第56話「無力の抗い」
夕暮れの林。
風は止み、葉擦れの音ひとつしない。
その沈黙の中で、異様に細長い影がじっと立っていた。
――ワンダリンググリム
にたり、と裂けた口が笑みを刻む。
動かない。ただこちらを見ている。
「……刺激するなよ」
声を潜め、二人にだけ届くよう告げた。
「あれは行動に一貫性がない。何もしないまま立ち去ることを願おう。迂闊に挑発するのはまずい」
ミラは青ざめ、祈るように胸に手を当てた。
タリアは口を結び、剣に触れかけた手をそっと下ろす。
「……武器、あるか」
タリアに小声で尋ねる。
タリアは即答した。
「ない。少なくとも、あいつに通るような武器は今ここには無い」
俺は頷き、視線を怪物へ向ける。
その挙動を観察する。呼吸の間隔、肩の揺れ―。
右肩のあたりが、不自然に膨らみ、微かに脈動しているのを見つけた。
(……核。あれがこの個体の弱点か)
ただし、そこにたどり着ける保証は何もない。
一歩間違えば全滅だ。
「……どうする?」
タリアが小声で問う。
選択肢は三つ。
後ずさりし距離を取るか。
あえてゆっくりと横を通り抜けるか。
それとも立ち止まり、ただやり過ごすか。
夕日が林の隙間から差し込み、赤い影が揺れた。
三人は息を殺し、判断を迫られていた。
俺は歯を噛みしめながら、村の夜を思い出す。
――虚晶石を飲み込んで身体を強化するか?
しかし、あれは最後の最後。使ったとしてもトドメを刺すことはできない、所詮はただの時間稼ぎだ。寿命を削るような無茶をして、今すぐに切るカードじゃない。
「……武器以外の道具は? 何かないか?」
俺がもう一度問うと、タリアが苦笑混じりに腰袋をあさった。
「あるにはあるけど……ロクなのがねえ」
取り出したのは三つ。
「お守り代わりに一人一個持てよ。役に立つかは……運次第だ」
ひとつは、一瞬だけ強烈な閃光を放つ小玉。
ひとつは、煙幕を少しの時間だけ出す壺。
そして最後は――音が鳴るシャボン玉を吐き出す、始めてタリアが村に来た時の魔道具。
「……本気でこれでどうしろと」
眉をひそめる。
タリアは肩をすくめて笑った。
三人は互いに目配せし、それぞれを手に取った。
俺は閃光玉。ミラは煙幕。タリアは、例のシャボン玉。
「街道の方にじりじり進もう。迎えが来るならあっちだ。逃げるにしても、街側に逃げた方が生き残る可能性は上がる」
二人も頷いた。
一歩ずつ。
落ち葉を踏む音すら、心臓の鼓動より大きく聞こえる。ワンドリンクグリムはまだ、こちらを凝視したまま――
その時。
「……あ」
タリアの手が滑った。
ぱちん、と軽い音。
次の瞬間、装置から泡がぷかぷかと生まれ、割れた時に音が鳴る。ワンダリングハウンドの興味を引くには充分な音。
三人の顔が同時に青ざめる。
……終わった。
だが、ワンダリンググリムは動かなかった。
首をぎぎ、と軋ませてシャボン玉を見上げ――にたりと笑った。
ふらふらと歩み寄り、まるで子供の真似をするかのように、手を伸ばし始める。
「……遊んでやがるのか」
シャボン玉は風に流され、ゆらゆらと街道側へ。ワンダリンググリムはそれを追いかける。
虚ろな瞳のまま、ぎこちない足取りで。
「……今だ、街の方へ進むぞ」
俺は息を殺して囁く。
三人は街の方に背を向け、ワンダリンググリムからは目を離さないようにしながら後退を続けた。
シャボン玉が消えるまでの、ほんのわずかな時間。それでも、命を繋ぐ隙には十分だった。
これでワンダリンググリムとソウマたちの位置関係が変わる。まずは少しだけ状況は変えられた。
しかし、泡はやがて弾け、音も消える。
……静寂。
次の瞬間、ワンダリンググリムの顔が変わった。
裂けた口が、獲物を見定めた肉食獣のそれに戻る。ぎぎぎっ、と軋む音を立て、四肢が一斉にしなった。
跳躍の構え。
「――来るぞ!閃光玉を使う!合図に合わせて目を閉じろ!3, 2, 1 !」
叫んだ瞬間、林を震わせるように巨体が飛んだ。
赤い夕陽がその背を照らす。あとわずかで爪が届くというタイミングで閃光玉が炸裂した。
死が迫る気配に、三人の視界が狭まる――。
視界を焼かれたワンダリンググリムが、ぎぎぎ、と狂ったように軋み声を上げる。
次の瞬間――
「ギィアアアアア!!」
裂けた腕が周囲を薙ぎ払い、太い木が容易くへし折られた。
幹が飛び、枝葉が散り、破壊音が鼓膜を貫く。
「……化け物め」
ソウマは冷や汗をかきながらも、すぐに声を張り上げた。
「ミラ!煙幕だ、今しかない!」
「はい!」
ミラが魔道具を地面に叩きつける。
紫灰色の煙が広がり、夕陽を飲み込むように三人を包んだ。
「走れ!街の方向だ、絶対に止まるな!」
三人は後ろを振り返ることなく、ただ無心に街道へと駆け出す。
――木が倒れる音。
――煙を掻き分ける音。
背後から迫る轟音に、誰一人として振り返る余裕はなかった。
必死に走り、肺が焼けるほど息を吐いた頃。
ようやく破壊音が遠ざかった。
「……はぁ、はぁ……なんとか撒けたか……?」
足を止め、肩で荒く息をした。
ミラも涙目で頷き、タリアが膝に手をついて笑う。
「ふぅ……危なかったな。煙幕、効いたじゃねえか!」
その瞬間だった。
――気配。
ぞわりと背筋を這い上がる悪寒。
俺が振り返ると、すぐそこに“それ”がいた。
煙を突き抜け、一瞬で追いついていたのだ。
虚ろな瞳が三人を映し、裂けた口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「……っ!?」
ミラの喉から悲鳴が漏れる。
……静寂。
風も止み、葉擦れも消える。世界が怪物だけを映す舞台となった。
俺はひとり呟く「……くそ、どうする……」
タリアは剣に手をかけ、無意識に唇を噛んだ。
ミラは涙声で「ソウマさん……」と名を呼ぶ。
その刹那――ワンダリンググリムの影が覆いかぶさるように迫ってきた。
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