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虚晶の賢者――異世界魔法を科学する  作者: kujo_saku
第五章【絶望への序曲】
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第60話「唯一の魔法」

カイたちの商隊と共に街の中に入ったころには、かなり時間が過ぎていた。


火事の影響か、検問は解かれているのに列は一向に進まない。人々の顔には疲労が滲み、ざわめきが絶えず波打っていた。


風下なのだろう、鼻の奥に油の匂いが刺さる。


広場は無風だというのに、炎によって生み出された熱だけが一本の柱のように立ちのぼり、空気密度の差で景色がゆらいでいる。


肌の産毛がざわつき、嫌な予感が底から湧き上がった。


「――悪い。俺は先に行く。

宿の場所を教えてくれ」


振り返ると、カイが驚いた顔でこちらを見た。


「この通りをまっすぐだけど?」

「確認するだけだ」


短く告げ、石畳を駆け出す。腰袋から通信箱を取り出し、虚晶石を嵌めて魔力を流す。


「……リーナ、聞こえるか」


耳にあてた小箱は沈黙を返す。返答はない。カイに教わった宿へ急ぐほどに、明らかに火事の中心へ近づいていくのがわかった。


そして、気づく。

――火事の現場は、宿だ。


近づくほどに空気は熱を帯び、炭の微粒子が喉に張りつく。


外壁の隙間からは炎が階段を舐めるように走っていた。

……油が撒かれている。ここまでやるのは、素人じゃない。


通信箱を再び起動しながら、外壁ぎりぎりまで寄っていた。


距離は関係ない――そんなことは分かっているのに、足が勝手に火の方へ向かう。



「リーナ。……聞こえるか」



最初は雑音だけ。さらに一歩踏み込み、皮膚が焼ける寸前の熱に顔をしかめながら耳を澄ませる。


「リーナ! 応答しろ!」


ノイズに引き裂かれながら、かすれた声が返ってきた。


「……ソ、ソウマ……?」


背後では木材がはじける音が連続して聞こえる。


「まだ中か。部屋はどこだ」

「……一階の突き当たり。扉が……火で塞がれて……窓も釘打ち……ごほっ……やられたよ」


「床に手をつかず低い姿勢を維持しろ。口と鼻を濡れ布で覆え。煙を吸うなよ」


「濡れ布……水差しはある。帳簿が燃えたら損失が――」


「損益計算は後だ。生き延びてから決算する」




遠くの路地で「火事だ! 水を回せ!」という叫びが上がる。


消火のために運ばれてきた水樽が、次々と広場へ並べられていく。


その列に半ば突っ込むように走り込み、俺は樽の縁を掴んで引き寄せた。



両腕ごと樽を傾けて――頭から水を浴びる。



冷水が一気に全身を叩き、上着も靴も一瞬でびしゃびしゃになる。

その冷たさが、かえって意識を研ぎ澄ませた。



「リーナ、聞こえるか」


「……聞こえてる。煙が薄いところに来た……」


「よし。――三十数える。数え終わったら、咳を我慢して息を止めていろ」


わずかに笑う気配が返った。咳の隙間のいつもの調子。


「……正直、扉をぶち破るしかないね。ワンダリンググリムでもないと無理だろうけど」


「そのグリムはカイが倒した。――代役で我慢しろ」


「ふふ……了解。指示は?」


「扉からは離れろ。蝶番とは反対側の壁際に伏せて、腕で顔を覆え。飛沫に当たるな」




「……ソウマ。――たぶん間に合わない……」


炎の音にかき消されるような、短い沈黙。


「……でも、あんたなら来るんでしょ」



「……待ってる」




一拍、胸の奥が静まった。


俺は深く息を吸い、声を低くして数字だけを世界の中心に据えた。


(――一、二、三、四……)


熱の流れを足裏で感じ、木材の膨張点や梁の位置を頭の中で描く。


焼け釘の匂い、軋む音が耳を刺す。

(……二十七、二十八、二十九――)


樽の水をもう一杯かぶる。

目を閉じる。


まぶたの裏で、火の動きを数式のように並べる。

そして――全部まとめて捨てた。


考えるな。動け!



喉の奥で息をひとつまとめて――


「三十」

火の中へ踏み込んだ。



熱が皮膚を剥ぐように襲い、産毛が瞬時に縮む。視界は赤に支配され、世界が引き伸ばされる。


袖で口元を覆い、廊下を走る。突き当たりの部屋。そこだ!!


肩から扉へ体当たりする。


乾いた音とともに蝶番が折れ、楔が飛ぶ。炎の舌が伸びてくる。


濡れ布越しでも頬が焼ける痛みに、逆に笑いそうになる。


床に影。咳き込みながら伏せる彼女。

腕を伸ばし、手首を掴む。――生きている。


「リーナ!」


指先が、かすかに力を返してくる。


考える暇もなく抱き上げる。火の粉を浴びながら、崩れた扉を跨いで走る。視界は赤に潰れ、肺は悲鳴を上げる。


今は考えるな。足だけを動かせ。


宿の入り口が見える。わずかな距離が果てしなく遠い。それでも、一歩。また一歩。


ただ前へ。


天井が崩れ落ち始め、燃えた板や金属片が容赦なく背を焼く。それでも、考えるのはリーナに破片が当たらないようにする事と一歩を出し続けること。


――今はそれしかできない。



――――


終わりのない地獄のようだったが、ふと気づけば外へ出ていた。



外気に触れた瞬間、肺に冷気が焼き付くように流れ込み、世界の色が一気に戻った。


その世界は――騒がしかった。


「水をもっと運べ! こっちは塞げ!」

「危ない、離れろ! 屋根が落ちるぞ!」

「誰か中に人がいないか確認を――!」


怒号、走る足音、樽を引きずる音。

火と水がぶつかる音が絶え間なく響き、焦げた煙が風に巻かれて横殴りに流れる。


人々が駆け回り、誰かの叫びが夜気にちぎれて消える。世界全体が慌ただしく揺れていた。


その渦中で――


俺とリーナだけが、時間から外れたみたいに止まっていた。


石畳に座り込み、背で火の粉の雨を受け止める。濡れた上着から白い蒸気が立つ。腕の中のリーナが咳き込み、そして笑った。


周囲の喧騒は、まるで遠くの別世界の出来事のようだった。



「……あんた、バカじゃないの? こういう時こそ、空気を減らして火事を消すとか、洪水を起こすとか――それが“先生”でしょ」


息を整えながら、短く答える。


「ひとつ発見だ。人間は本当に焦ると、どうやら頭が真っ白になるらしいな」


彼女はすすまみれの指で、俺の胸元をちょん、と突いた。


「そんなこと、みんな知ってるから。……だいたい、あんな分厚い扉ぶち破る力、どこに隠してたの?」


口角だけを動かす。


「“火事場の馬鹿力”ってやつだな。非科学的だと思っていたが、どうやら実在するらしい。……世の中、まだまだ知らないことばかりだ」


目を細めたリーナが、熱で潤んだ睫毛の影から、かすかに笑う。


「なにそれ。変な言葉……」


「ああ、俺の元いた世界の唯一の魔法だ」


彼女は目を細め、涙に濡れた睫毛の奥でかすかに笑った。


「……変な魔法」



遠くで水桶の音が響き、誰かが怒鳴り、誰かが祈る。


抱き合う体勢のまま、焦げた木の匂いと微かな火の音が、ゆっくり現実の輪郭を戻していく。


胸の鼓動が落ち着くたび、腕の中の彼女が確かに生きているという事実だけが、ただ鮮烈にそこにあった。


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