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虚晶の賢者――異世界魔法を科学する  作者: kujo_saku
第五章【絶望への序曲】
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第61話「接触」

水を回す掛け声と、桶がぶつかる音が交錯していた。火はまだ生きている。


息を潜めたようにくぐもった低い唸りが、建物の骨の奥でくすぶっている。焼けた木の匂いに、油の尖った臭気が混じっていた。偶然ではない――誰かが、ここに火をかけた。


 俺はリーナを抱えたまま、片膝で支えながら、彼女の呼吸のリズムを確かめた。荒い。だが整いはじめている。水桶を持った少年が駆け寄ってくるのが見えた。


「――借りるぞ」


 少年から桶を受け取り、リーナの髪に軽く水を落とす。焦げた匂いが薄れ、すすが流れて路地の溝へと黒い筋を作った。


「リーナ!」  鋭い声が風を裂いた。影が一つ、屋根から石畳へと音もなく降り立つ。コハルだ。


緋色の瞳が火の粉を映している。肩で息をし、額には汗。右手には巻いたままのムチ。柄の金具が、心臓の鼓動に合わせるみたいに微かに震えていた。


「リーナ! ごめん、逃した。――大丈夫!?」


  膝をついたコハルは、抱えられたリーナの顔色を一瞥し、安堵と悔しさの混じった息を吐く。次いでソウマに視線を寄越し、深く頭を下げた。


「ソーマ、ありがとう。……間に合ってよかった」


「間に合ったのは、コハルが追ってくれてたからだよ。入り口の方まで火をかけられなかったからな」


 リーナがかすれた声で言い、薄く笑った。


咳がひとつ、細い肩を震わせる。コハルの手が小さく震えた。握ったムチの柄を、意識して離す仕草。ほんの一拍、目の奥で炎が踊った。危うい光。タリアが言っていた“高揚”の尾を引いている――


「ソウマさん!」

「先生!」

「ソウマ!」


 街路の向こうから、聞き慣れた声が駆けてくる。カイ、ミラ、そしてタリア。荷馬車の御者が遠巻きに見守り、野次馬が円を膨らませていく。


「先生、リーナ姉! 無事か!」 

「よかった……本当に……」  


ミラはリーナの手を握り、涙を堪えるように笑う。タリアは燃え残る屋根の輪郭を一瞥し、鼻でゆっくり息を吸った。


「……油だな。撒いた量が多い。火のまわし方も雑じゃない。手慣れてるな」


 カイの目に怒りが点る。

「誰だ。こんな真似、誰が――」


 ミラだけが、別の方向を見ていた。ざわめく人垣にじっと焦点を合わせ、ほんの小さな声で何かを数回繰り返す。唇の内側で、記憶の引き出しを撫で直しているように。


「……どうした?」

 異変に気づいたカイが、俺の袖を引いた。


「先生。さっきからミラの様子が変だ」



 ミラの視線の先を追う。そこに“それ”はいた。



どこにでもいる、疲れた労働者の顔。褪せた上着、使い古しの靴。野次馬の列の、少し後ろ。誰の記憶にも残らないはずの顔が、ミラの瞳の中だけで鋭く輪郭を得ていた。



「ソウマさん……」  



ミラは震える指で、その男を指した。指先は迷いなく、まっすぐだ。



「――あの人!村にいました。クラウスさんとよく話してました。エルンスト様が非難された時、真っ先に声を上げたのも……。あの人です!」



 喉の奥に冷たいものが落ちる感覚。


村の広間、怒号。練られた言い回しで群衆の呼吸を合わせ、感情の温度を一気に上げておいて――最後に火種を投げ入れる役。ソウマの脳裏に、散らばっていた点が一本の線で繋がった。


(村を分断に導いた声……クラウスの背を押し、俺たちの情報を抜いたのも――コイツか!)


 男が、こちらを見た。体を動かしていない。首だけが、粘土をねじるみたいな不気味さで、ゆっくりとこちらに回った。目が笑っていない笑顔。縦に伸びた、薄い唇が、にたり、と裂ける。



「――あれぇ? おかしいなぁ」  



声は軽い。宴席で気安く冗談を言うときのような調子だ。だが、その軽さが耳にかかった途端、皮膚に細かい鳥肌が立つ。鼓膜の内側で、どこか別の音が重なっている感じがした。音なのに触れる。声なのに匂いがする。そんな奇妙な不快感。



「どうしたの、ミラちゃん。舞台のヒロインが、裏方の顔なんて覚えちゃダメだよー。覚えるのは台詞と段取りだけでいい。雑用係は、ほら、たくさんいるんだからさぁ」  


男は肩をすくめ、大げさに手を広げた。野次馬の何人かが、何もないのに一歩退いた。体が勝手に距離を取る。すぐそばにいるのに、遠い。


 コハルが一歩、前に出ようとする。ムチの柄が、乾いた音で半回転した。俺は肩で彼女を制した。コハルの喉が小さく鳴った。獣が、檻の中で爪を立てる音に似ている。いま、柄に触れさせてはいけない――直感が言う。


「あなたが、やったの?」  


ミラの声が、驚くほど真っすぐに響いた。泣き声ではない。震えではない。火の前で固まった鉄みたいに、芯だけが熱を保ったまま、澄んだ音を保っていた。


 男は嬉しそうに目を細める。


「“あなたが、やったの?”か。いいね。完璧な問いかけ。観客の共感を引く定型の一つだ。――でもね」  


男は口元だけで笑って、首を傾けた。


「ミラちゃんは、ちゃんとその異郷人を止めなきゃ。ライバルが生き延びちゃったじゃないか」


“”本当は、あの女に死んでほしかったんだろ?””


「そんなことは、絶対にありません」



 刹那、空気の張りが変わった。熱が引いて、冷たい刃が場に下りたように。ミラの瞳がブレずに、まっすぐに男だけを見据えている。


これがこの娘の強さだ。揺さぶりに弱いのは、事実を信じ切れていないからだ。ミラは、いま、確かに自分を信じている。


 男は、子供が新しい玩具を見つけたときの表情で手を打った。


「いいね。そういう返し、好きだよ。硬くしなやかな芯。折れない意志。観客、泣いちゃうやつ。――でも」


 男の頬が、ふくらんだ。



「下がれ!」  


俺の言葉が出るより速く、カイが動いた。


風を裂く乾いた音。見えないはずの細い矢が、光を連れて飛んでくるのをソウマは“感じた”。



黒い細い線が一直線に伸び、ミラの眼前へ迫る!


――


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