第8話「揺れる天秤」
黒脈山脈を背に延びる街道は、乾いた風と砂埃に満ちていた。
左右の斜面には灌木がまばらに生え、遠くでは牛を追う子どもの姿が小さく揺れている。
そんな穏やかな景色の先に――帝国の関所が立ちはだかっていた。
木柵と石壁が組まれ、帝国の黒鉄の紋章が陽を受けて鈍く光っている。
兵士が十人、槍を構えて出入りする商隊を見張っていた。
商隊が止められると、革帳簿を持った役人が足音も立てずに近づいてきた。
日焼けした顔に、見下すような目。
荷車の荷を検めると、渋い顔をして鼻を鳴らした。
「……積み荷の量が多すぎるな。これだけ安く売れば、市場が崩れる。秩序を乱す行為だ。――積み荷の一部は没収する」
護衛たちの間にざわめきが走る。
後方で荷車を押していた村人や商人が小さく「またか」と吐き捨てた。
別の商隊も足を止め、視線を向けてくる。誰も逆らわない、諦めた目だ。
商隊が止められた瞬間、隊の後方で耳をぴくりと動かしたコハルが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……ったく、こういうのがいっちばん性に合わんのよ」
彼女は武器に手をかけるでもなく、ただ街道脇からじっと役人を睨んでいた。
リーナは一歩前に出て、即座に噛みついた。
「この先の町は人口三千。ここで卸す量なんて、せいぜい数日分さ。暴落なんて起きやしない」
役人は薄く笑い、鼻で笑い返す。
「口だけなら誰でも言える」
その言葉に俺は一歩前に出た。帳簿をひったくり、さらりと読み上げる。
「人口三千。一人が一日三合の麦を食べるとして九千合。今回の荷はその半分にも満たない。暴落は起きない」
役人とリーナのやり取りの最中、ソウマが一歩前に出て数字を並べ始めたとき――
カイがぽかんと口を開け、思わず小声で漏らす。
「え、数字で押すのかよ……」
コハルも腕を組みながらじっと見ていた。
彼女の頭の中で、ざらついた独白がこぼれる。
(……へえ。口で殴り返す戦いもあるんじゃな。あたしには、こういうの……できん)
そんな彼女の反応を見ていたカイが、にやりと笑った。
「さすがは先生!メモと数字の鬼だ」
ソウマは振り返らずに数字を叩きつけ、リーナがにっこり笑って畳みかける。
二人の言葉と数字の合わせ技に、場の空気が一気にひっくり返る。
指を折りながら淡々と示すと、周囲の兵士や通行人たちがざわついた。
「……確かに」「筋は通ってるじゃないか」
役人の顔に苛立ちが走る。
理屈で詰められた人間の、典型的な顔だった。
「だがな。――秩序は理屈じゃない」
低く、地を這うような声。
役人は声を潜め、指をすり合わせてみせた。
「秩序を守るには“潤滑油”がいる。……分かるだろう?」
兵士たちが苦笑し、場の空気がいやらしく濁る。
後方の別商隊の男が小さく肩をすくめ、袋から銅貨を取り出したのが見えた。
あからさまな賄賂の要求だった。
その瞬間、リーナが一歩前に出た。
にっこり笑い、声を張る。
「潤滑油なら、うちの荷に山ほどあるよ。麻油に菜種油。一本ぐらいなら差し上げようか?」
兵士たちが吹き出す。
役人の顔が見る間に赤くなった。
リーナはさらに畳みかける。
「もちろん帳簿に“油一樽、関所用”って記録するなら、ね」
周囲の空気が笑いに変わる。
役人は顔を引きつらせ、舌打ちをひとつ残した。
「……通れ」
彼は帳簿を乱暴に閉じ、門番に目配せした。
木の柵が軋み、通行が許される。
関所を抜けると、カイはソウマの隣に馬を寄せてきた。
「先生、ああいうの、どこで覚えたの?」
「数と理屈は、場合によってはどんなものより強い」
「へえ……やっぱちょっと変わってるよな、先生」
コハルは少し離れた荷車の上からちらっと見下ろし、口の端を上げる。
「……へっ。数字で人間ひっくり返すとか、妙なヤツ」
その声にはまだ警戒と半分の興味が混ざっていた。
信頼には遠い。でも――“ただの弱いやつ”からは一歩、印象が変わった瞬間だった。
街道を進みながら、リーナはエールをあおって笑った。
「まったく、センセ。あんたの数字がなきゃ積み荷は半分減ってた。……でも、私の口がなきゃ油まで取られてたね」
「どちらにせよ、不毛な交渉だった」
俺が乾いた声で返すと、リーナは大笑いした。
「不毛じゃないさ! 勝ったんだから!」
だが、俺の耳には役人が去り際に吐き捨てた言葉がこびりついていた。
「……あんたら、よそ者のくせに生意気だ。覚えておけ。“上”は秩序を乱す者を許さない」
“上”という単語に、黒い影がちらつく。
ただの関所役人ではない。
――飢饉と物資を利用して儲ける“貴族の手”が、確かに背後にある。
関所の向こうで風が強くなり、砂埃が舞い上がった。
天秤は――静かに揺れる。
それが、この国の“秩序”という名の土台を揺らす最初の一滴になることを、まだ誰も知らない。
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