第6話「九九の歌」
前回は【魔法の理解】が少しだけ深まる。
今回は【人間関係】が動き出します。
今日はいつもより早い時間に出発だったが、カイの姿がない。
「カイ! 置いてくよ!」
リーナの声が響く。
慌てて飛び出してきたカイは、まだ片足の靴紐も結べていない。
「す、すみません姐さん!」
「遅刻は三度目だろ。次は荷車に縛りつけて運ぶからね」
本気とも冗談ともつかない声に、カイは青ざめて頭を下げた。
その日の道中でも、カイは失敗を繰り返した。
干し肉を売る商人に値を吹っ掛けられても言い返せずに立ち尽くす。
荷の数を数え間違え、リーナに鋭い視線を投げられる。
その横で俺が相場を即座に口にすると、商人は肩をすくめて値を下げ、リーナは短くため息をついた。
その日の終わり、カイは焚き火の火を見ながら呟いた。
「俺、もっとできるようになりてぇな。荷物も遅れず運んで、計算も一瞬でできるくらいに」
その言葉は、ただの口先ではなく、本気の響きを帯びていた。俺はその横顔を横目で見ながら、静かに言った。
「じゃあ、まずは九九を覚えるところからだな」
小枝を持ったまま、俺は四角を九つ並べた。
「九九という表だ。九までの掛け算を、丸ごと覚えてしまう。丸暗記は非効率に見えるが、実は最短だ。カイ、お前は毎朝、荷車の順番を覚えているだろう?」
「まあ、体で」
「同じだ。体で覚える。声に出せ」
俺は一の段から、ゆっくりと唱え始めた。
「いんいちがいち、いんにがに、いんさんがさん……」
「お、おう?」
「二の段。にいちがに、ににんがし……」
「……なんだこれ、歌みたいだな」
「歌だ。言葉に節をつけると記憶は定着しやすい。人間の脳は音楽に弱い」
最初は訝しげに聞いていたカイが、三の段に入る頃には口を半開きにしていた。
「さんぱにじゅうし……四の段!ししじゅうろく……」
「待て。飛ばすな」
「ごめん、なんかノッてきた」
「いいか?まずは二、三、四の段から。丁寧に繰り返すぞ」
周りの護衛たちが、面白がって聞き耳を立てる。ミラも、くすくす笑いながら小声で復唱しているのが見えた。
「じゃあ確認だ。表をみながらでいい。にご」
「じゅう!」
「三の段。さんし」
「じゅうに!」
「よし。じゃあ……七の段。しちに」
「……十四!」
カイは額に汗をにじませながらも、確かに答えていた。その姿に、周りから「おお」と声が漏れる。
カイの目が少しだけ光を増した。理解の兆しの色。
リーナも豪快にエールを煽りながら、ちらちらとこちらを見ている。口元に笑みが浮かんでいるのが遠目にも分かった。
「……なあ」
ひとしきり問題を解いてから、カイがぽつりと言った。
「むずかしいことを、簡単に言うの、うまいな。なんか……先生っぽい」
その言葉に、周囲の空気がわずかに揺れた。近くの護衛が「お?」と反応し、ミラが口元を押さえて笑う。
「先生、ねぇ」
いつの間にかそばに来ていたリーナの声。振り向くと、彼女は片肘を膝に乗せ、面白がる子どものような顔でこちらを見ていた。
「ほら、せんせ。初授業は大人気じゃないか」
「やめろ」
「せ・ん・せー」
語尾を伸ばす。完全にからかっている。
カイは手を叩いて笑った。
「いいじゃん!“新人”とか“異郷人”より百万倍マシだろ!先生!」
「勝手にしろ」
「はーい、先生!」
軽口は輪を広げ、隊列の後ろの方からも「せんせー!」などと調子のいい声が飛んだ。
あまりにもうるさいので、振り向きもせずに言う。
「宿題を出す」
途端に静かになった。
「九九の二から五まで、寝る前に十回ずつ声に出せ。言い淀んだら最初から。明日、口頭試験をするぞ」
「え、えええ……」
「先生ってそういうものだろう?」
宿題を出されていないはずのミラまでどうしよう、という顔をしている。リーナが肩を震わせて笑い、それがさらに周りの笑いを誘った。
焚き火の明かりが明るく揺れる。
九九をぶつぶつ唱える声。笑いながら間違いを言い合う声。 数字の反復は、歌と同じで、群れの鼓動を整える。
夜が更けると、カイはそっと近づいてきた。
「先生」
「……どうした?」
「ありがとな」
「礼を言うほどのことじゃない」
「いや、すげぇんだよ。世界がちょっと、扱いやすくなった感じがする」
その感想は、少しだけ俺の胸に残った。
世界を扱いやすくする。それは、俺が物理を選んだ理由の一つでもある。
火の向こうで、リーナがあぐらをかいて座っていた。炎に照らされた横顔は、いつもの快活さに加えて、わずかに柔らかい線があった。
視線が合うと、彼女はわざとらしく口を尖らせて言った。
「せんせ、明日の相場も教えておくれよ」
「相場は授業ではない。現場だ」
「おっと、それはごもっとも。……なかなか言ってくれるじゃないか」
夜風が鍋の匂いを運び、誰かが「にく、にじゅうはち!」と自信満々に言って、周りが爆笑する。
(小声で、口元を隠して)「に……にしがはち、にごじゅう……あ、ホントにこれ分かりやすい!」コハルも隠れて?練習中だ。
俺は焚き火の温度を手のひらで測り、灰の舞い方から明日の風向きを推測した。
隣でカイが「先生、風にも九九ってある?」と馬鹿なことを言う。
「あるかもな。だがお前にはまだ早い」
「マジかよ、風の九九……かっけぇ」
「技みたいな名前を勝手に付けるな」
笑い声がまたひとつ増えた。
“先生”という音は、意外に悪くない響きだった。
地面に書いた九九表を消す。地面に書いたものはこうすれば簡単に消えてしまう。しかし、何度も繰り返したそれは、いつまでも消えない確かなものとして心と体に染み込み定着する。
ソウマの存在が、まるで覚えたての九九のように、ゆっくりと、しかし着実に商隊に染み渡っていることに気付いているのは、ほんの僅かな人だけだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
次回は【魔の山へ】
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