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虚晶の賢者――異世界魔法を科学する  作者: kujo_saku
第六章【見えざる刻限】
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第73話「狩人の微笑み」

 谷間の風は冷たく、岩の割れ目に溜まった影を撫でていた。


タリアは四つ折りにした布袋を地面に置き、息を切らしながら笑っていた。袋の中は小さな白い虫で満たされている。


手にした捕獲網にはまだうごめく幼虫が数匹、銀色の光を放っているようだった。


「やった! ソウマへのお土産ゲットだ!これで山ほど取れるぞ!」


 彼女の声は弾んでいた。


手の中でイモムシの一匹が器用に触角を動かし、禍石にまみれた土を払い落としている。


タリアは地面に落ちている礫の一片を拾い上げて、その側面に刻まれた微かな黒い斑点を眺める。


近くには、あの黒く光る小さな虚晶石もいくつか顔をのぞかせていた。


「ビンゴだ!濃度が高いところに来るんだ、ロックキャタピラーは」


彼女は独り言のように呟き、

ふっと遠い顔をする。


エルンスト――少し前まで共同研究していた姿が横切った。三人で考えた仮説。


もしこれが証明できれば、虚晶石の生成過程に新しい光が差す。――そう思うだけで、胸が熱くなった。


 夢中でイモムシを袋に詰め、次から次へと検体を仕分ける。指先が泥で汚れても気づかない。


タリアの目は輝き、口元にはいつもの得意げな笑みが浮かんでいた。自然の摂理を掴む瞬間の快感は、どんな噂の恋愛話も上回る。


 やがて、ふと気配の変化に気づいた。


背後の風が、わずかに音色を変える。一枚の葉がひらりと落ち、岩の陰が一つ、大きく揺れた。タリアは立ち上がり、袋を肩にかけて振り返った。


 ――そこに、男が立っていた。


 黒い装束。


全身を包む布は古風で、対照的に白い無表情な仮面。身体の輪郭をほとんど隠している。


だが首のところから僅かに覗く喉の動き、呼吸のリズムは確かに人間のものだった。


片手に抱えているのは、湾曲した長い刃。


刃は湾曲の途中で鈍く光り、ところどころ欠けて黒い焦げたような筋が入っている。金属が擦れ合う不快な音が、空気に低く鳴った。


「――誰だ?」

タリアは思わず声を張った。


けれど声には動揺が残っていない。彼女はいつも通りに、明るく、好奇心そのままに問いかける。好奇心は怖れを押しのける。


 男は静かに首を傾げるようにして、それからゆっくりと答えた。


「私ですか?あなたを殺しに来た暗殺者ですよ」


 言葉はあっけないほど正直で、しかしそこに含まれた平然さはタリアの心のどこかを冷たく刺した。


彼女は一瞬、表情を曇らせたが、

すぐに口角を上げる。


「……正直な答えだな。だけど、そんなこと、普通言うか?どういうつもりだ?」


タリアは軽く笑いながら、袋から工具を探る。


道具袋の中には、捕獲網や小型の罠、試作の小さな火花発生器、すぐに組み立てられる簡易器具が詰まっている。


 しかし、指先が道具に触れた瞬間、男の声が続いた。声はまるで砂を噛むように乾いていた。


「別に、いいんですよ。殺すのは決まってます。でも、ただ殺すだけじゃつまらない。」



「人間の最後の瞬間を見たことがありますか? 無様に這いつくばって、命乞いをする様子を。私はそれが好きなんです」


 銀色に欠けた刃がわずかに揺れ、擦過の音が風にかき消される。


タリアの手が一瞬、止まった。



だが彼女はそのまま道具袋を探り続ける。何かを掴もうと手を伸ばしながら、嘲るように声を返す。


「へぇ、気持ち悪いヤツだな。私はそんなのゴメンだね。本当にやめてもらえると助かるんだけど」


 タリアはそう言って、いちばん取り出しやすいもの――小さな鉤爪型のフックを握りしめた。


それはロックキャタピラーを安全に固定するための器具だ。刃物ではない。


けれど、その先端を握る指先は白くなっている。無邪気さの裏に、たしかな覚悟があるのが彼女のいつものやり方だった。


 男は、にわかに笑ったような低い吐息を漏らす。


「あなたにも期待していますよ。ここ最近のあなたの動きを、私は見ていました。人生を、楽しんでいる感じがね――いい!そそられます」


 その言葉は、タリアの胸の中に小さなしこりを落とした。


誰かに見られていた――それは不愉快であると同時に、不可解だった。


見張られるほど有名だとは思えない。だが男の声には確信があった。彼は彼女の仕草、笑い方、虫を扱う慎重さをやすやすと見抜いているようだった。


 タリアは気味悪さを押し殺して、軽く肩を回す。



「見ていた?どこでそんなに私のことを?」


 男は肩越しに、短く首を振っただけだ。


その黒布のすき間から、欠けたシャムシールの刃先がチラリと見えた。


刃には、先端の一部が欠け、噛み合ったような歪みがあり、かすかに乾いた血の痕が残る。まるで古い戦の跡を引きずっているようだった。


「別にどこでもいい。町でも、村でも、あんたが笑ってるところを探してね」


彼はゆっくりと一歩分だけ間合いを詰める。


「人が楽しむ姿を見るのは、殺す前の最高のスパイスだ。――あんたは最高の素材だ。じゅうぶんに味が出る」


 タリアの手が、フックから他の小道具へ滑る。小型の閃光弾が指先に触れた。


即席の煙幕、あるいは目くらまし。彼女はそれを握りしめ、片目を細める。何か単純なことでも、もしかしたら距離を稼げるかもしれない。


 しかし、男は近づきもしない。


むしろ、静かに距離を保ったまま、彼女を挑発するように微笑む。金属音が小さく、冷たく鳴る。



タリアはそこで初めて気づく――自分の周囲に、足跡以外の証拠が何もない。


枝は折れていない。落ち葉は乱れておらず、ただ一筋の足跡が岩に残っているだけだった。男はまったく足音を立てずに近づいてきたのだ。


「なんで――」タリアが低く呟く前に、男はゆっくりと言葉を重ねた。


「私は急がない。あの連中が時間を稼いでいる間に、私は君をじっくり味わう。君の叫びも、泣き顔も、焦る表情もね。なるほど、君は実に愉快だ。さあ、遊ぼうか、タリア・――」


 男はそこで呼びかけを切り、タリアの名前を言わずに笑った。笑いは砂利の底でこだまするような冷たさを帯びていた。


 タリアは息を吸い、顎を上げた。手の中の閃光弾を小さく捻る。指先に伝わる金属の感触が、いま彼女に残された唯一の確信だった。


 だが、男の目は一瞬だけ鋭く光り、刃の先がゆらりと揺れた。金属が擦れる音がもう一度、乾いた断末魔のように響いた。


「君は楽しそうだ。見届けるのが、ますます待ち遠しくなった」


 そして、黒布の男は静かに一歩、足を出した。タリアの周囲の空気が、まるでそれに合わせて収縮するかのように凍りついた。


 岩と虚晶石と、袋に詰めた小さなイモムシの微弱な匂いだけが残される。遠くで仲間たちの声がかき消されて、風が薄く唸る。


 タリアは死を覚悟したわけではなかった。ただ、理屈でも感情でも割り切れない明晰な瞬間に立ち会っている。彼女は小さく笑って、それから――叫ぶより早く、身を低くして動いた。



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