第77話「仕組まれた飢え」
――タリアが森で命の刃を向けられていたその頃、街では音一つ立てずに、別の戦いが始まっていた。
子爵邸の謁見の間は、昼の熱をまだ引きずっていた。暖炉はないが、厚い空気のせいで壁の色まで重く見える。ルッツは一礼してから、静かに口を開いた。
「子爵様。もし、私の話が不敬に当たるならお詫びします。しかし、聞いていただきたいことがございます」
子爵は眉一つ動かさず頷いた。ルッツはゆっくりと事の次第を綴っていく。七年前、帝国を襲った飢饉——人々が飢え、街が瘦せ細ったあの年のことだった。
「ご存じの通り、あの年は帝国にとって最悪の年の一つでした。しかし、被害を最小限に抑えた領地が二つだけありました。一つはアルノルト伯爵領。地の利もあって蓄えがありました。もう一つは……ヴァルシュタイン公爵領です」
部屋の空気が一瞬ひんやりする。子爵は顎に手をやり、沈黙を保った。
「公爵領がなぜ助かったか。その理由は表向きとは違います。公爵はその時点で、王国に“穀物を五倍で買い取る”という打診をしておりました。戦を避けるための取引だったとされていますが——」
ルッツの口調は穏やかだ。しかしその言葉は投げ石のように静かに水面を叩き、波紋を広げる。
「公爵は、その約束を果たすために、飢饉が生じかねない年に、街道を流れる穀物を密かに買い占めた。大きな商会――あの時の主要な交易者たちは、それを知っている。買い占めることで市場を枯渇させ、価格を操作したのです。結果として、帝国の多くは飢えに苦しみ、公爵の領地は潤った」
子爵の顔から血が引いた。ゆっくりと息を吐き、彼は問い返す。
「それは……証拠があるのかね、ルッツ?」
「証拠と呼べる確たる文書は私の手元にはありません。商会は口を閉ざしますし、当時の取引は帳簿を分散保管していました。ただ、当時の流通の動き、倉札の流れ、商会の行動を追えば――辿り着く線はあります。王国の一部でも、あの飢饉に関する疑念が語られていました。――不敬を恐れず申しますが、公爵の関与を疑う声は、当時から小さくはなかったのです」
子爵はしばし黙考した。窓の外で鷹が輪を描き、遠くの畑で人々が働く姿が見える。彼の胸の中で、過去と現在がぶつかっていた。
子爵の瞼がふと震えた。記憶が蘇る。
――雪解け前の春、畑には種すら蒔けず、配給所に人の列が連日続いた。
幼子を抱いた母親は干からびたような瞳で麦殻のかけらを求め、老人は道端に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
村の墓地は冬の間に埋めきれず、雪解けとともに土が盛り上がった。
子爵自身も、領民に麦の最後の一掴みを配り歩いた日の指先の感触を忘れてはいなかった。
――それでも、多くは救えなかった。
「……あれを繰り返すわけにはいかぬ」
子爵の声はわずかに震え、すぐにまた冷静な響きに戻った。
「……私の望みは、ただ一つだ。領民を飢えさせぬこと。あの時も、私はアルノルト伯爵領からの救援で何とかしのいだ。だが、確かにあの年は苦しかった。もし――もし公爵が関係しているのなら、私はどう対処すべきか」
リーナが息を殺して前に出る。商人の勘が研ぎ澄まされ、彼女はすぐに核心をつく。
「子爵殿。あなたの望みは分かります。ならば我らを使ってください。我々は肥料を流通させ、作物を増やすことで領民を守れます。ですが、これだけでは不十分かもしれない。――備蓄、貯蔵の問題です」
ルッツは続ける。彼の声に焦りはないが、熱意が滲んでいた。
「ソウマ殿。先ほどの冷却箱。あれは大型化できるでしょうか。屋内での長期保存、穀物の保存に応用できれば、備蓄の概念が変わります。もし領主が大きな保管庫を作り、ここに十分な蓄えを置くことができれば、外部の価格操作に左右されない。領民を守る切り札になります」
ソウマは地図に視線を落とし、少しだけ間を置いて答えた。
「技術的には可能です。だが、一個の冷却機を大きくするには相応の資源が必要になります。特にミスリル。大規模化すれば構造材と導体に大量のミスリルが必要になる。──それをどう確保するかが鍵でしょう」
子爵の指先が、机の上の地図をなぞる。唇を噛み、彼はかすかに笑ったようにも見えた。
「もし、それが本当に可能なら、私は領民を飢えさせぬために動く。だが、ミスリルは公爵領が掌握している。公爵の懐刀とも言える商会が動けば、あっという間に話はつぶれてしまう。——それでもなお、我が望みは変わらぬ。だが、その道は簡単ではない」
ルッツはさらに一歩踏み込む。
「だからこそ、策略ではなく制度にしましょう。公共の保管庫を作り、法の下で供給網を整備する。流通経路を複数化し分散させる。肥料で生産を増やし、冷却でロスを下げ、余剰を備蓄する。そうすれば、単独の勢力による買い占めは効果を持ちません」
リーナは拳を握る。彼女の声に、商人としての確信と怒りが混ざる。
「子爵殿、あなたが本当に領民を第一に思うなら、我々と共に歩んでください。公爵と組むことだけが選択肢ではない。方法はあります」
子爵は窓外を長く見つめた。風が旗を揺らし、遠くで子供たちの歓声が聞こえる。それが何よりも彼の胸を揺さぶっているのだろう。
「……真実を知ることは、簡単ではない。証を突きつければ、公爵を敵に回す可能性がある。領内の秩序が乱れれば、被るのは民だ。だが、聞かせてもらった案は良い。ミスリルの問題さえ解けるなら、実行の価値はある」
ルッツは一礼した。
「ありがとうございます、子爵様。ではまずは、貯蔵計画の設計と、ミスリルの調達ルートの調査を始めましょう。リスクは承知の上です」
子爵は重い決断の端緒を掴んだように見えた。だが、その瞳の奥には、先刻の穏やかさとは違う、鋭い影が瞬いた。
「いいだろう。だが一つだけ――もし我が領が危機に晒されるような動きがあれば、君たちもまた、その責を負うことになる」
リーナは短く「もちろんです」と言い、俺は静かに頷いた。
外側から見れば、このやり取りは穏やかな協議のように見えるかもしれない。だが内実は違った。互いに刃を隠しつつ、民を守るための刃を研ぎ始めたのだ。
窓の外、夕陽が落ちかけている。子爵邸の影が長く伸びる。だがその影の向こう、確実に新しい動きが始まっていた。




