ぎだった。
空になった調合台が3つ並んでいる。使い切った薬草の根が残るその台を見ながら、私はようやく腰を伸ばした。背骨が鳴った。
「屋敷分まで確保できるとは思いませんでした」
村医者が言った。感情より先に疲弊が顔に出ている人は、こういうときの声が低い。
「今日の配合と乾燥時間を帳面に残しておきます。急な場合は同じ素材でやり直せます」
「頼めますか」
「頼まれます」
はっきり返してから、少しだけ驚いた。5年間、頼まれますと言えた回数を数えたことがなかったと、今さら気づいたからだ。
ベルタが端の椅子から「お嬢様」と小さく呼んだ。
「ちゃんと喜んでください。今日は、喜んでいい日です」
「……喜んでいるわ」
「口元が笑っていません」
「笑い方が不器用なだけよ」
ベルタは「5年分、取り戻せばよかったのに」と言って、そのまま窓の外へ目を向けた。声が、少しだけ湿っていた。私も、今は確認しないことにした。
そのとき、外で馬のいななきがした。
屋敷の門前に止まった車輪の音は、村の荷車よりずっと重かった。窓から覗いたベルタが、さっと顔色を変える。
「お嬢様。あれ、王都の印です」
初めての「ありがとう」の余韻は、赤い封蝋ひとつで消えた。
◇
使者は丁寧だった。ただし、生活の温度を見ない種類の丁寧さだった。
診療所の前で馬車を止め、中には入らず、私を探して封書を両手で差し出した。
「ミラベル・ヘルダ嬢宛の、宮廷薬務局並びに王都医務室連名による親展でございます」
周囲の空気が、温度を落とした。
私は封書を受け取った。重かった。中身の重さではなく、名前の重さだった。差し出し先の欄に、正しく書かれた私の名前が、今の私には妙に遠く見えた。
「ご返答は期限内に。宮廷は、あなたのお名前で招聘しております」
使者はそれだけ言い置いて、馬車へ戻った。折り目正しい礼を残して。辺境の風の中で、その礼儀正しさだけが寒かった。
振り返ると、カイがいた。
いつ来ていたのか、分からなかった。屋敷から聞きつけて走ってきた速さではなく、最初からそこにいたような静かな立ち方だった。封書を見る目に、わずかに力が入っている。いつも整然と揃えられるはずの指が、今は少しだけ握られていた。
「王都医務室まで連名に入っています」
彼が言った。
「穴埋めでは済まなくなったのでしょう」
「……戻れと書いてあるわけではありません」
「書いていなくても、そういう意味です」
静かな声だった。静かなままなのに、怒っているのが分かった。私への怒りではない。しかしそれが何への怒りなのかを、彼は口にしなかった。
私は封書を見下ろした。
「5年分の仕事が、1か月で壊れたそうです」
自分で言ってから、ひどく他人事のように聞こえた。
「……嬉しくありませんか」
ベルタが聞いた。あまりに正直な問いで、少しだけ救われる。
「嬉しいのかもしれないわ」
答えながら、私は村医者の小屋の窓を見た。あの子の熱は、もう下がっている。
「でも、それで5年が戻るわけではないもの」
カイが一歩だけ、近づいた。
「封書は1人で開けなくていい」
そう言った声が、理屈の温度ではなかった。
何か言いかけて、やめた。私ではなく、彼が。
ミラベル、と呼びかけようとした跡が、口元に残ったまま消えた。
言えなかった言葉の形が、その沈黙の中にだけ見えた気がした。私はそれを確認する方法を、まだ知らなかった。
「……長い話になりますか」
私が聞いた。
「なります」
彼は答えた。
「でも、今夜話します」
その「今夜」だけが、やけに近かった。
夕風の中で、封書の赤い封蝋が日に透けた。
ありがとうと封蝋が、同じ1日に置かれている。この日のことを、私はたぶん長く覚えている。どちらの重さで覚えるのかは、今夜にならないと分からなかった。




