第60話「唯一の魔法」
カイたちの商隊と共に街の中に入ったころには、かなり時間が過ぎていた。
火事の影響か、検問は解かれているのに列は一向に進まない。人々の顔には疲労が滲み、ざわめきが絶えず波打っていた。
風下なのだろう、鼻の奥に油の匂いが刺さる。
広場は無風だというのに、炎によって生み出された熱だけが一本の柱のように立ちのぼり、空気密度の差で景色がゆらいでいる。
肌の産毛がざわつき、嫌な予感が底から湧き上がった。
「――悪い。俺は先に行く。
宿の場所を教えてくれ」
振り返ると、カイが驚いた顔でこちらを見た。
「この通りをまっすぐだけど?」
「確認するだけだ」
短く告げ、石畳を駆け出す。腰袋から通信箱を取り出し、虚晶石を嵌めて魔力を流す。
「……リーナ、聞こえるか」
耳にあてた小箱は沈黙を返す。返答はない。カイに教わった宿へ急ぐほどに、明らかに火事の中心へ近づいていくのがわかった。
そして、気づく。
――火事の現場は、宿だ。
近づくほどに空気は熱を帯び、炭の微粒子が喉に張りつく。
外壁の隙間からは炎が階段を舐めるように走っていた。
……油が撒かれている。ここまでやるのは、素人じゃない。
通信箱を再び起動しながら、外壁ぎりぎりまで寄っていた。
距離は関係ない――そんなことは分かっているのに、足が勝手に火の方へ向かう。
「リーナ。……聞こえるか」
最初は雑音だけ。さらに一歩踏み込み、皮膚が焼ける寸前の熱に顔をしかめながら耳を澄ませる。
「リーナ! 応答しろ!」
ノイズに引き裂かれながら、かすれた声が返ってきた。
「……ソ、ソウマ……?」
背後では木材がはじける音が連続して聞こえる。
「まだ中か。部屋はどこだ」
「……一階の突き当たり。扉が……火で塞がれて……窓も釘打ち……ごほっ……やられたよ」
「床に手をつかず低い姿勢を維持しろ。口と鼻を濡れ布で覆え。煙を吸うなよ」
「濡れ布……水差しはある。帳簿が燃えたら損失が――」
「損益計算は後だ。生き延びてから決算する」
遠くの路地で「火事だ! 水を回せ!」という叫びが上がる。
消火のために運ばれてきた水樽が、次々と広場へ並べられていく。
その列に半ば突っ込むように走り込み、俺は樽の縁を掴んで引き寄せた。
両腕ごと樽を傾けて――頭から水を浴びる。
冷水が一気に全身を叩き、上着も靴も一瞬でびしゃびしゃになる。
その冷たさが、かえって意識を研ぎ澄ませた。
「リーナ、聞こえるか」
「……聞こえてる。煙が薄いところに来た……」
「よし。――三十数える。数え終わったら、咳を我慢して息を止めていろ」
わずかに笑う気配が返った。咳の隙間のいつもの調子。
「……正直、扉をぶち破るしかないね。ワンダリンググリムでもないと無理だろうけど」
「そのグリムはカイが倒した。――代役で我慢しろ」
「ふふ……了解。指示は?」
「扉からは離れろ。蝶番とは反対側の壁際に伏せて、腕で顔を覆え。飛沫に当たるな」
「……ソウマ。――たぶん間に合わない……」
炎の音にかき消されるような、短い沈黙。
「……でも、あんたなら来るんでしょ」
「……待ってる」
一拍、胸の奥が静まった。
俺は深く息を吸い、声を低くして数字だけを世界の中心に据えた。
(――一、二、三、四……)
熱の流れを足裏で感じ、木材の膨張点や梁の位置を頭の中で描く。
焼け釘の匂い、軋む音が耳を刺す。
(……二十七、二十八、二十九――)
樽の水をもう一杯かぶる。
目を閉じる。
まぶたの裏で、火の動きを数式のように並べる。
そして――全部まとめて捨てた。
考えるな。動け!
喉の奥で息をひとつまとめて――
「三十」
火の中へ踏み込んだ。
熱が皮膚を剥ぐように襲い、産毛が瞬時に縮む。視界は赤に支配され、世界が引き伸ばされる。
袖で口元を覆い、廊下を走る。突き当たりの部屋。そこだ!!
肩から扉へ体当たりする。
乾いた音とともに蝶番が折れ、楔が飛ぶ。炎の舌が伸びてくる。
濡れ布越しでも頬が焼ける痛みに、逆に笑いそうになる。
床に影。咳き込みながら伏せる彼女。
腕を伸ばし、手首を掴む。――生きている。
「リーナ!」
指先が、かすかに力を返してくる。
考える暇もなく抱き上げる。火の粉を浴びながら、崩れた扉を跨いで走る。視界は赤に潰れ、肺は悲鳴を上げる。
今は考えるな。足だけを動かせ。
宿の入り口が見える。わずかな距離が果てしなく遠い。それでも、一歩。また一歩。
ただ前へ。
天井が崩れ落ち始め、燃えた板や金属片が容赦なく背を焼く。それでも、考えるのはリーナに破片が当たらないようにする事と一歩を出し続けること。
――今はそれしかできない。
――――
終わりのない地獄のようだったが、ふと気づけば外へ出ていた。
外気に触れた瞬間、肺に冷気が焼き付くように流れ込み、世界の色が一気に戻った。
その世界は――騒がしかった。
「水をもっと運べ! こっちは塞げ!」
「危ない、離れろ! 屋根が落ちるぞ!」
「誰か中に人がいないか確認を――!」
怒号、走る足音、樽を引きずる音。
火と水がぶつかる音が絶え間なく響き、焦げた煙が風に巻かれて横殴りに流れる。
人々が駆け回り、誰かの叫びが夜気にちぎれて消える。世界全体が慌ただしく揺れていた。
その渦中で――
俺とリーナだけが、時間から外れたみたいに止まっていた。
石畳に座り込み、背で火の粉の雨を受け止める。濡れた上着から白い蒸気が立つ。腕の中のリーナが咳き込み、そして笑った。
周囲の喧騒は、まるで遠くの別世界の出来事のようだった。
「……あんた、バカじゃないの? こういう時こそ、空気を減らして火事を消すとか、洪水を起こすとか――それが“先生”でしょ」
息を整えながら、短く答える。
「ひとつ発見だ。人間は本当に焦ると、どうやら頭が真っ白になるらしいな」
彼女はすすまみれの指で、俺の胸元をちょん、と突いた。
「そんなこと、みんな知ってるから。……だいたい、あんな分厚い扉ぶち破る力、どこに隠してたの?」
口角だけを動かす。
「“火事場の馬鹿力”ってやつだな。非科学的だと思っていたが、どうやら実在するらしい。……世の中、まだまだ知らないことばかりだ」
目を細めたリーナが、熱で潤んだ睫毛の影から、かすかに笑う。
「なにそれ。変な言葉……」
「ああ、俺の元いた世界の唯一の魔法だ」
彼女は目を細め、涙に濡れた睫毛の奥でかすかに笑った。
「……変な魔法」
遠くで水桶の音が響き、誰かが怒鳴り、誰かが祈る。
抱き合う体勢のまま、焦げた木の匂いと微かな火の音が、ゆっくり現実の輪郭を戻していく。
胸の鼓動が落ち着くたび、腕の中の彼女が確かに生きているという事実だけが、ただ鮮烈にそこにあった。




