第71話「ウォーレン子爵」
ウォーレン子爵邸は、
城下の北側にそびえていた。
白壁と赤瓦が連なる館は、決して華美ではないが、隅々まで整えられた佇まいが持ち主の性格を映しているようだった。
門前には衛兵が二重に立ち、長い槍が夕陽を反射して光っていた。
俺とリーナは冷却箱を抱え、従者に導かれて館の奥へ進んだ。廊下に敷かれた緋色の絨毯は、踏みしめるたびに音を吸い、二人の呼吸だけが静かに響く。
謁見の間に通されると、そこには壮年の男が待っていた。整った顎髭に穏やかな瞳。白地に銀糸をあしらった衣を纏い、立ち上がって二人を迎えた。
「ようこそ。遠路はるばる来ていただいたな。アルノルト卿から話は伺っている。私はウォーレン・フォン・ハルデン。この地を預かる者だ」
声は柔らかく、しかし揺るぎない。リーナは一歩進み、深く頭を下げた。
「子爵殿。突然の訪問を快く受けてくださり感謝します。……率直に言わせていただきます。この街、この領に黒いミスリルを流通させたい。領民にとって必ず利益になります」
子爵は微笑を崩さず、椅子に腰を下ろした。
「もちろんだ。飢えは罪だ。私は領民を飢えさせぬことを第一に考えている。ゆえに君たちの肥料も歓迎するし、必要ならば多く買い取ろう。倉口も手配する。邪魔はさせない」
あまりにも穏やかで、あまりにも揺るがない。リーナの肩に力が入る。
「ならば、なぜ……公爵と?」
子爵は深く息を吐き、卓上の地図を指した。西の山脈、その斜面に赤い印がいくつも記されている。
「ここだ。近年の調査で確証を得た。ミスリルが眠っている。しかも相当量だ。領民を飢えさせぬためにも、鉱山の開発は避けられぬ。だが、我が領だけで掘るには規模が大きすぎる。そこで公爵が手を差し伸べてきた。技術も資金も兵も提供する、と」
ソウマは黙って地図を見た。山脈を這うように引かれた赤印。それは子爵が逃れられぬ現実を物語っていた。
「……つまり、公爵の庇護を受けるしかないと」
「そうだ。彼らは既に条件を示してきている。領民に利益を還元すること、農業の妨げをしないこと。私はそれを受け入れた。領民を守るためにな」
正論。公爵の影が背後に濃く見えても、表向きは理路整然。リーナは歯噛みした。
「しかし、公爵は……権力を肥やし、いずれこの地を飲み込む」
「そうかもしれん」
子爵は穏やかに頷く。
「だが、領民を飢えさせるよりはましだ。大義よりも、私は明日の食卓を守る。……それが、私の領主としての務めだ」
リーナは言葉を失った。ソウマも唇を引き結ぶ。自分たちの正論は、子爵の正論の前で届かない。
沈黙を破ったのは、俺だった。携えてきた冷却箱をそっと卓上に置く。
「子爵殿、これは我々の切り札です。冷却箱――食材や薬草を長く保ち、冷えた水や酒をいつでも得られる。領民の生活を直接変える道具です」
蓋を開けると、白い曇りが立ち上がり、冷気が部屋に流れ込んだ。従者たちが驚きの声を漏らす。子爵も目を細め、冷たい水を口に含むと、わずかに眉を上げた。
「……素晴らしい。確かにこれは、人々の暮らしを変えるだろう。だが、これを造るには?」
「ミスリルが必要です」
ソウマは率直に言った。
「少量のミスリルを融通いただければ、この冷却箱は量産できます」
子爵は静かに杯を置いた。
「興味深い。だが……ミスリルの流通はすべて公爵殿の手で押さえられている。そういう契約だからな。少量でも融通する事はできない。彼らの力を借りねば、この領の未来は守れない」
リーナが身を乗り出す。
「それでも!」
喉の奥が焼けるように熱かった。
だが言葉は続かない。
「リーナ嬢」
子爵は穏やかに遮った。
「君の言葉は理想に満ちている。だが、私には目の前の領民を守る義務があるのだ。公爵と組めば、領民は飢えない。それで十分だ」
リーナの拳が膝の上で震えた。俺は唇を噛み、視線を伏せる。
そのとき、扉が叩かれた。従者が駆け込み、一人の青年を伴った。旅装のまま、息を整えながら現れたのはルッツだった。
「遅れて申し訳ありません。……子爵殿。ひとつだけ、見過ごせぬ事実を持ってまいりました」
場の空気が一変した。リーナが息を呑み、ソウマが顔を上げる。子爵の瞳が細まり、静かに次の言葉を待つ。
その緊張を残したまま、幕は下りた。




