第76話「赤き壁」
タリアの視界が揺れていた。自分が放った魔道具は、まるでスローモーションのように回転しながら空を裂く。
(……さすがにこれは死ぬかもな。まだ作りたいもん、山ほどあるのになー)
そんな自嘲めいた思考を最後に、
彼女は瞼を閉じかけた。
――その瞬間。
目の前に“壁”が現れた。巨大な胸板。瞬時に割り込んだその存在が、爆風と閃光をまともに受け止める。
炸裂。轟音。
岩が削れ、砂利が嵐のように舞い上がる。
タリアの耳はきしみ、息が詰まる。残響の中で自分の荒い息遣いだけが頭蓋にこだました。
目の前の壁から声が響いた。
「――なんて無茶する姉ちゃんだ。まあ、俺も好きだけどな。そういう賭けは!」
振り返った瞬間、タリアは目を見開く。
そこに立っていたのは、金髪を炎のように揺らし、背中に無数の金属片を突き立てた巨漢――ダンカンだった。
血が背を濡らし、鎧を真っ赤に染めても、なおその背は揺るぎなく壁のように立ちはだかっていた。
ドサリとタリアは尻もちをつく。すぐ耳に、あの嫌な金属の擦過音が届いた。
……モルドも生きている。
「ここで休んでろ。後は俺がやる」
ダンカンはタリアを見る事なく言い放ち、ゆっくりとモルドに向き直る。
仮面の奥で嗤う声。
「ボロボロじゃないですか? その背中、穴だらけですよ。それで私に勝てるつもりですか?」
シャムシールが構えられる。欠けた刃が不気味に光を散らした。
対してダンカンは――素手。両拳を軽く握り、低く腰を落とす。
「おら、来いよ。叩きのめしてやる」
言葉と同時に、鋭い光が閃いた。投げナイフ。
モルドの手から放たれた刃は、風を切って一直線にダンカンの喉を狙う。
だが、乾いた破裂音。
ダンカンの拳がナイフを叩き落としていた。鉄片は火花を散らし、砂に突き刺さる。
「――ッ!」
仮面の奥の目がわずかに細まる。
次の瞬間、モルドは風のように踏み込んだ。残像のように揺れる動き。狙いは首筋。
だが、その刃が届くより早く、拳が逆方向から唸った。カウンター。
二つの影がぶつかり合い、谷に風圧が炸裂する。
砂利が弾け飛び、岩がひび割れる。互いに一撃は届かず、瞬時に距離を取る。
(……次元が違う)
タリアは震えた。自分は弄ばれていただけ。あの殺し屋は全く本気を出していなかった。人外同士の戦い。その只中に自分は座り込んでいる。
「その女を庇いながら戦うのは大変そうですねぇ」
モルドが嗤う。
「あなたの動きは鈍い。背中の痛みで呼吸も浅い。……すぐに詰む」
ダンカンは血を滴らせながらも鼻で笑った。
「お前も悠長だな。そろそろ向こうの仲間は全滅する頃だ。そうなりゃこっちの勝ちだ」
タリアは息を呑む。挑発に見えて、冷静な分析を混ぜるダンカン。猪突猛進どころではない。戦場で何度も死線を越えてきた者の声だった。
「なるほど……ただの猪ではないか。ならば――急ぎましょうか!!」
モルドの速度が一段と上がる。黒布が風を裂き、刃が閃くたびにダンカンの肉に赤い線が走った。
背中の傷が再び疼き、動きが鈍る。そこへ追い打ちのようにナイフが右肩に突き立てられた。
「いい感触!これで終わりだ!」
モルドの声が震えるほど昂ぶる。
だが、その手首をがっちり掴む音が響いた。
ダンカンの顔に獰猛な笑み。
「――ようやく捕まえた。もう逃がしゃしねぇ」
刃がさらに肩へ食い込む。血が噴き出す。だが構わず、巨腕が振り抜かれ、突き上げるようなボディブローが突き刺さる。
「が……ッ!」
仮面の奥から潰れた声。体がくの字に折れる。
「まだまだ!」
もう一撃。仮面に直撃し、白い面が粉々に砕け散った。血まみれの顔が露わになる。
さらに続けざまに腹へ、そして打ち下ろし後頭部へハンマーのような拳が叩き込まれた。
モルドはぐったりと膝をつき、
大量の血を吐いた。
勝負はついた――そう思った刹那。
ダンカンの手に小さな針が刺さり握力が緩んだ瞬間、モルドの体が地面を滑った。最後の力で逃走。
影が揺れ、崖へと飛び込む。
「逃がすか!」
ダンカンはモルドの投げ捨てたナイフを拾い上げ、即座に投擲した。
刃は一直線に背へ突き刺さる。黒布を裂き、血の尾を引いて、モルドの体は谷底へ消えた。
残されたのは、赤い背中と、倒れたタリアの荒い呼吸だけ。
夕陽は沈み、黒い影が谷に広がっていった。




