第54話「翻弄」
村の広場に、男爵軍の緊張した声が響いていた。
「あんなに高く飛んでいってしまった者を、本当に追えるのですか?」
兵の一人が恐る恐る問う。
コンラートは冷ややかに笑みを浮かべた。
「馬鹿を言うな。あんなもの、ずっと飛べるはずがない。どんな魔道具でも消耗品、限界は近い。逃げる方向も限られる。追え」
男爵は汗を拭きながらも消極的な顔を見せる。
「しかし、追撃隊を動かすには準備が……費用も……」
「費用だと?」コンラートの視線が鋭く閃いた。
一瞬で男爵の背筋が凍りつく。
有無も言わさぬその様子に男爵軍は準備を始めていた。
その場に、杖を手にした一人の男が現れた。
「おやおや。男爵様、何やらご不自由そうですね」
軽やかな口調で割って入ったのは、商人風の男――ルッツである。
「な、なんだ貴様」
「失礼。私はルッツと申します。黒いミスリルの調達を任せれて、まかりこしました。どうぞお見知りおきを」
「黒いミスリル?ああ、肥料のことか。今は忙しい!あとにしろ」
コンラートにぶつけられない怒りが溜まっていたせいか、オットー男爵は冷ややかに答えた。
「これは大変失礼を。なにせこれまでの注文とは桁が違いますので、つい焦ってしまいました」
「何?そんなに多いのか?」
俄に興味を持つ男爵にコンラートが釘をさす。
「そのような話は後だ。追跡の準備を急げ」
刺すような威圧感に全員が我に返り冷や汗を流す。しかし、1人だけ涼しげにルッツが反応した。
「おや!貴方様はヴァルシュタイン公爵閣下の懐刀として名高いコンラート様ではありませんか!いやー、こんなところでお会いできるとはなんたる幸運!!」
無言のコンラートはルッツを睨みつけるが、ルッツの話は止まらない。
「私、アルノルト伯爵のもとで少々お世話になっておりまして。ところで、このような他領にどんなご要件で?」
彼は穏やかな笑みを浮かべ、ちらりとコンラートへ視線を送る。
場の空気が凍った。
コンラートは目を細め、一歩前に出る。
「……お前ごときに説明する義理はない」
低い一言で切り捨てる。
ルッツは深々と頭を下げ、すぐに引いた。
「もちろんです。これは無礼を。……ただ、僭越ながらご挨拶をと思いまして。以後お見知り置きを」
その軽やかな立ち振る舞いに、周囲の兵たちはかえって息を呑む。アルノルト伯爵の名を持ち出されたことで、コンラートも容易に動きづらくなったのは明らかだった。
やがて、コンラートは踵を返し、男爵へ命じる。
「追撃隊を編成しろ。すぐにだ」
吐き捨てるように言い残し、その場を去っていった。
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残された男爵に、ルッツがにこやかに近づく。
「追撃、ですか。どんなご事情で?」
男爵は面倒と思いつつも、アルノルト伯爵の名が出た事と大量注文の話があり無碍に断れない。
「ここの研究員を確保するつもりだったのだが、先ほど魔道具か何かで空を飛んで逃げた。そいつらを追わねばならん」
その言葉からは明らかな反発が見て取れた。
「いやはや、飛んで逃げた者を追えとは、コンラート様もなかなか厳しいことをおっしゃいますな」
小声だが、なぜかよく聞こえる声。男爵は顔をしかめるが、ルッツはさらに畳みかける。
「私どもには大量の発注があるのです。護衛をお願いできませんか? もちろん色はつけます。コンラート様には『追撃に出ました』と報告するだけでいいじゃないですか。費用は誰が出すのです? コンラート様が? 違うでしょう」
男爵の目に迷いが浮かび、やがて小さな欲望の光が勝った。
「……分かった。護衛を引き受けよう。コンラート様にはバレぬように動けよ」
ルッツは満足げに笑い、肩を叩いた。
「ありがとうございます。今後とも仲良くいたしましょう。お互い――稼ごうではありませんか」
そのやりとりを、護衛として同行していたダンカンが見ていた。
ごつい腕を組んでいた彼が、にやりと笑いながら声をかける。
「……あんた、すげーな。コンラートとかいう将軍? 俺でも正直ビビっちまってたのに」
ルッツは一瞬だけ肩を落とし、苦笑を浮かべた。
「いやいや、恐ろしかったですとも。……リーナ様も、初仕事にとんでもないものを押し付けてきますな」
ダンカンは大声で笑い、肩を叩いた。
「ははっ! そりゃあのリーナらしい!」
広場に漂う緊張はまだ消えていなかったが、その一角だけは奇妙に軽やかな空気が流れていた。
ルッツはにこやかな笑みを保ったまま、内心で静かに息を整えた。手には嫌な汗がじわりと広がっいた。
――恐怖はあった。下手をすれば斬られたかもしれない。だが、それ以上に愉快だった。
大国の懐刀を前にしても、商人は商人の武器で渡り合える。銭勘定と契約書、人の欲、それこそが剣よりも鋭い刃となる。
いくら公爵の懐刀といえど、他領で領主に命令するのはおかしい。焦りが必ずある。だあらこそアルノルト伯爵の名を一度口にすれば、あのコンラートですらさわ軽々しく動けなくなる。
それを理解しているからこそ、迷わなかった。
――政治と戦場がどうであれ、最後に勝つのは利を制する者だ。
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少し離れた場所で、コンラートは一人立ち止まっていた。
ルッツの一挙手一投足、その裏にある契約の影。
そして、辺境の村を起点に大胆かつ的確な策を巡らせるリーナ。
「……リーナだったか。想像以上に厄介な女だ」
低く呟き、口元にわずかな笑みを刻む。尊敬する公爵閣下――迅速かつ的確な判断を持つ主人すら、今回は後手に回っている。
将としての矜持が疼く。
“私も翻弄されているな”
だが同時に、その手際と胆力には、刃のような美しさすら感じていた。
――アルノルト伯爵との契約、男爵の取り込み策。これらを一歩も違えず実行する人財と交渉力。並の商人で務まるはずがない。
むしろ、異郷人を救うためにそこまで迷わず動ける胆力――そこにこそ脅威を見た。
「……やはり、ただの商人ではない」
視線は遠い街道を射抜く。
その奥に、これからの戦いの盤面を大きく変える影が見えていた。




