第72話「黒い煌めき」
馬車は小川を渡り、山裾の細い獣道へと入った。昼を過ぎた陽射しはなお強く、岩肌に照り返して視界が白く滲む。
御者台で手綱を握っていたザイルが短く口笛を鳴らすと、馬が足を止めた。
「着いたな。……匂いが変わった」
空気が淀んでいる。
草木の青さよりも、鼻を刺すような金属臭と湿った土の匂いが濃い。谷底の崖は黒く焼け焦げたような層を露わにし、岩の間からはうっすらと紫色の靄が立ち昇っている。
ミラは測定具を取り出し、慎重に魔力を流した。針が震え、限界近くで止まる。
「……やっぱり。禍石濃度、かなり高い。中毒にはならないだろうけど、長居はしたくないな」
言いながら視線を巡らせると、崖の割れ目のひとつにきらりと光が宿った。
手袋越しに摘み取ったのは親指大の結晶。角度を変えると、黒の奥から淡い群青が滲み出す。
「これ……虚晶石!」
ミラの声に全員が集まり、息を呑んだ。
「本物か?」
カイが喉を鳴らす。
「小さいが、確かに虚晶石だな」
タリアも覗き込み、表情を引き締める。
四人の胸に高揚と緊張が同時に走った。目的地に辿り着いた証であると同時に、ここが危険地帯である証でもあった。
そのとき、タリアがぱんと手を打った。
「よし! じゃあ私は、ソウマに頼まれてたやつ探してくるぞ!」
工具袋を抱え、目を輝かせる。
彼女の視線の先には、岩肌に刻まれた細かな齧り跡。地面に転がる白い欠片。
「ロックキャタピラーの痕跡だ。こいつら絶対近くにいる!」
ミラが慌てて声をかける間もなく、タリアは崖沿いを駆け下りていった。
「ちょ、タリア!遠くには行かないでよ!!」
返事はあったが、もう遠ざかっていく足音に紛れてしまった。ミラは胸騒ぎを覚えるが、ここ最近タリアと仲良くなったミラは、またいつもの事と気持ちを切り替える。
それぞれが調査を開始する。ミラはカイとザイルに指示を出しながら、植生や濃度の勾配、様々な情報を隈なく記録していく。
そうしている間に時間が経ち、ふと気付けば幌の下は静まり返っていた。ミラは不安げに辺りを見回す。
「あれ……タリア、戻ってきてない」
カイが立ち上がり、少し高い場所に登って辺りを確認する。
「くそ、見える範囲にはいないな!探してくる!」
だがザイルが腕を伸ばし、肩を押さえた。
「待て。ここは地形が複雑すぎる。俺が行く」
「でも――」
「土木魔法のほうが役に立つだろ」
ザイルはにやりと笑い、土埃を払った。カイは悔しげに拳を握ったが、理屈では反論できない。
その瞬間だった。
崖上の岩陰から、影が一つ、二つと滑り出る。布で顔を覆った男たち。見える範囲だけでも数は五、六。黒い短剣を構え、三方からじりじりと囲んでくる。
「っ……来やがったな」
カイが剣を抜いた。
次の瞬間、戦闘が始まった。
カイは踏み込み、正面の一人を斬り払う。だが刃はかすめただけで、相手はすぐに後退する。
ミラは後方から支援魔法を放ち、眩しい閃光で一人を怯ませた。ザイルは地を踏み鳴らし、足元から石弾を撃ち上げる。二人がよろめき、土煙が舞った。
だが、奇妙だった。相手の攻撃は浅い。踏み込みも弱い。斬りかかってきても、わざと外すように引いていく。
「おい……」
ザイルが息を吐く。
「こいつら、本気で俺たちを倒す気ねぇぞ」
「え?」ミラが目を見開いた。
「踏み込みが浅い。刃の軌道が遊んでる。――こいつら、時間稼ぎだ」
言葉に背筋が冷たくなる。
「時間稼ぎ……?」
カイが息を荒げる。
「じゃあ――狙いは!」
「タリアだ!」
ザイルが叫んだ。
全員の心臓が跳ねた瞬間、崖の奥から空気が変わった。
カイは敵を振り払おうと必死に剣を振るう。
だが次から次へと現れる敵が絡みつき、間合いを崩す。ミラは必死に支援を重ねるが、魔力の流れが淀んでいて術式が重い。
ザイルも土壁を立て続けるが、崩されるたびに呼吸が荒くなっていく。
遠く岩場の奥から、異様な気配が遠ざかっていく。鋭い鉄の擦過音、ぞわりと肌を撫でるような冷気。黒装束の背が、ゆらりと揺れながら谷の奥へ消えていく。
その片手には、湾曲した細長い刃――異国風のシャムシールが月影のように鈍く光っていた。
その後ろ姿は、まるでこれから獲物を狩りに行く捕食者のそれだった。
ミラの喉が固くなる。
「タリア……っ」
戦場の空気が凍りついた。夕陽を背に、一つの長い影が岩場に伸びていく。
まだその姿ははっきり見えない。だが確かに、ただの賊ではない“黒い煌めき”が、タリアの方角へ向かっているのをただ眺めるしかなかった。




