第47話「忠誠という罠」
ヴァルシュタイン公爵邸。
リーナとアルノルト伯爵が提携を結んだとの報せを受け取った執務室には、重苦しい沈黙が落ちていた。
「……小賢しい真似を」
ヴァルシュタイン公爵の低い声が、広間に響いた。
「しかし閣下、伯爵と手を組んだとなれば、確かに有効な一手。介入は容易ではなくなりますな」
コンラートが慎重に口を開く。
公爵は椅子に深く身を沈め、机を指先でとんとんと叩いた。
「このままでは動きづらくなる。早々に決着せねばな。お前は村の近くまで行きλに直接指示を出せ、急がせろ。ただの禍石の毒性の研究ならば、そのまま戻ってこい、焦る必要はない。……だが、それ以上の情報だった場合は、時間が勝負だ」
瞳が鋭く光る。
「判断は任せる。事の次第によっては――エルンスト以外は消しても構わん」
コンラートは一歩踏み出し、深く頭を垂れる。
「はっ」
「直接、我が領の兵は動かせん。目立ちすぎるからな。オットー男爵の兵を使わせろ。あの男は金でどうとでもなる。いいか?判断を見誤るなよ」
「承知しております」
「伯爵に一歩先んじられる前に、決着をつける」
命令は冷徹で、迷いが一片もなかった。
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近郊の宿場町
石畳の街道沿い、馬留めの裏屋敷。
公爵側近は、旅装のまま質素な宿に逗留した。表向きは薬種の買い付け。裏では、オットー男爵の代官と密談し、必要な人手と封鎖線の段取りを詰める。
夜半、窓の格子を叩く合図。影が一つ、部屋へ滑り込む。
「遅い」コンラートの声は囁きにも満たない。
「準備に手間取りまして」
男はフードを下げないまま、ひざまずいた。
「村の内部に“耳”は確保済みです。声をかければ、すぐ会える者が一人」
「使え」
短い一言で解散の仕草。コンラートはわずかに目を伏せて思案する。
(ただの毒性研究なら放置。だが、臭いが違う――急がねば)
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クラウスは、肩に肥料袋の紐が食い込む痛みを感じながら、吐く息を整えていた。
畔道の向こう、荷下ろしが終わった若者たちが肩で息をする。
「クラウスさんも大変だね。」
柔らかい調子。責める色はない。だが、味方を求める熱が芯にある。
「しかし、いつになったら結論が出るんだろうな。このままだと俺たちは見捨てられるんじゃないのか?」
「エルンスト様も、もう少し頑張ってもらいたいな」
「そう……ですね」
「あ、悪い。別にエルンスト様に文句があるわけじゃねえんだ。俺たちが頼れるのはエルンスト様だけだからよ」
バツの悪そうな様子でその村人はそそくさと去っていった。周りの人も気まずそうに別の話を始める。
(エルンスト様は、公平だ。だが――現場の重さは、確かにここにある。どうすれば良いのだ。私に何かできる事はないのか.....)
そこへ、作業着の男が水桶を抱えて近づいた。顔は泥にまみれ、誰かの手伝いを終えたばかりの様子。
「おつかれさま。……あの、クラウスさん。向こうの木のところにいるきれいな服来た人がクラウスさんと話がしたいってよ。」
声をかけて来たのは、以前にも荷運びを手伝っていた隣村の村人だ。最近は時々愚痴を聞いてもらっている仲だ。
村外れの小さな祠の前。
薄闇が降り、木立の影が濃くなる。
祠の脇には、旅人風の男が一人、外套の襟を立てて待っていた。
歳は三十半ば。仕立ての良い靴。所作に無駄がない。
男は人目のないのを確かめ、低く名乗った。
「私は公爵家の連絡役だ。……名は伏せさせてもらう。まずは証を」
懐から出したのは小型の印章――ヴァルシュタインの鷲紋。加えて、封蝋の貼られた短い書状。
封は割られているが、紅の印は確かに本物の型。
さらに男は、さりげなくクラウスの視線を受け止めるように続けた。
「エルンスト=ハルトヴィヒ――幼時は、家中で“麒麟児”と呼ばれ、魔法陣理論の初等講義で十三歳から助教補佐。……あなたが、あの方に命を救われたのは九の年、馬車事故の夜半だ」
胸の奥がひくりと震えた。
(そのことを――なぜ)
「公爵閣下は、有為の人材を見過ごさない。とりわけ、エルンスト殿には幼い頃から注目しておられた。……今なお、だ」
言葉に熱はない。事実だけを置く調子。だが、クラウスの中で何かが静かにほどけていく。
(閣下が……今も、エルンスト様を)
「本題に入ろう」
連絡役は一歩だけ近づき、声をさらに落とす。
「村に来た使者が示した条件は、表向きのものだ。内々には――研究が“真に価値あるもの”であれば、待遇は別。場合によっては、“家”に迎えることもある」
「……養子に、ということですか」
喉が乾く音が、自分でも聞こえた。
(それほどまでに、エルンスト様を――)
「断言はしない。だが、道は開かれている。だからこそ、我々も慎重だ。中身を確かめたい。禍石の毒性……それだけか?もしそれだけなら、流石にこの話は難しいのでこのまま立ち去るが……」
問いは静かだが、刃のように鋭い。
クラウスは息を呑み、視線を逸らし――
(言うな。これは研究の守秘だ。あの人が選ばなかった道を、私が勝手に――)
「……それだけ、ではありません」
言葉が落ちた瞬間、唇がひきつり、舌で無意識に濡らした。だがすぐにまた砂漠のように乾き、喉も焼けるように渇いていく。
(言ってしまった……もう戻れない。だが――)
連絡役の瞳がわずかに細まる。
「続けてくれ」
クラウスは喉を鳴らそうとしたが、乾いた音しか出なかった。必死に唾を飲み込んで、絞り出す。
「虚晶石、禍石は……魔力を、吸収します」
風が一瞬止んだように、周囲の音が消えた。
連絡役は短く息を呑み、すぐに表情を整える。
「なんと……それは、本当か!」
背後で、祠の影に寄りかかっていた作業着の男――導いてきた“彼”が、密かに口角を上げた。
(やはり、そうか)
「証が要る」連絡役は即座に現実に戻す。
「覚え書きでも、数表でもいい。再現条件、共鳴の記録、石の変化――何か一つでも。口頭では、押し通せない」
「……もし、それを示せば」
クラウスは一歩踏み出し、苦しいほど真っ直ぐに見つめ返した。唇がまるで水を失ったかのように乾いていくのを感じる。
「エルンスト様の立場は、保証されますか。……相応の場所へ」
「約束しよう。私がここまで出てきた理由は、それだ」
躊躇のない口ぶり。
「それから――異郷の学士、ソウマ殿の処遇も、だ。君が望むなら、彼にも相応の席を用意する」
クラウスの胸に、熱と冷たさが同時に満ちる。
(皆を守れる。エルンスト様も、ソウマ殿も。あの軋んだ村も――)
「期限は明日の夜まで。私は近くの宿にいる。君の善意と、君の判断を信じる」
連絡役は一礼し、闇へ消えた。
残されたクラウスは、拳を強く握りしめる。
(私は……間違っていない。守るためだ。あの人を、未来へ押し上げるためだ)
言い訳ではないと、何度も自分に言い聞かせる。
忠義と、現実と、希望――三つの綱が胸の中で絡み、苦しいほど締め付ける。
それでも足は、研究部屋のある家へ向かっていた。けれど、木戸の前に立つと、胸の奥がざわめいた。
「帰る」という当たり前の行為なのに、戸を開けるだけで背中に冷たい汗が流れる。
家の中に入れば、皆と同じ空気を吸い、何事もなかった顔をしなければならない。
それが、息苦しかった。
震える手で取っ手を掴み、唇を噛む。乾いた喉がひくつき、飲み込んだ唾が刃のように落ちていく。
(大丈夫だ。夜になって皆が寝静まってから、研究部屋へ行き、少し証拠を借りるだけ……それで全員が救われるんだ)
もう夏なのに夜気が冷たい。
クラウスは自室の灯りを消し、闇の中で拳を握り締めた。
「大丈夫だ、間違ってはいない……皆のためだ、エルンスト様のためだ」
そう心の中で繰り返しながらも、唇は渇き、胸の奥に小さなざわめきが居座り続けていた。
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