第78話「ノーカウント!」
崖下には、血の跡と崩れ落ちた岩の破片だけが残されていた。
モルドの姿は影も形もない。谷底へ転落したはずなのに、死体すら見当たらない。
「……あれじゃ、さすがに生きちゃいねえだろう」
ダンカンは吐き捨てるように言ったが、眉間の皺は消えなかった。
「いや、死んでねえな。だが――もう襲ってくる余力はねえ。今はそれで十分だ」
タリアは壁際に腰をずらし、荒い息を繰り返していた。刺されたふくらはぎは止血もままならず、麻痺したように力が入らない。
痺れは腕にまで広がり、工具袋を掴もうとしても指が震えて空を切るだけだった。
「……悪いな。足、ちょっと動かせねえや」
乾いた笑いを浮かべるタリアに、ダンカンは答えなかった。ただ一歩近づくと、その巨体をかがめて――迷うことなく抱き上げた。
「っ……!」
突然の“お姫様抱っこ”に、タリアの頬が一気に熱くなる。
「お、おい! 私は……歩け、なくも……」
「無理すんな。戦場での虚勢は命を縮めるだけだ」
ダンカンは淡々と告げ、ひょいと肩で体勢を安定させた。
胸板の硬さ、背中の匂い。タリアは顔を真っ赤にして視線を逸らす。
(これは反則だから……ノーカウントだ! ノーカウント!)
心の中で必死に言い訳するが、鼓動はどうしようもなく早まっていた。
やがて崖を抜けた先で、戦いを終えたカイたちと合流した。荒い息をつく三人の足元には、倒れた暗殺部隊の姿が転がっている。
「タリア!」
サラが駆け寄り、すぐに治療魔法の光を彼女の足へ注いだ。温かな光が脈打ち、刺し傷の痛みがすうっと和らいでいく。
タリアが安堵の息を漏らしたとき、背後からダンカンの低い声が響いた。
「おい、サラ。こっちも頼む」
振り返ったサラは、彼の背中を見て絶句した。
「な……何これ!? ダンカン! あんた頭おかしいの!? どうして死んでないのよ!」
背中は金属片で蜂の巣のように穴だらけ。血がまだ滴り、鎧の下の古傷まで浮かび上がっていた。
サラは悲鳴を上げながらも必死に手を動かし、治癒の光を走らせる。
タリアはその姿に気づき、目を見張った。背に刻まれた傷は一つや二つではない。古いもの、新しいもの、幾度となく死線を越えてきた証ばかりだった。
「……ありがとう。助けてくれて。本当に……」
珍しく言葉を詰まらせながら、タリアは真剣に頭を下げた。
ダンカンは鼻を鳴らして笑う。
「別に礼なんていらねー。俺はそのためにいるんだから、何も問題ねえ」
「問題だらけです!」
サラが即座に怒鳴り返す。
「見なさいよこの傷! 背中どころか肩も抉れてるし、体中ボロボロじゃない!」
カイも口を挟む。
「ダンカンは俺より怪我が多いからな!」
「……あんたも同類でしょ!」
サラの怒鳴り声に、カイは肩をすくめるしかなかった。
そんなやり取りの中でも、タリアはまだ胸の奥の熱を抑えられずにいた。
(……ノーカウント。ノーカウントだから……!)
自分に言い聞かせながらも、赤い頬は冷めそうになかった。




