第86話「道端の石ころ」
俺は椅子に座ったまま動けなかった。
掌がじっとりと湿り、地図の紙を濡らしてしまいそうになる。耳の奥で、リーナの言葉がまだ響いていた。
――五年以上、生き延びた異郷人はいない
視界の端で、ミラが彼の袖をそっとつまんだ。表情は硬い。声をかけたくても、声にならないようだった。
「……ソウマ」
リーナが低く名を呼んだ。卓を回り込むと、彼の正面に立つ。炎に照らされた横顔は、普段の商人らしい軽さを欠いている。
「聞きたくなかったかもしれない。でも、これからは避けては通れない話だ」
彼女は言葉を区切り、ソウマの表情を確かめながら続けた。
「異郷人は、この世界では……不必要な存在と見られている。魔力が扱えないという事は、この世界では…そうだな、道端の石ころ程度の存在だ」
「リーナ姉、いくらなんでも、その言い方は…」
カイがくぐもった声で反応した。
「いや、この際だからしっかり伝えたい。続けていいか、ソウマ?」
「ああ、続けてくれ」
俺の目をしっかり見てリーナは続ける。
「弱い存在なんだ。悪意のある人間からすれば、道端にある石を蹴り飛ばすくらい簡単に消えてしまう存在だ。しかし、一番厄介なのは。罪悪感もないし、誰も関心を寄せていない事。蹴り飛ばされていても、誰も見向きもしない…。それどころか、気分が悪ければ、同じく罪悪感なく蹴り飛ばすんだ」
沈黙が落ちる。カイが歯を食いしばり、椅子の肘掛けを強く握った。タリアは腕を組み、口を開きかけてやめる。ルッツは目を伏せ、唇を固く結んだまま。
ソウマは喉が渇くのを覚えた。息を吸っても奥に届かない。声を絞り出す。
「……どうして、そんな――」
「知らないんだ。もちろん異郷人という存在は知っている。でも、誰も深く知らない。中には、病気を持っているだとか、数年すると化け物になると信じているヤツさえいる」
リーナはソウマの手を握る。掌の温度が、石壁の冷気と対照的に鮮明だった。
「だけど安心しろ。異郷人は魔力以外はここの世界の人間と変わらない事も知られているし、突然病気になるわけでもない。ましてや5年たったらまた急にどこかに飛ばされるなんてこともない」
「私の父も商隊を率いていた事は前に話したな。私が小さい頃、実はその商隊の中にも異郷人がいた。とてもいい人だったよ…」
「その人はどうなったんだ?」ソウマは食い入るように聞く。
「健康だったし、何よりこの世界でも強く生きようと前向きだった。だが、ある日突然…街へ買い出しに出かけたきり、帰って来なかった……おそらく攫われたんだろう」
短い言葉を積み重ねる。断片的だが、どれも重い。
「ソウマなら気づいてたろ?私たちがお前を街で一人にしないようにしていた事を」
「ああ。それは分かってたが……そこまで深刻だとは考えて無かった…」
「異郷人が5年生きられないと言われるのは、そこだ。とにかく社会的に弱いんだ。誰よりも社会に守ってもらえないのが異郷人なんだ」
「そうか…俺はみんなを必死で守っているつもりだったが、逆だったんだな…。情けない話だ。本当の弱さに気づいてもいなかったなんてな….」
思わず自嘲気味な笑いをこぼしてしまう。
「それは違うぞ、ソウマ」
リーナは姿勢を正し、声を強めた。
「お前はそんな弱い立場でもなお、何度も私たちを救ってくれた。私はソウマがいなければ2回は確実に死んでるぞ。オスト村では黒いミスリルの英雄だ。もうすぐ巨大冷蔵庫も作って、さらに多くのひとを救えるかもしれない。ここにいる全員がお前の努力をみてきている。だからこそ必死で守るんだ」
ルッツが優しく、諭すように話を付け加えた。
「確かに社会的に弱い立場です。貴族の中には明らかな排斥活動をしているものもおりますが…逆にそれを良しとしない良識を持った者も一定数おります。アルノルト伯もそうですし、市井にもそういった考えの人も大勢おります」
「そうか、そうだな」
ゆっくりと目を閉じ、上を向き、必死で心を整理する。確かに侮蔑されもしたが、街の中にはそうでない人もたくさんいた事を思い出す。
「いいじゃねえか」
沈黙を破ったのはザイルだった。
「俺はよ、先生。異郷人だって今この瞬間にどこかで生きてると思う。けど、確かに苦しい状況だろうな。だったらよ、先生がもっと頑張って、異郷人だってやれるんだバカヤローって分からせて。異郷人をまとめて助けてあげりゃいいだけだろ?」
全員の目がザイルに集まる。
「珍しく、いいこと言ったな、ザイル」
カイが思わず呟くと、全員が笑った。ソウマも自然と笑みがこぼれる。
「俺はいいことしか言わねーんだよ」
「ソウマ!周りなんて関係ねえ!一緒に世界がひっくり返るくらいすげえ物、作ろうぜ!」
タリアが満面の笑みで続いた。
「先生!誰がなんと言おうと先生は俺の先生だ!」カイもいつもの真っすぐな目をソウマに向ける。
「ソウマさん!私も何ができるか分からないけど、一緒に考えます!」
ミラが涙を流しながら必死に訴えかける。
「そうだな。うん。そうだ。難しいことなんて何もないな、ありがとう、みんな」
俺は笑顔でそう呟く。
「ソウマはただの石ころじゃない。お前が見いだした虚晶石と同じだ。誰も価値がないと思っていたのに、世界をひっくり返す可能性を持った石だ。」
リーナは改めてソウマに向き直る。
その強く優しい瞳がそっと包み込む。
「私があなたを守ります。権力からも、世間の目からも。社会的な圧力に押し潰されるなんて、絶対にさせないから」
その言葉に、広間の空気が変わった。
ミラは涙をこらえながら笑みを浮かべ、彼の袖を握る手に力を込める。
カイは目を逸らし、拳を緩めた。
タリアは小さく息を吐き「……らしいね」とだけ漏らす。サラは瞼を閉じ、胸の前で指を組んだ。
ソウマの呼吸が落ち着く。胸の奥に、まだ恐れはある。けれどその隣に、確かな灯りがともった。
「……ありがとう、リーナ」
掠れた声に、彼女はゆっくりと頷いた。
その頷きは、商人としての計算でも、戦略でもない。ただ一人の人間としての誓いだった。
広間の窓の外で、鐘がもう一度鳴る。
その音を聞きながら、彼らは次に進むべき道――アルノルト伯爵領への出発を胸に思い描いた。




